お出口はございません
足元には古ぼけた薄灰色の石畳が果てしなく敷き詰められ、種々雑多な店があった筈の所は全て、煉瓦作りの壁になっていた。寸分の狂いもなく完璧に組まれたその様が、異質感以外のあらゆる物を拒絶していて、唯一変わっていなかったのは天井の高さぐらいだった。
人の気配は完全に絶えて、周囲は水を打ったように静まりかえっていた。見た限り光源は存在しなかったが、何故か視界はクリアに映った。
「私たちが来た時ってこんな感じでしたか」
「……ンなわけないだろ。映画の撮影か何かなのか?」
「そうだとしても、こんな大掛かりなセットを組むとは思えませんね」
どこまでもどこまでも同じような光景が伸びている。ディズニーランドのホーンテッドマンションで出て来る、無限に続く廊下とよく似ていた。行き着く終点の見えないことが、私に形容しがたい不安感をもたらした。
「そうだ、店の人に訊――――」と言って振り返った先輩が、またもや言葉を失った。
つい先程出てきたばかりのメイド喫茶が、忽然と姿を消していたのだ。入り口があった筈の場所は無機質な壁の一部になっていた。
「これは――――」私も開いた口が塞がらない。
「いやいやいや……。そんな、嘘だろ、こんな事って……だってさっきまでここに――――」
先輩は壁に近づくと、自分の目を疑っているかのごとく、届く範囲に手を這わせ始めた。自分は幻覚を見ていると考えたのかもしれない。
けれどそこから得られる感触は、彼の視覚が間違いでないことを無慈悲にも証明していたらしかった。ひとしきりそうした所で、彼は力なく両腕を垂らして、弱々しい声で呟いた。
「……なあ、これは夢だろ? そうなんだよな?」
「……」
「……頼むよ」
私は何も言えなかった。
先輩の望み通りに夢だと断定出来れば、どれほど気が楽になれただろうか。
いわゆる怪奇と称されるものに遭遇した経験は、これまでにも何度かあった。例えば一年前の夏には、『裏野ドリームランド』なる山奥の廃遊園地に探索に赴き、謎の生命体と遭遇して命からがら逃げ帰ってきた思い出がある。
だがそれらは全て、常に、現実が隣にあった。怪奇と接するまさにその瞬間でも、慣れ親しんだ世界が手の届く所にあった。
かくも現実離れした怪奇現象に出会うのは、この時が始めてだったのだ。私にも先輩にも耐性など無かった。
「どうなってるんだよ……」
答えることは私には不可能だった。
いかなる賢人であっても、それは同じだっただろう。
※
持ちうる数少ない情報と記憶、そして互いの知見を融合させて協議した結果、ここは私たちが来た場所では無いという結論に到達した。いくら壁を叩こうが床に視線を走らせようが、記憶にある地下街の痕跡は一片たりとも発見出来なかったからである。
ならばどこなのかという話だが、そんな事は不明だ。唯一分かったのは、何も分からないということだ。
こうなれば偉大なるGoogleマップのお力に一縷の望みをかけようと思ったが、携帯を取り出すとそこには圏外と表示されている。この瞬間、世界一の便利道具がただのカメラ兼懐中電灯と化した。
「何がドコモだよ。どこでも繋がるんじゃないのかよ」
「……ソフトバンクもダメです、先輩」
そんな馬鹿馬鹿しいやり取りを交わしたのも、言いようのない不安を少しでも和らげたかったからである。
天使長先輩はおでこに手を当てて天井を仰いだ。大天使の一人ラファエルは旅人の守護天使と呼ばれ、道行く人を導いてくれると聞く。だが空の見えないこの状況では、たとえ先輩が本当に天使長であっても、ラファエルの救援を得るのはどだい無理な話であった。
「……取り敢えず、適当に歩き回ってみるか」
それしか選択肢はなさそうだった。
※
「にしてもここはどこなんだろうな」
宛ての無い探索の途中、先輩が不意に呟いた。
「俺が知る限りこの辺にこんな所は無かった筈だ。携帯だって通じない。明らかに変だろ?」
「ええ。これではまるで――異世界に迷い込んでしまったようです」
「……俺も同じ事を考えてたよ。信じたくはないけどな。でもそうだとすれば、まあ色々と説明が付く」
推測するにこの道はどうやら、碁盤の目状に果てしなく広がっているようだった。自分たちは碁盤の辺にいる状況で、一定の間隔を開けて、右へ逸れる道がいくつもいくつも存在している。どれだけ目をこらそうとも、その果ては一向に見えなかった。
しかし一方で現実問題として、無限の空間などある訳が無い。いつかは端へと辿り着ける筈で、そうすればそこを起点に、空間の全体像を予測出来る。だがどれだけ歩けばそこに着くかについては、情報が不足しすぎて予測すらままならない状況だった。
「……リレミト」
ダメ元で呟くが、勿論何かが起こる訳もなく。
「MPが足りない……なんつってな」
隣からの返事にも気力がなかった。
「――――ん?」
先輩が立ち止まったのはその時だ。目を細くして暫く黙っていたかと思うと、いきなり私の肩を叩いて、遠くを指差した。
「後輩、あれを見ろ」
その先に目を向けると、遥か遠くに人影が見えた。
「……私たち以外の人、ですか」
「ああ。何か知ってるかもしれない。行こう。……おおーい! すいませーん!」
右も左も分からない中、彼か彼女の姿はまさしく希望そのものだった。
途中で向こうも私たちの姿を捉えたらしく、大きく手を振りながら、こちらへと駆け寄ってきた。距離が狭まるにつれ、それが三十路くらいの男性であることが分かった。
「おお、おお……! まさか、まだ私以外に生き残りがいたなんて」
驚きと喜びが半々に入り交じった表情を、男は浮かべた。目の下には隈があり、シャツなどはボロボロの破れかぶれとなっていた。
明らかに焦燥していたが、私たちに出会ったことで、気力だけは取り戻せたらしかった。
「えっと……大丈夫ですか?」
「大丈夫かって? 生きてるかどうかで言えば、まあ大丈夫だ」
直後、男の腹の虫が盛大に鳴き声を上げた。
「……お腹は空いているがね」
それを聞いて、天使長先輩がショルダーバッグに手を突っ込む。取り出したのは、朝方コンビニに寄ったとき買ったきのこの山であった。幸いにもまだ未開封である。
「これで良ければ食べてください。……ああ、あとお茶も」
「なんと……! ありがとう、君は私にとっての天使だ」
男はすぐさま食べ始めた。お礼はすれども遠慮をしないあたり、余程空腹だったようだ。
「たけのこ派だったら戦争が起きますよ、先輩」
「ははは。こんな時にワガママは言わんよ」男が答える。
※
男の胃袋が十分きのこの山で満たされたところで、私たちは情報収集を開始した。
男は七録と名乗った。
彼の年齢は私の見立て通り、丁度30歳とのことだった。やけに青白い肌と疲れ果てた雰囲気のせいか、その顔はずいぶんと貧相に映る。
この空間について何か知らないかと尋ねたが、役に立つ答えは得られなかった。どうやら七録氏も私たちと同じく、あのメイド喫茶を出た後、気付いたらここにいたのだという。どれほどの間彷徨っていたのか、自分でももはや分からないようだった。
「やはりあのメイド喫茶があやしいですね」
「うん、それは私も考えていた。しかしどこまでいっても、まったくそれらしいものが見つからんのだ」
幾分か回復した様子の七録氏は、赤いジャケットを羽織っていた。ボロボロの服を見かねた天使長先輩が自分のを貸し与えたのだ。
「私の他にも何人かいたがね。途中でやつに襲われて離ればなれになった。今頃はもう……」
苦々しい口調で七録氏が言った。
「やつ、とは一体?」
「君たちはまだ会っていないのか。なら教えておこう。ここにはな……巨大な、牛の化け物が住んでいるんだよ」
その事を口にする瞬間、元々青白かった七録氏の顔がひときわ青ざめたのを、私は見逃さなかった。彼の証言が嘘ではないと、直感的に悟った。
「牛の、化け物――」
「……例の噂と一致するな。本当にいたのか」
いると言ったのは貴方ではないか、といつもならツッコミを入れるところだが、流石の私もその時は黙っていた。どうやら事態は、予想以上に深刻そうだったからだ。
特にその、牛の化け物とやらが人を襲うのであれば。一刻も早く安全圏への避難が必要だ。襲われた後どうなるのかは不明だが、何も無く無事に済むとは到底思えなかった。
「出口はないんですか」と私が訊くと、
「出口だと?」
七録氏は自嘲的な笑みを浮かべ、応えた。
「そんなものがあったら、とっくにここから出ているとも」