裏切りの花~黒い瞳の傍観者~後編
闇から闇へと渡るアンの能力で、ぼくらは隠れ里へ移動する。話し合いの結果、誰にもばれないように廃村を少しずつ改造して作っておいた里だけど、活用することになるとはね。
闇から一歩足を踏み出した拍子に力が抜けて、ぼくはその場に頽れる。地面に両手をつくと、次から次に溢れ出す涙が、乾いた土に染みを作った。
「ゼロ……」
「大丈夫か?」
大丈夫なわけ、ないじゃないか。
「お願いだから、ぼくを、一人にして」
皆、心配してくれているんだろう。だけど、今はその気持ちが辛い。
「でも……」
「一人にしてあげよう。ゼロはたった一人の姉を亡くした……家族と、決別したばかりなんだ」
「……そうね。一人になりたいわよね」
同胞達も、エルフ達も、ぼくを気遣って立ち去ってくれた。残されたぼくは、誰にはばかることなく、大声を上げ、泣いた。
「姉さん……姉さん! 最期の願いを叶えてあげられなくて……裏切って、ごめんね」
両親を亡くした時も、姉さんは気丈にぼくを慰めてくれた。どんなに喧嘩をしても、折れてくれるのは姉さんの方だったね。
小さい頃から姉さんは熱を出して寝込んでいても、ぼくが見舞いの花を持って行くと、いつも笑って受け取ってくれた。どんなに苦しんでいても、ぼくを邪険にすることはなくて……優しい姉さんが、ぼくは本当に大好きで。だからこそ、どうしてもあいつが、ガラクシアスが赦せなかった……!!
「なんで姉さんの最期を見届けてくれなかったんだ? 姉さんに、思いの一つも返しやしない、あんな男のどこが良かったの!!」
ぼくは罪悪感に苦しんで、姉さんを失った悲しみにのたうち回った。記憶が曖昧で、はっきり覚えていないけど、泣きながら姉さんに謝って、ガラクシアスに恨み言を吐いてばかりいた気がする。
「う、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
喉が嗄れんばかりに、ひとしきり泣き叫んだ。
もう一生分の涙を流した気がするのに、涙は止めどなく溢れ出す。
「…………アイリス」
ぼくはポツリと呟いた。叶わなかった恋が悲鳴を上げている。心の支えも希望も崩れてしまった。何もかも、無くしてしまったぼくだけど……こんなに悲しむのは、今だけさ。きっと立ち直るから、まだもう少し、泣かせてほしい。
……どれくらいへたり込んでいただろうか。後ろから伸びてきた手が、涙を拭う。
「アン、傍に居てくれたんだ? ……情けない所を見せちゃったね」
白い腕が、力強くぼくを抱きすくめる。長い髪がぼくの視界を隠すように垂れ下がった。背後のアンの表情は分からない。何となく悲しんでいる気がするのは、ぼくらに目には見えない繋がりが──連帯感があるからだろうか?
アイリスとアンは全然違う。アイリスといると胸が騒いだけど、アンといると心が凪いでいくんだ。きっと、ぼくの一番の理解者はアンだろう。
「アン、お願いがあるんだ。誰にも見つからないように、ぼくを……ぼくらの姿を、隠してくれないかな?」
分かったとでも言うように、ぼくの目をアンの手のひらが覆い隠す。泣きすぎて腫れぼったくなった瞼に、冷たい手の感覚が気持ちいい。心安らぐ闇が意識と視界を一瞬で奪い去り、ぼくは深い眠りに落ちた。
────次に目が覚めた時、ぼくの瞳は瑠璃色から闇に染まったような黒に変わっていた。
▷▷▷▷▷
上を向く。光に当たった瞳は、元通り瑠璃色に輝いた。
下を向く。影に入った瞬間、瞳は黒く染まる。
鏡を見ながら何度も試すけど、何だか変な感じ。
闇の精霊である、アンの力が及ぶ範囲だけ、ぼくらの瞳は色彩を変える。これも一種の擬態なのかな?
アンのおかげで、ぼくらの最大の特徴である瑠璃色を隠せるし、隠密効果が付与されるため、精霊の捜索からも逃れられる。ぼくらが帝国に連れ戻される可能性は格段に減った。
驚いたのは、エルフ達の姿だ。
どうやら精霊に近しいエルフの方がアンの力に馴染みやすかったようで、色素の薄い彼らは徐々に黒く染まっている。その内、髪も肌も染まりきって真っ黒になってしまうんじゃないかな?
そうなったらもう、エルフではなく“ダークエルフ”とでも言うべきだね。ラクリマはある程度出歩けるようになったけど……エルフの皆はしばらく身を隠して、新種として名乗り出た方が良いかもしれない。まあ、ぼくらには時間がある。何も問題はないさ。
「ねえ、ゼロ。貴方はこれからどうするの? ──ガラクシアスに、帝国に仕返しするつもり?」
一族の一人が不安げに尋ねてくる。ラクリマは争いを好まないからね。ぼくが何かしでかすとでも、思っているのかな?
「ぼくは、何もしないよ? ルベウスの結界もアイリスの風も健在で迂闊な介入は出来ないし、可愛いオリヴィアだっているじゃないか」
ぼくは、何もしない。ただガラクシアスを、ソーリスの動向を傍観するだけさ。皆、腑に落ちないって顔をしていたけど、その内わかるよ。ぼくは、嗤う。あまり感じの良いとは言えない笑みだ。
…………ぼくの思惑通り、大帝国は緩やかに衰退を始める。
▷▷▷▷▷
長い時を、ぼくは傍観に費やした。
姉さんはガラクシアスを支えるために、万全の備えを整えていたね。だけどぼくの残した言葉が、ガラクシアスの愚かな行動が、姉さんの愛を覆す。……正直、ぼくもこんなに早く毒が回るとは思ってなかったよ。
ガラクシアスが姉さんの臨終に立ち会わず、寵姫と過ごしていた事実は、醜聞として駆け巡った。ガラクシアスの真意がどうであれ、姉さんを慕う人達の怒りを買ったのさ。離れてしまった人の心は戻らない。ぼくも散々苦しんだから、知ってるよ。
ガラクシアスが大帝国を保つために奔走するのを、ガラクシアスが主役の愛憎劇を、ぼくはアンの闇を通して見続けた。
古代竜を筆頭に、同盟から抜ける者は後を絶たないし、臣下や属国でも残った者の不信は消せやしない。姉さんを慕った人達ほど、ガラクシアスを憎み、責め苛む。姉さんの愛情が裏返り、牙を向いたんだ。ルベウスとアイリスは姉さんの遺言を守るために残っただけで、かつての気安い関係にはもう戻れない。
────この流れは、最早誰にも止められなかった。
姉さんが育成していた人材がろくに手を貸してくれなくなったから、嫌われ役も外交もガラクシアスが一人でこなさなきゃいけない。慰めてくれた側室は自ら手放すことになり、愛してもいない妻を次々に娶った。
ガラクシアスにとって最も古い付き合いの、ソーリスの里の皆も、とうとう帝国を離れた。心を許せる人が誰もいなくなって初めて、姉さんの愛情の尊さに、苦しんでいた事実に思い至ったようだけど……。もっと報いを受ければいい。姉さんの痛みを、悲しみを、深い愛情とともに思い知れ。
分け合う者のいない若返りの秘薬は、結果的にガラクシアスを長々と苦しめることになる。異種族の中でも、長命種はほとんど去って隠れた後。エルフは次代を担うはずだった若手がぼくらと一緒に出奔してしまったから、ガラクシアスに手を貸す余裕は無い。
唯一、拠り所になれるはずだったオリヴィアはルベウスの元。……これであいつもぼくと同じ。夢も希望も愛した人も、全て失ってしまったのさ。
他の一族はダークエルフの皆と結ばれた者以外、天寿を全うして逝ったけど、ぼくは若返りの秘薬を飲み、生き続けた。ルベウス達の事も、見守っていたよ。結界に侵入したら見つかってしまうから、たまにこっそり影から覗いていただけだけど。
ルベウスは、最初こそ見ていられなかった。だけど、オリヴィアと結ばれてからは、子供も生まれて幸せそうで、笑顔が増えたね。……良かった。やっぱり、オリヴィアには感謝してもしきれない。ぼくはずっと、ルベウスに報われて欲しかったんだ。
アイリスは相変わらず。ガラクシアスの子供を、特に母親を亡くした不遇な子供達を、忙しそうに、楽しそうに育てている。きっと、何だかんだ幸せなんじゃないかな。……やっぱりぼくがいなくても、二人は大丈夫なんだね。少しだけ、寂しくて虚しい。
────やがて時は巡り、ガラクシアスにも死が訪れようとしていた。
▷▷▷▷▷
皇帝崩御の鐘が、国中に響き渡る。……さすがに、可哀想だと思うよ。あと数分保つかどうかだけど、ガラクシアス、まだ生きてるのに。
後世に語り継がれる大帝国の皇帝に登りつめて、長生きして、子孫も数え切れないくらいいるのに、一人で逝こうとしている。……何て哀れなんだろうね。
「アン。ぼくを、ガラクシアスの所に連れて行ってくれるかな?」
笑顔で腕を引くアンに連れられて、ぼくは久しぶりに帝国へ……懐かしい城に顔を出す。闇の中でむせび泣くガラクシアスと目が合うと、顔色が変わった。濁った瞳に熱が宿ったんだ。
「レ、イナ……僕の、手を、取って……」
ガラクシアスには背後のアンも目に入っていない。ぼくを姉さんだと思いこみ、延命コードを引きちぎって、必死で皺だらけの手を伸ばす。ぼくはそれを醒めた目で見ていた。
「……耄碌したね。姉さんと、ぼくの区別も付かないのか。最期くらい見届けてやろうかと思ったけど、やっぱりやめた」
冷たく言い捨てると、ガラクシアスは愕然とする。確かに姉さんだったら喜んで手を取っただろうけど。姉さんの献身を、当たり前だと思っている……最期まで傲慢な男だね。
「レイナレイナレイナ!! 行かないで、一人にしないで!! ありがとうって、ごめんなさいって、君を、ずっと愛してるって、伝えたかったんだ……!! お願いだ……もう君と離れたく、ないよ……」
「今更遅い」
──姉さんが生きている間に言ってほしかったよ。そしたら、ぼくは今もこの国に仕えていたかもしれない。思わず泣きそうになって、ぼくは一度闇の中に引っ込んだ。
「う、ああああ、ああっ!!」
ガラクシアスは痙攣する手を闇に向かって伸ばし続け……。
「レイナ……僕の手を……取ってよ……」
そう呟いて、力尽きた。これが本当の、ガラクシアスの最期。
ぱたりと、掴む者のない腕から力が抜ける。血走った目玉は、瞳孔が開いていた。ぼくは闇の中から寝台の傍に降り立つと、ガラクシアスの目を閉じてやる。胸元を探り、万が一にも争いの元にならないように、青い小瓶を回収してから静かに両手を組むと、一族の作法で冥福を祈った。
「さようなら…………義兄さん」
ガラクシアスは、義兄さんは、最期まで独り舞台から逃げ出さなかったね。生きている内に、たくさん苦しんだ。だからもう解放されていいよ。──ようやく、ぼくも赦すことが出来る。
「ぼくは、義兄さんに報いを望んで、義兄さんはその報いを充分受けた。……だから、次はぼくの番だ」
『ゼロ、お願いがあるの。私の代わりを務められるのは、貴方しかいない。私の代わりに陛下の行く末を見届けて、出来れば、陛下に力を貸してあげて。揺るぎない大帝国の完成まで、あと少しよ。少しだけでいいの。基盤さえ整えたら、ラクリマの加護が無くても陛下ならやっていける』
姉さんに頼まれたのに、ぼくは何もしなかったね。
ぼくがやり切れなさを呑み込んで、義兄さんに手を貸していたら。ラクリマが隠れて生きる必要は無くなり、醜い争いが起きる事もなく、異種族や人間が手を取り合える理想郷が完成していたはずだ。
全てを台無しにしたのは、ぼく。
全部分かっていて、何もしなかった。傍観を続けたぼくの罪は誰よりも重い。
「死んだら何も出来ないって、姉さんはよく言ってたね。だからぼくは、これからも生きて償うよ。何年、何百年かかるかわからないけど、自ら死に逃げたりしないさ」
義兄さんが死んだ時。ぼくはルベウスの死も感じ取っていた。本当はもっと早く終わりたかったんだろうけど、ルベウスは律義に約束を果たしたんだ。今頃、姉さんやオリヴィアの元で笑っているはずさ。
アンの冷たい手がぼくの頬に触れる。無意識に流していた涙を、拭ってくれたんだ。
「ありがとう、アン。君はずっとぼくの傍に居てくれたね。……これからぼくは、長い時をかけて償わなければいけないんだ。それでも、ついてきてくれる?」
嬉しそうに笑みを浮かべたアンの手を取り、共に闇の中へ沈んでいく。…………やらなくちゃいけない事があるから、傍観者はもうお仕舞い。
きっと、これからぼくはたくさんの命を見送って……失っていくんだろう。光の当たらない闇の中を二人で渡り歩こう。止まることは、投げ出すことは赦されない────それが、ぼくの罰だから。
箱庭はもうない。あの幸せな時は二度と帰ってこない。大罪人のぼくでは、大好きな姉さんやルベウスの所に逝けそうにないしね……。