幻の花~独り舞台の皇帝~後編
「……レイナ」
大事に抱えていた花束を取り落とす。寝台のレイナは、ただ眠っているだけに見えた……。
とめどない後悔に思考が停止し、泣くことも出来ずにいた僕の胸倉を、ルベウスが乱暴に掴み上げる。何かを察したのか、涙で濡れたルベウスの顔色が変わった。
「ガラクシアス。今まで、誰と居た」
「スピアーナに相談して、花を選んでいたんだ……」
皆が……居合わせた全員が僕に非難の目を向ける。アイリスはオリヴィアやメイを隠すように退出していく。信頼が失墜したのをひしひしと感じる。ルークスの集落から追い出された時のようだ。
「…………こんな時でも寵姫優先とは、呆れ果てて言葉も出ぬ」
ルベウスから失望された。力の抜けた僕は、その場にへたり込んだけど、誰も手を貸してくれそうにない……。
「スピアーナは、善意で協力してくれただけで……」
ルベウスは僕の弁明を遮った。突き出された拳に殴られるかと覚悟を決めたけど、綺麗な小瓶を手渡されただけだった。
「レイナがお前に遺した若返りの秘薬だ。大切に使え。ゼロは、一族と共に出奔した。異種族とお前を繋いでいたラクリマは、もう誰もいない」
そういえば見渡した中に、あんなに姉想いだったゼロがいない。
『悪いが、我も同盟から抜けるぞ。飼い殺しになるのは御免被る。あれだけ尽くしたレイナの死に目にすら会いに来ない男を、皇帝とは認めたくない。……ゼロと同じ気持ちだ』
櫛の歯が欠けるように、仲間だった者が去っていく。みっともなく引き留める事は出来なかった。残された面々の表情も苦く、不本意だと訴えているようだ。
「ルベウス……僕は」
「レイナの最期の頼みだから、余とアイリスはお前の元に残ろう。……だが、もう気安く余の名を呼ぶな」
ルベウスが僕に背を向ける。何があっても、ゼロやルベウス達は僕を裏切らないと思っていた。無意識に甘えていたんだ……。僕らの関係は、レイナという楔があったからこそ繋がっていたのに。
「……レイナは、ずっとお前に会いたがっていた。お前の今後を気に懸けていた。最期の別れくらい、ちゃんとしてやってくれ」
「あああああああああああああああああっ!?」
思い出したように涙が溢れ、僕は嗚咽を止められない。この日、僕は多くのものを失ってしまった。ルベウスと僕との間には亀裂が走り……この亀裂が修復される事は、二度となかった。
……どうして、僕はレイナを大切にしなかった? 死んだら、何もしてあげられないじゃないか。レイナは僕にとって、願いを叶える魔法の花だったのに。みすみす散らしてしまうなんて……。
────それからも、僕の元を去る者は後を立たなかった。異種族以外にもレイナを慕っていた臣下や侍女が、ゼロの残した言葉を人伝に聞いて辞めていった。……スピアーナは、僕自ら手放したよ。彼女を責める気はないけど、もう一緒にはいられない。最後の務めを、きっと彼女なら果たしてくれる。
離れそうな縁を繋ぎ止めるのに、僕は忙殺された。出来る事はなんでもやったし、紛争を回避するためにレイナの残してくれたリストを片手に飛び回る。
面と向かって罵倒されたり、陰口を叩かれても虚勢を張り、決して誰にも弱みを見せないというのは、思いの外辛かったよ……。『嫌われ者』の役を買って出てくれていたレイナもこんな気持ちだったのか。
重責に押し潰されそうになるが、レイナはもういないから、冷酷さも寛容さも僕が一人で使い分けなければならない。支えてくれるはずだった人も、僕が愚かだったせいでいなくなった。
正妃の座は空席にしたまま、婚姻政策も同時に進めていく。馴染みの側室を下賜する傍ら、異形の姫らが参入する。僕の逃げ場だった後宮は荒れに荒れたけど──もう、どうでもいいよ。
遂には、最も古い付き合いだった里の仲間達さえも離れていくと知って、僕の心が軋んだ音を立てる。
「スピアーナの悪意の片棒を担いだ事実は、消えませんから」
罪悪感の滲む、疲れた顔をしたメイの父親が言う。
「悔いても悔やみきれません。正妃様は私達がどんなに冷たい対応をしても、裏切らずに里の発展に貢献してくれたのに。炎の精霊王様は、未だに結界を解かず、我々を守って下さっている。でもこのままここにいては、自分を……自分達を、許せそうにないのです」
「陛下が嫌いになったわけじゃないよ。正妃様にね、ご恩返しがしたいの。だからわたしね、アイリス様にいっぱいお勉強をおそわったよ。本もたくさんもらった。大きくなったらりっぱなお医者さまになる。正妃様を苦しめた、病気を無くしたいんだ……」
……純粋な瞳で夢を語るメイを止めるなんて、出来るわけがない。里の面々を見送った後で、僕の中の何かが壊れる。
愛のない結婚を繰り返し、臣下を繋ぎ止めるためなら簡単に側室も妾も下げ渡した。生まれる子供は政略の駒。気付けば、僕は独りぼっちだった。
誰もいない舞台の上で、踊り狂う道化師──それが、僕の現実。
分け与える者のいない若返りの秘薬を大切に、少しずつ飲む。……次第に僕の心は凍っていった。残ってくれたルベウス達さえ信じ切れず、かといってルベウスという生命線を手放すわけにはいかないから、必死でしがみついたよ。領地も爵位も城も姫も何でも与えると言ったのに、求められたのは離宮だけ、すげなく断られて僕は焦った。
「今、炎の精霊王に去られたら、不味いんだ。オリヴィア、君は彼に可愛がられていたよね? どうか炎の精霊王を篭絡して……帝国に縛り付けてくれ」
切羽詰まった僕は、あんなに愛しかったオリヴィアさえも、彼に捧げる。
「お父様はそれでいいのですね? ならば私はルベウス様の元に参ります。……さようなら、皇帝陛下」
心の中に残っていた最後の温かいものが、砕けて消えた気がした……。
◁◁◁◁◁
「おぉっ…………!!」
渇いた笑いしか出ない。こんなにも寒々しいのは、居所がないのは、僕のせいじゃないか……!! 目を逸らしていた現実が、一気に襲いかかる。
『花も私もあげる。でも、私はおまじないなんて信じないわ。貴方の願いは私が叶えてみせる』
『勿論ですわ! あたし、いえ、あたくしは貴方のために傍に居ます!!』
『ぱぁぷ! だいすき~』
レイナとスピアーナ、オリヴィアの思い出が次々に浮かんでは消える。皆、僕を愛してくれていた。僕もまた、愛情を持っていた。なのに僕は両親に裏切られた傷に囚われて、誰にも『愛している』の一言さえ言わなかったんだ……。
自業自得としか、言えない。
僕は全てを売り払って皇帝の地位を得た。その代償が、孤独だ。
「皇帝陛下! ご決断を!!」
「跡継ぎを指名して下さい」
「私を」「俺を」「僕を!」「わたくしの息子を!」「貴方の孫を!」「」「」「」
………………今も大切に取っている小瓶は、ぼくの胸元にある。レイナの残してくれた若返りの秘薬はとっくに無くなって、僕の寿命も尽きる寸前だけど、まだ死ぬわけにはいかないようだ。
レイナ、君は平和を愛して、僕の理想に賛同してくれたね。このままでは醜い争いが起こる。異種族も複雑に入り組んだ相続争いを回避するためには、今一度、涙の一族の手を借りないといけない。
「次の……皇帝は、正妃の……涙を……手…………た、者に…………」
回らない舌を動かして必死に伝えようとした。だけど、僕の言葉は、誰にも届かなかった。
「正妃の、涙……それは何ですの!?」
「聞いたこともないな。アイテムの名前か?」
レイナがこの世を去り、ゼロが一族ごと姿を隠して長い時が経っていた。……ラクリマを知る者は、この場にはもう、誰もいないのか。
「死にかけの、弱り切った陛下では話にならん! もういい、探しに行くぞ!!」
「抜け駆けさせるな! どけ、邪魔だ!!」
「宝物殿に直行せよ! 第三十六王子の命令だぞ!!」
「あの王冠が怪しいわ……」
「宝飾剣かもしれないが、陛下はとっくに手放していただろう? 探すのは骨が折れる」
「見つからない時は……」
「……ああ、戦争だな」
僕は、最期に身内同士の骨肉の争いを止めたかっただけなのに……大陸中を巻き込みかねない、戦争の火付け役になってしまった!!
違う、そうじゃないんだ!!
「…………!!」
訂正しようとしたけど、遺言を聞いたからには僕の事など、どうでもいいのだろう。皆、先を争うように去って行く。ガランとした部屋に一人取り残された僕。明かりさえ持ち去られて、何も残っていない。
僕はまだ、生きているんだよ……。
沢山の妻を持った。子供も、孫も、その子らも、数え切れないくらい産まれた。それなのに、なんで僕は絶望の中、一人で死にゆこうとしているんだ?
嘆く僕が、滂沱の如く涙を流していたら、不意に闇が蠢いた。闇の中から僕を見下ろす顔には、見覚えがある。月の光のようにぼんやり輝く淡い金髪、象牙のように白き肌。何故か瞳は黒いけど、僕が君を見間違うはずが、ない……!!!!
ああ、レイナ……僕を迎えに来て、くれたのか!!
「レ、イナ……僕の、手を、取って……」
最期の力を振り絞り、繋がる管を引き千切った。醜く、老いさらばえた手をレイナに向かって伸ばす。君はいつも、笑って答えてくれたね。……なのに、今のレイナは何の表情も浮かべていない。僕が一目で魅了された泣き顔でも、春の陽だまりのような笑顔でもなく、あるのは、氷のように冷たい無関心だった。
どうして、僕の手を取ってくれないんだ、レイナ……。
「……耄碌したね。姉さんと、ぼくの区別も付かないのか。最期くらい見届けてやろうかと思ったけど、やっぱりやめた」
何を言ってるんだ? わからないよ。ああ、レイナの姿が、遠ざかって、消えてしまう!!
「レイナレイナレイナ!! 行かないで、一人にしないで!! ありがとうって、ごめんなさいって、君を、ずっと愛してるって、伝えたかったんだ……!! お願いだ……もう君と離れたく、ないよ……」
遂に、幻覚まで見えてきた。白いぼた雪のような、花びらのような物が雨のように降りしきり、僕とレイナを遮ろうとするんだ。
「今更遅い」
……無情にも、それだけ吐き捨てて、レイナは消えてしまった。
「う、ああああ、ああっ!!」
後に残ったのは、降り注ぐ白い花びらの幻影だけ。……昔、何の柵も無かった頃、空を覆い尽くすような桜の大木が並ぶ道を、二人で歩いたね。舞い落ちる花びらを掴もうと、レイナとこんな風に手を伸ばしたっけ。そうだ、儚く溶けて流れた雪にも似ているなぁ。あの時は、君の手を温めてあげたよね?
今の弱り切った僕の手では、激しく震えるだけで何も掴めないんだ……。お願い、もう一度だけでいいから。
「レイナ……僕の手を……取ってよ……」
看取る者も、聞いてくれる者も誰もいないけど……それが、僕の最期の言葉に、なった………………。