冥土へようこそ
親譲りの鉄砲で、子どもの頃からキジばかり刈っている。雨ニモマケズ風ニモマケズ自治体ノ避難勧告ニモマケズ、ただひたすらにキジを刈る。そういう人に私はなりたい。
という理想がどれほど不可能なものであるかを、齢十にして悟ったのが私という人間である。
第一に、我が家には鉄砲が無かった。マタギの家系ではなかったのである。唯一の武器は縁日で獲得した水鉄砲が二丁。銃刀法違反にはならないだろうが、これではキジはおろかスズメすら殺せない。塩水を使えばナメクジぐらいは抹殺出来たかもしれないが、そんなことをしても、得るものは虚無のみである。
実際の私はと言えば、小説中の世界で冒険をしている気になったりインターネットの海でサーフィンをしたりと、キジ刈りとは無縁の暮らしを送ってきた。それなりの高校に進学し、受験勉強もそれなりに頑張り、そして結構すごいサクラを咲かせて大学生となり、今はこうして手記を書いている。
そんな二十年ほどの人生において、私が出会った変人の数は計り知れない。
いくつか例を挙げよう。
他人を植物で喩える同年齢他学部のN氏、『よろしいか?』を口癖とする竹馬の友S氏、非常に独創的かつ冒険的で、常人には決してマネできない味の料理を作る高校の友人K氏、などなど。ここに紹介したものは氷山の一角に過ぎず、全てを挙げていったなら、それだけで百科事典が完成するだろう。
テーブルを挟んだ向かい側に座る男性も、その中の一人である。
彼は我が経済学部の先輩であり、男の私ですら感嘆せざるを得ないような麗しの美貌を有している。その様相を讃えた『天使長先輩』という渾名が彼にはあるのだが、何を隠そう命名者はこの私だ。一時の迷いによって生み出されたこの呼称は誕生から一年をかけて世間に広まり、今や先輩の同期で知らぬ者はいなくなっている。
『顔がイケメンならば心もイケメン』という少女漫画の法則は彼には当てはまらない。決して悪人ではないのだが、どこか間の抜けた情けなさがある。
あるときは都市伝説を釣り上げようと言い。
またあるときはピエロの仮想で街中を練り歩き。
最近では、そうとは知らずに毒魚を食べて、後でパニック一歩手前に陥ったこともある。彼の武勇伝は留まるところを知らず、こちらも、全てをまとめれば一冊の本が書けてしまいそうな程だ。
いやまあ、そのようなことはどうでもいいのだ。先の事例から分かるように、この人は極度のアウトドア派。事あるごとにインドア派の私を連れ出してくれるので、こうして二人で出掛けているのも何ら不思議ではない。
それよりも注目すべきは、私たちがいる場所である。
「いらっしゃいませ、ご主人様」
衝立で仕切られた個室の中。黒のドレスと白のエプロン、そして絢爛な化粧で自らを飾り付けた女性が、目の前でお辞儀をしている。頭の上には、名前の分からぬフリフリとしたアレ。天井の明かりはほのかにピンクがかっていた。
そう。いわゆるメイド喫茶である。ただし看板ではメイド”風”喫茶となっていた。何が違うのかは、謎だ。
「ご注文はいかがいたしましょう?」
先輩がそれに応えた。
「カツサンドめいどスペシャルと、ウーロン茶をそれぞれ二つで」
「かしこまりました。めいどスペシャルがお二つ、ウーロン茶がお二つ」
「ああ、あとスマイルも追加してください」
うえぇ。
不意に放たれた歯の浮くようなセリフに、私はこっそりと舌を出した。こんな事をサラリと言い放つ、これこそ先輩が天使長たる所以である。髪が金色ならば完全無欠な天使となれるのだが、意地でも染めるつもりは無いらしい。
『黒髪is the best hair。俺は今の髪を堅持する』
以前そんな事を言っていたのを、今でも覚えている。
閑話休題。
「承知いたしました。……ニコッ」
メイドさんよ、貴女も貴女だ。何故に結構ノリノリな感じなのか。あまりうちの先輩を調子に乗せないでいただきたい。
メイドが立ち去っていった後、私は先輩の顔を見て、メイドの微笑と真反対の苦笑を浮かべた。
「何を言っているんですか、貴方は。これではカツサンドを食べる前にお腹いっぱいになってしまいます」
「ふふん。実はな、前々から一度言ってみたかったのだ。今日晴れて夢が叶ったよ」
「にしてもこんな所で試しますか」
「だってよぅ、善は急げと言うじゃないか」
「あれが善なら、世の中ほとんどの事はノーベル賞レベルの善行になってしまうでしょうよ」
先輩は思い付きで行動することに定評のある男だ。突発的な目的の変更を何よりも得意としている。こうしてメイド喫茶を訪れているのも、彼の性格によってそうなったのだ。
本来の目的は別にあった。
大学の最寄り駅から電車に揺られること十数分。某駅の地下街に潜むと噂の『牛の化け物』とやらを捜索し見つけ出すこと。これが我々の、というか先輩が勝手に言い出したミッションであった。その噂の出所を私は知らない。人伝てに仕入れてきたらしい。
私としては眉唾物もいいところなのだが。
『知ってるか後輩。火の無い所に煙は立たないんだ』
一匹見たら三十匹がいるというあの虫的な思考回路によって、天使長の脳内では化け物の存在は確固たるものになったらしかった。
発見次第写真を撮って『ムー』の編集部に送りつけると宣言していた。ちなみにそんな彼の服装は、白いシャツの上に、牛の闘争心を煽りそうな赤のジャケットである。
だが当然の結末として、怪物など見付かる筈は無かった。
件の地下街はこの辺り一帯で最も広大であり、人の往来は絶えることなく、飲食店から服屋まで様々な店が道の両側に並んでいる。どことなくバイオハザードに出てきそうな雰囲気すら漂わせているが、ゾンビとミラ・ジョヴォヴィッチの戦闘に巻き込まれる心配はおそらくなかろう。但し深夜になれば、ゾンビもかくやの千鳥足で行き交う酔っ払い達の姿を、存分に堪能出来るだろう。御利益は特にない。まあ間違いなく言えることと言えば、こんな所に怪物が住んでいたら、既に機動隊あたりに駆逐されているだろうということだ。
このメイド喫茶は、そんな地下街の片隅で見付けた。
以前は見かけなかったので、どうやら最近オープンしたようだった。入店の決め手は腹の虫の鳴き声である。
「――お待たせしました。カツサンドめいどスペシャルでございます」
メイド姿の店員(ちなみにだが、メイド要素は彼女の服装だけであった。食べさせてくれたりはしない。予想と違う)が運んで来たカツサンドは、私のたぐいまれなる識別眼を以てしてもどこがスペシャルであるか見当が付かなかった。
まるで、開封したてのコンビニのカツサンドのようである。しかもどことなくパサパサしている。
「うむ、なかなかに美味いじゃないか」
先輩はそう言って頬張っていたが、私にはやはり普通のカツサンドとしか思えなかった。
「――さて、ここで問題だが」
食事の途中。
「メンチカツは果たしてカツに入るか否か」
先輩が唐突にそんなことを喋りだす。顔の横で指をくるくると回した後、私に突き付けてきた。
「後輩よ、お前はどう思う」
突拍子も無い虚言だ。だが侮るなかれ。長きにわたるこれまでの付き合いにより、私の頭は突然の妄言にも対抗出来るようグレードアップが為されていた。よって私の返答は、非常にスムーズかつスマートなものになった。
「カツに決まっているでしょう。カツと付いているのだから何があろうとカツです」
「その通りかもしれない。だがよく考えてみろ。そもそもカツとは何なのか? 衣を付けて揚げたものをカツというなら、何故アジフライはアジカツではないのか。何故メンチフライではダメなのか」
「――はあ、貴方は何も分かっていませんね。カツをカツ足らしめているものがあるとすれば、それはカツそのものに違いありません。カツはカツだからこそカツなのですよ」
これでもまだ分からないのか?
私は先輩の指先に自分のそれをくっ付けると、ピコンと弾いた。
「――元々カツに定義はない。カツが多くなれば、それが定義になるのです」
雷に打たれたように、先輩はクワッと目を見開いた。
「――何だと。それは、つまり」
「うむ。豚と料理人が望みさえすれば、トンカツはいつでもトンフライになれる。では、何故魚類がカツにならないのかというと――」
パチリ。高らかに指をならす。
「人気という点で、魚は肉にカツことが出来ないと悟っているからなのです」
「そうだったのか。流石は後輩、魚派を敵に回すにはあまりにも的確すぎる推理をありがとう」
それほどでもありますよ。
という返事はお冷やと一緒に飲み下し、代わりに不敵な笑みを浮かべておく。我が灰色の脳細胞はその日も遺憾なくその実力を発揮していた。
※
駄弁りながらの食事だったので、カツサンドを完食するまでには二十分強かかった。
「さあ後輩よ、このあとはどうする」
「カラオケにでも寄って帰りますか」
「いいだろう。俺の美声に酔いしれるがいい」
「いつの間に酒を飲んだんです? 判断力が失われていますよ」
そんな事を言いながら席を立つ。
会計を済ませ外へと出て行く私たちの後ろで、メイドが見送りの言葉を述べた。
「――いってらっしゃいませ、ご主人様」
私が彼女の顔を見ることは無かった。――――後から思えば、あそこで振り向いていればその後の顛末はまた違った物になっていたのかもしれない。
背後から扉の閉まる音がしたのとほぼ同時に、前を行く先輩が立ち止まった。突然のことだったので、私の身体は彼の背中にぶつかってしまった。
「……ったく何なのですか、いきなり止まらないでください」
思わず漏らした私の愚痴は、しかし、先輩の耳には届いていない様子だった。
「――――ここはどこだ?」
それどころか放心した様子で、しきりに周囲を見回す。
「何なんだよここ」
「は?」
「なあ、どうなってるんだよこれ」
「何、意味の分からないことを――」
だが私も、目の前に広がる光景を見た途端、驚きのあまり言葉を失ってしまった。それほどまでに理解不能だったと言えよう。
辺りの様相は完全に様変わりしていた――発達した近代的な地下街から、物語にでも出てきそうな古ぼけた石畳の通路へと変貌を遂げていたのである。