秘するが花~精霊王の献身~後編
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
残された者の慟哭が巻き起こった。皆が皆、蹲って赤子のように泣いた。……どれくらいの時間が経っただろうか? 刹那にも、永遠にも感じる時間が過ぎて、レイナの寝台に突っ伏して泣いていたゼロが、立ち上がった。泣き腫らした目でレイナを一瞥し、ゆっくり後ろに下がる。
「ゼロ? どこに行くのです?」
不穏な気配を感じたのか、アイリスが呼び止める。ゼロに同調するように、涙の一族と一部のエルフが立ち上がった。
「どこに行く? さあ、どこだろうね」
──ここには、ぼくの居場所はない。ゼロの小さな呟きが、やけに耳につく。
「待つのだ、ゼロ!!」
余も立ち上がり、ゼロと対峙する。ゼロの、涙で濡れた瑠璃色の瞳には、悲しみと怒りが渦を巻いていた。
「何で止めるの? ぼくはもう、ここにはいられない。──姉さんのように飼い殺しになるのはゴメンだからね」
ゼロに従う者達も、一様に同じ表情を浮かべていた。
「……そんな、レイナと最期に約束していたではないですか」
「約束なんてしてないよ。ぼくは、ラクリマの生き方を語っただけ。ガラクシアスを王に選んだのは姉さんだ。ぼくがあいつを王に選んだなんて、言ったことある?」
ゼロは拳が白くなる程握り締める。燃えたぎるような怒りが、ゼロを突き動かしているのか。
「ぼくは、姉さんが心配だった。だからあいつに仕えていたよ。……でも、姉さんはもういない!!!!」
ゼロの止まっていた涙が溢れる。言葉も止まらない──止められない。
「何度も、何度もぼくはあいつにお願いしたんだ!! 姉さんを大切にしてくれって!! なのにあいつは傷付けるのをやめなかった!! 姉さんを、死ぬまで利用したんだ!!」
……誰も、何も言えないまま、独白は続く。
「……賭けをしてたんだよ。あいつ、ガラクシアスが姉さんの最期にどんな言葉を贈るか。謝罪でもいい、感謝でもいい、……愛しているでも何でもいいから、姉さんに報いて欲しかった。あいつの気持ち次第で、ぼくは残るつもりで。少なくとも姉さんが望んだとおり、国が落ち着くまでは仕えようって、思ってたよ? …………でも、あいつは来なかった!! 姉さんが倒れてから、時間はあったよね? ずっとあいつに会いたがってたんだよ? 転移なんて便利な異能を持ってるくせに、姉さんはあいつのために身を粉にして、ただでさえ少ない寿命を縮めるくらい尽くしたのに! 死の間際にすら会いに来ない奴を、ぼくは皇帝なんて認めない!!!!」
場を痛い程の沈黙が支配する。
……誰もが思うところがあるからだろう、ガラクシアスを庇う声は上がらなかった。
「ゼロ、落ち着いて下さい。レイナの前で、そんな悲しい事を言わないで。貴方は今、冷静ではありません。ちゃんと話し合いましょう」
縋るようにゼロは、握りすぎて血の滲む手のひらをアイリスに差し出した。
「……こんな時にごめんね。ねぇ、アイリス。ぼくは貴女を愛している。ぼくの手を取って、一緒に来てくれないかな」
薄々分かっていた、ゼロの気持ち。だが、何故今なのだろうか。アイリスは、ゼロの手を拒んだ。
「ふざけないで下さい。ゼロ、わたくし達は家族でしょう? レイナの気持ちを裏切らないであげて」
昔のレイナにそっくりな、昏い諦めの表情で。掴む者のいない手を、ゼロは虚空にかざす。
「……おいで、アン」
ゼロとアイリスを寸断するように闇が生じる。闇の中から現れた、稚い容貌の黒目黒髪の女が、嬉しそうにゼロの手を取った。闇そのもの、空間の亀裂が部屋を覆っていく。
「闇の精霊に魅入られたのか!? ゼロ、今すぐその女から離れるのだ!!」
闇の精霊は精霊界でも異質な存在。ゼロに扱えるような生易しい相手ではない。
「魅入られた? 違うね、アンはぼくの協力者だよ」
ゼロと、ゼロに賛同した者の姿が、闇に阻まれ遠くなる。ゼロは、最後に余とアイリスを見て笑った。不安を掻き立てる、とても空虚な笑顔だった……。
「振られてすっきりしたよ。さよならアイリス、オリヴィアをよろしくね。ルベウスも、元気で。──最期くらい、姉さんに気持ちを伝えればよかったのに」
「ゼロ! 待っ……」
余の、秘めた想いをあっさり見透かして、ゼロは消えた。
────これがゼロとの今生の別れになるなんて、思いもしなかった……。
▷▷▷▷▷
「レイナ……」
ガラクシアスが現れたのは、全てが終わってからだった。眠るように息を引き取ったレイナの亡骸の前で、茫然自失のガラクシアスが花束を取り落とす。無数の花びらが、乱れ散った。
花束は血のように赤い薔薇を中心に、青と紫のヒヤシンス、白いダリア、桃色の薔薇に同色のガーベラ、カーネーションがふんだんに使われ、申し訳程度の霞草が添えられている。……種類や時期もばらばらで、やたらと寵姫の色が目に付いた。見栄えの良い花を集めただけ、豪華さを重視した花束で、レイナが喜ぶとでも?
レイナは、政治では必要だから華美な格好をしていたが、本当は野の花のような、可憐で素朴な花を好む。
────お前は、そんな事すら知ろうとしなかったのか!!!!
衝動的に、余はガラクシアスの胸倉を掴んだ。途端に花ではない甘い移り香がふわりと香り、あまりの怒りに、余の視界が白く染まる。
「ガラクシアス。今まで、誰と居た」
「スピアーナに相談して、花を選んでいたんだ……」
元の里の者達が驚愕し、居合わせた全員がガラクシアスに非難の目を向ける。仮にも父親の情けない姿を見せたくなかったのだろう、アイリスがオリヴィアら子供達を連れて退出した。
「…………こんな時でも寵姫優先とは、呆れ果てて言葉も出ぬ」
こんな男に、燃やす価値も殴る意味もない。余が手を離すと、力の抜けたガラクシアスは無様にもその場に尻餅をついた。
「スピアーナは、善意で協力してくれただけで……」
余はガラクシアスの言い訳を遮った。レイナの遺した小瓶を押し付けると、ガラクシアスは目を見開く。
「レイナがお前に遺した若返りの秘薬だ。大切に使え。ゼロは、一族と共に出奔した。異種族とお前を繋いでいたラクリマは、もう誰もいない」
『悪いが、我も同盟から抜けるぞ。飼い殺しになるのは御免被る。あれだけ尽くしたレイナの死に目にすら会いに来ない男を、皇帝とは認めたくない。……ゼロと同じ気持ちだ』
古代竜が去って行く。それが引き金となったのか、同盟の主だった面子も後に続いた。……ゼロが撒いた不信感の種を芽吹かせたのは、決定打となったのはガラクシアスの行動だ。自業自得、半数の異種族が残ってくれただけでも良い方だろう。
「ルベウス……僕は」
「レイナの最期の頼みだから、余とアイリスはお前の元に残ろう。……だが、もう気安く余の名を呼ぶな」
ガラクシアスに背を向ける。レイナの葬儀に埋葬、ゼロの捜索と、すべき事は山積みで、こんな男にいつまでもかかずっている場合ではない。
「……レイナは、ずっとお前に会いたがっていた。お前の今後を気に懸けていた。最期の別れくらい、ちゃんとしてやってくれ」
「あああああああああああああああああっ!?」
背後から悲痛な慟哭が響き渡る。……何もかも、遅すぎだ。
▷▷▷▷▷
同盟は破綻したも同然だった。
次々と離れていく異種族と属国を繋ぎとめようと、ガラクシアスも手を尽くしているようだが、大陸全体が大いに乱れた。これで余の守りが無くなれば、冗談ではなく国が終わる。
レイナとの約束がある限り、余は帝国から離れるつもりはないが、疑心暗鬼に取り憑かれたガラクシアスは聞く耳を持たぬ。余との繋がりを強化しようと、やれ側室を下賜するだの、領地を与えるだの、煩わしい事この上ない。『根本的なところで人間不信』と評したレイナの言葉を思い出す。
同盟や婚姻といった契約がないと、不安なのだ。
余はたった一つ、レイナを看取った離宮を貰い受け、世俗から離れて一人引き篭もる。ただ結界を維持するだけの日々は、虚しかった……。
守りに特化した、侵入者を拒む複雑な回廊はレイナを守るために余が設計したもの。アイリスからは苦情が出たが、ゼロは迷路のようで楽しいと喜んでいた。
回廊の先、パピの花が咲き乱れる庭園で、レイナとオリヴィアとよく遊んだな。メイとオリヴィアが花を摘んでいるのを、アイリスと一緒に微笑ましく見守った事もあったか。なのに、今や誰もいない……。
アイリスはオリヴィアに掛かりきり、ゼロは見つかる気配もない。メイを始めとした里の者達も、帝国から出て行った。かつて、余やレイナ達が暮らしていた森に病院を建てるそうだ。レイナのように、病で苦しむ人達を救うのだと。
……皆が未来に向かって生きているのに、余だけがレイナが死んだ時のまま、時を止めている。胸にぽっかり穴が空いたような喪失感が余を蝕んでいた。幸せな思い出を思い返すほど、虚しさは増して行く。『さむい』とはこんな時に使うのか? 余は、凍えてしまいそうだ……。
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「久しぶりですね、ルベウス」
ある日、久方ぶりにアイリスが余を訪ねて来た。離宮の外では確かに時間が流れているようで、健やかに成長したオリヴィアと一緒に、後ろ盾を無くした幼い皇子皇女の面倒を見ているらしい。
「ガラクシアスは婚姻政策を進めていますが、レイナが死んで正妃は娶っていません。主のいない後宮は酷く荒れているのです……」
あれだけ気に入っていた寵姫も、とっくに手放しているそうだ。まあ、余には関係のない事だが。
「子供達は可愛いですよ。……レイナとゼロの、小さかった頃をよく思い出させてくれます」
アイリスは、泣きそうに顔を曇らせた。
「わたくしは、ずっと後悔しています。どうして、あの時ゼロの手を取らなかったのか。あの子は強い子だからと、病気のレイナを優先して、ゼロの心の闇に気付いてあげられなかった。失ってから……今更、気付いてしまった。わたくしは、一人の男性として、ゼロを愛していたのです……」
余を含めた異種族がラクリマに感じる愛情は、庇護欲に近い。子を守る親の感覚に惑わされ、異性として愛してしまっても、気付かないまま手遅れになるから、異種族がラクリマと結ばれる例は少ない。
「ゼロは、まだ見つからないのか」
ガラクシアスもずっと捜索しているようだが、ゼロはおろか、他の一族すら見つかっていない。
……闇の精霊は、隠密や隠蔽の能力に長けている。更に、性格は冷酷で凶悪、気紛れな者が多く、悪魔と同一視される種族だ。ラクリマの恩恵があるからと楽観視は出来ない。
ゼロを誑かしたあの女は、闇の精霊の中でも上位の存在のようだった。ゼロを見つけ出すのは、絶望的だ。──あの、忌まわしい黒目黒髪が忘れられぬ。
「……次にあの女に出会ったら、八つ裂きにして燃やし尽くしてやる!!」
心が、荒んでいく。怒りに荒れ狂う余を、アイリスが心配そうに見ていたが、余は気付かなかった。
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アイリスが訪れてから間を置かず、また懐かしい顔が現れた。オリーブの花冠が映える爽やかな緑髪に、真紅の瞳。美しく成長しているが、余が見間違えるはずがない。
「……オリヴィア」
パピの花のブーケを持ち、白い婚礼衣装に身を包んだオリヴィアが余の胸へと跳びこんで来たのだ。
ガラクシアスはしつこいくらい余に縁談を勧めてくるが、全て断ってきた。いくら子が増え、後継者には事欠かないとはいえ、あれほど溺愛した長子のオリヴィアさえ差し出すのか!!
「余が口をきいてやる。ガラクシアスの……皇帝の元へ帰れ」
「嫌です。父には、貴方を籠絡してこいと言われましたが、そんなの知った事じゃない。私は、自分の意志でここに来ました」
「……お前は、まだ子供だろうが。いいから、戻れ」
「戻りません。私はもう18、大人です。お母様だって、14で結婚したとアイリスに聞きました」
余がすげなく断っても、オリヴィアは引かない。強情なのは、レイナ譲りか……。
「ルベウス様。お母様との約束を守らせて下さい」
屈託のない笑顔を向けられ、余は、思わずオリヴィアの手を取っていた。……レイナがあの世で笑っている気がする。
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オリヴィアは、余の心の寒さを、孤独を和らげてくれた。レイナの若返りの秘薬もあり、人にしては長い生を余と一緒に歩んでくれたのだ。そして、これもレイナの加護だろうか。異種族と親和性の高いラクリマでしかなし得ない奇跡──純粋な精霊族である余の、子供を産んでくれた。
「ルベウス、私はもう充分生きたわ。お母様が遺してくれた若返りの秘薬は、精霊の血を引くこの子の、将来のお嫁さんのために残してあげようと思うの」
ラピスと名付けた我が子は、精霊の血を濃く受け継いでいる。精霊の特徴で、肉体は精神に引きずられる。愛情をかけて心の成長を促してはいるが、やはり普通の人の子に比べると成長が遅く、寿命も長い。嫁取りは大変そうだ。
「一人は、寂しいからな……」
「貴方は大丈夫よ、この子がいるもの。孫だってきっと生まれる。ここは、もっと賑やかになるわよ」
「その時は地の精霊に頼んで城を増築しよう……オリヴィア、こんなにも心があたたかいのはお前のおかげだな」
三人の穏やかな時間が過ぎ、やがて、オリヴィアも逝ってしまった。享年158歳、老衰だった……。余はオリヴィアの亡骸を庭園に、パピの花の下に埋葬する。もう寒くはならなかった。
若返りの秘薬を分かち合ったオリヴィアとは違い、ガラクシアスは若さを独占した。未だに皇帝として君臨するガラクシアスは、オリヴィア亡き後、何十人もの姫を余に宛てがってきたが、全て追い返す。ガラクシアスからすればラピスは孫だ。そのくらいの繋がりがあれば、充分だろうに。あいつは拗らせたまま、変われなかった。
遅めの反抗期に入ったラピスとは上手く行っていないが……これも自立だろうと、あたたかく見守る。
「父上を見ていると、イライラする。いつまでも死んだ人を想ってうじうじと……母上が可哀想だ!!」
誰からか、レイナの事を吹き込まれたらしい。……余のレイナへの想いはとっくに昇華され、恋情ではないもっと崇高な愛へと変化しているのだが。ラピスはオリヴィアそっくりで意固地だから、何を言っても無駄か。
「そんなに好きなら、攫ってしまえば良かったんだ!! 余は、愛する人が出来たらどんな強敵にも渡さない。必ず奪ってみせる」
──最期くらい、姉さんに気持ちを伝えればよかったのに。
ラピスと、ゼロの面影が重なった。
「無理矢理攫って閉じ込めても、心は得られぬぞ? 秘するが花、愛する者のために退くという選択もあるのだ」
衝動に従い、レイナを奪っていたら。少しは長生き出来たかもしれないが、心は壊れていただろう。
『ありがとう────さようなら』
レイナが、あんな心安らかな笑顔で逝く事はなかった。愛しているからこそ、余は己の心を殺し、想いを秘める道を選んだのだ。
「お前にも、いつか分かるよ」
少なくとも、余は満足している。
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弔いの……鎮魂の鐘が鳴る。皇帝ガラクシアスの崩御を知らせる音色が、国中に響き渡った。
「……長かったな」
レイナの残した涙はとうに尽きている。それでも執念のなせる技か、ガラクシアスは三百年以上、長きに渡って支配を続けた。しかし、それも終わりだ。
「レイナ、約束は果たしたぞ」
『ルベウス。これからも陛下を守ってあげて。陛下が生きている間だけでいいの。お願い……』
余の結界は、決して何者にも破られなかった。内部は知らないが、外敵からは守り抜いた。
────だから、もう余も終わっていいだろう?
愛したレイナは早世し、友にして良き理解者だったアイリスは別の道を歩んでいる。余に寄り添ってくれたオリヴィアも、もういない。ゼロの事は唯一の心残りだが……ラピスも余の手を離れ、立派に成長したのだから、ゼロも自分の生を全うしてくれたと信じよう。
庭園のパピの花園に足を踏み入れる。レイナやゼロ、アイリス達の思い出が沢山詰まった、オリヴィアが眠る場所で終わろうと決めていた。余は、白い炎────浄化の炎を召喚する。
精霊王は不死に近い存在だが、終わる方法はある。浄化の炎は、終わりと再生の象徴。『ルベウス』という存在は消えても、新たな魂、次代の炎の精霊王が精霊界に産まれるだろう。
一度解き放てば、白炎は一瞬にして余の纏う肉体を焼き払い、庭園を侵食するはずだ。パピの花を飲み込み、オリヴィアの墓標を取り込み、土さえ燃料に炎は駆け巡る。白い灰が花びらのように舞い、それすらもすぐに蒸発するだろう。後には余の力の結晶──精霊石だけが、残される。
精霊石を使えば、この城を守る結界を維持する事が出来る。結界は余が亡き後も、ラピスやその家族を守ってくれるはず。ガラクシアスが死んで大陸は荒れるだろうが、ラピスは権力や皇帝の座には興味がない。どこにでも、城ごと避難すればいい。
例え天空だろうと移住を可能にする、莫大な力を精霊石は秘めている。……憂いる事など、何もない。かけがえのない記憶と想いだけを持っていこう。
さあ────愛しい者の元へ、還ろうか。