08ハミルトン姉は、こうして同じ轍を踏んだ
お父さまから、手紙の返事が届いた。
結婚するつもりでいること、お相手はマーラ伯母さまに探してもらうことにしたと綴った内容に対して、お父さまからの返答は、
『今すぐ帰ってきなさい。それが出来ないなら、何もせずに家にいなさい。
こちらの仕事を片付けたら、直ぐにそちらに行くから、待っていなさい』
という、どう見ても走り書きのような内容だった。
文面から読み取れる動転ぶりに、お父さまの猛反発が予想されて、こちらに来たら一悶着ありそうで怖くなる。
怒鳴られたりすることはないと思うが、口論をするにしても私では絶対に立ち向かえないので、味方になってもらうつもりでマーラ伯母さまに報告した。
「……そう、ジョエルが来るの」
伯母さまはそう言うと、紅茶を一口すする。
「となると、少し厄介ね。貴女の苦手意識かどのくらいなのか知るつもりで“仮”としたけれど……あの結果を知られたら、ますます反対されるかもしれないわね」
「…………」
私の男性に対する苦手意識が、どの程度なのか知るために行われた仮のお見合いは、最初が男装した女性で、次は13歳の少年だった。
1回目は、さほど問題もなく乗り切れたが、2回目は途中で逃げ出す大失態を犯している。
「まあ、ばれなければいい。という手もあるのだけれど……」
伯母さまは、どこか悪役めいた台詞をつぶやく。
「シスカ様には、多少の抵抗感があったようだけれど、すぐに慣れたわね。問題は、レイモンド様かしら。完全な子供とはいえないけれど、逃げ出すほどなると、男臭さを感じさせるとかが苦手なのではなく、とにかく“男”だと駄目のかしら?」
「……はい。たぶん」
というより、まさにそれが真実だった。
「男の方に、女性の格好をさせたら。というものでもなさそうだし?」
「……無理だと思います」
「そうよねぇ……」
何故か少し残念そうな、ため息が吐かれた。
それからマーラ伯母さまは思案顔になって、少しの間、物思いに耽っていたが、良案でも思いついたような笑みを浮かべる。
「ねえ、明後日、私の所で夜会あるのだけれど、貴女も招待されているはずよね」
「はい。招待状をいただいていますから」
「提案なんだけれど、その時わたくしに付いてらっしゃい。屋敷までのエスコートは今まで通りミハエルに任せるとして、挨拶回りはせずに私の側にいるの。わたくしは主催の側だから、挨拶はあちらからやって来られるし、ただ隣で笑っているくらいなら、ミハエルといつもしているのだから、それくらいなら大丈夫なのでしょう?」
笑っているだけ。確かにそうなのだけれど、やはり複雑な気持ちになる。
「…ええと、はい。大丈夫だと思います」
「わたくしの隣りに滅多に顔を見せないハミルトンの令嬢がいる。それだけで、何かあると思わせることができるのよ。察しのいい人は、貴女の縁談準備をはじめるつもりなのだと考えるでしょうね」
伯母さまの意図が分からなくて首を傾げた。
「重要なのはね、今はまだ明確な言葉にしないことよ。前にも言ったけれど、セオドア公爵夫人の名前を使って、結婚のお相手を探していると明言してしまうと、もう引き返すことが出来なくなるかもしれないから」
「……はい」
「でも今回は、そこを逆に利用するの。正式に明言はしていないことをジョエルには伝えては駄目。もう引き返せない状態なのだと思わせて、色々と追い詰めていった方が、説得しやすくなると思うの。だからこそ、あの子がこちらに来る前に、そういう既成事実を作っておきたいのだけど、どうかしら?」
そう言って伯母さまは同意を求めてくるが、私はすぐには賛同しかねた。
お父さまを騙すようなことをするのは忍びない。
しかも、お父さまからは、家から出るなと言われてしまっている。マーラ叔母さまの夜会に出席することは、その言い付けを破ることになるだろう。
けれど、お父さまを説得する手段としては、とても魅力的に思えた。
「……わかりました。お願いします」
ためらいはあったが、そう答えると伯母さまは、本当に悪女のような笑顔になった。
マーラ伯母さまから言われたとおり、セオドア公爵家主催の夜会に出席した。
エスコートも伯母さまから言われたとおり、ミハエルにしてもらうべきなのだろうが、ミハエルから自立しようと決心した直後に、それをお願いしてしまうのは、いささか抵抗があった。
かといって他に頼める人もいないため、少し気まずかったがミハエルにエスコートをお願いすると、彼は快く引き受けてくれる。
もしかしたら、ミハエルのエスコートを受けるのは、今年のシーズンで最後になるかもしれないと、ミハエルの笑顔を見ながら、ふと思ってしまった。
セオドア公爵邸では、ずっとマーラ伯母さまの側にいることを、理由と共にミハエルには伝えてある。
挨拶を受ける側だから、無闇に動き回る必要もないし、女性である叔母さまが付いているのだから心配はないと説明したが、ミハエルはやはり心配そうだった。
少し早めに公爵邸へと着き、屋敷に入って叔母さまの所までミハエルはエスコートしてくれた。
「おや、来たね。ハミルトン姉弟。ずいぶんと久方ぶりの顔見せだ」
「はい。ご無沙汰しております。セオドア公爵様」
マーラ伯母さまの隣には、伯母さまのご夫君でありセオドア公爵その人が立っていた。
「ロゼットお嬢さんも、今晩は」
セオドア公爵に話しかけられて、私は精一杯のお辞儀で返す。
「うんうん、相変わらずのようだね。話は聞いているよ、出来るだけフォローするつもりだけど、頑張ってね」
公爵様の声は、何やら楽しげだった。
彼の顔を正面から見たことはあまりないれど、お茶目なおじ様だと思う。
「マーラ伯母上、私は挨拶回りが終わったらサロン室のどれかにいると思うので、何かあったら呼んでください」
そう言って、ミハエルは私に向き直った。
「姉上、無理だけはしないでください」
柔らかく笑う緑の瞳に頷くと、ミハエルは私に背を向けて行ってしまった。
変な感傷に浸ってしまいそうになるのを振り切って、私は伯母さまに寄り添うようにして立ち、セオドア公爵夫妻へと挨拶にやってくる人たちを出迎えていく。
挨拶にやってくるのは、男女であることが多かった。
夫妻であったり、婚約者であったり、血縁者であったりと様々な組み合わせでやってくる。
伯母さまは挨拶の合間をぬって、私がセオドア公爵夫人の姪であることを、何気ない調子で紹介していくが、私が隣にいる理由は、何故か公爵様も一緒になって、のらりくらりとかわしていった。
私は、伯母さまとセオドア公爵様がお話しされるのを聞いているだけ。
こういう時に、病弱だとか儚げだとか、そういうイメージがあるのは助かると思う。
おずおずとして、ほとんど話せなくても、不可解な目で見る人はあまりいなかった。
それでも時々、じろじろ見ていくる男の人がいて、その度におぞけが走る。
その度に、頭の中で同じ考えを繰り返した。
いつもと同じだと思えばいい。
ミハエルと一緒に挨拶回りしてきた時と同じように思えば、いつものように乗り切れるはずだと心の中で念じた。
そうやって、恐怖と安堵を繰り返しながら、何とかその場に踏みとどまっていく。
「ロゼット様がお一人なんて、珍しいですわね。ミハエル様はどうされたのかしら?」
「ミハエルは―――」
どこかの侯爵夫人がした質問に、セオドア公爵様が、まるでミハエルのように私を庇って答えてくれるが、私はその言葉が良く聞き取れなかった。
「…………」
ミハエルが居ない。
侯爵夫人の指摘に、私は何故か驚いていた。
おかしい。本当にいつもと同じなのだろうか。いつもと、本当に?
―――ミハエルが居ないのに?
それは、突然だった。
突然、胸を圧迫するような不安が押し寄せてきた。
切っ掛けらしい切っ掛けなどなく、予兆らしい予兆もなかった。ただ感じた小さな不安に、身体の均衡が急激に崩壊していく。
「……ロゼット? ロゼットどうしたの?」
伯母さまの声が聞こえていたが、返事が出来なかった。
呼吸が出来なかった。
息が切れたような気息を繰り返し、胸を押さえて喘いでいた。
呼吸がままならない。確かに空気を吸い込んでいるはずなのに、肺に詰まるばかりで、どこにも抜けていかない。
肺が裂けそうなこの責め苦を、どこかで味わった覚えがあった。
記憶を探り当てるより先に、ある言葉が蘇る。
―――過呼吸。
前の人生で患った発作だった。
呼吸を過分にしすぎているのに、空気が吸い込めないような錯覚を感じるせいで悪循環に陥るパニック発作。
今世で発症したのは、はじめてだった。
過呼吸で死ぬことはないと分かっているのに、呼吸困難という死に直結した苦しみが身体の自由を奪い、ただ喘ぐことしかできない。
精神的に落ち着くのがことが、最も適切な処置なのに、落ち着こうと思えば思うほど、その方法から遠のいていく気がした。
落ち着かなければ。落ち着かなければ。落ち着かなければ。
呪文のように唱え続けるが、周りが騒がしくて集中できない。
男性の声が、そこかしこから聞こえてくるせいで、どうしても邪魔される。
きっと、皆が見ている。息も絶え絶えにうずくまっているのだ。もしかしたら死にかけているように見えているかもしれない。
過呼吸で死ぬことはない。だから、落ち着けなければ、ずっと苦しいままだ。
一時間も二時間も、ずっと苦しいままだ。
「――姉上っ」
どよめく雑音の中で、ひときわ通る声が聞こえた。
―――ミハエルっ
顔を上げれば、涙が頬を伝っていった。
歪んだ視界のなか、ミハエルの輪郭が私をのぞき込むように膝を付く。
「姉上っ、これはいったい。どうされたのですか。何がっ――」
取り乱したミハエルの声が降ってくる。
「――ミ、ハ…ル」
酸素を求める喉が邪魔をするうえ、口の辺りが痺れているのか上手く言葉に出来ない。
ただ、もう、すがるようにミハエルの服を握った。
その手に応えてくれたのだろう。ミハエルが抱き寄せてくれる。
ミハエル。ミハエル。ああ、ミハエル。
彼の穏やかな体温が、じんわりと心の奥まで届いてくるようだった。
この温もりに身を委ねていれば、恐いことなど何もない。そう思った。
そう思えた。
世界がひっくり返るように、身体の力が抜けていく。
圧迫されていた胸郭が広がっていくのを感じて、呼吸は穏やかになっていった。
ペーパーバック(紙袋)は、慣れた人じゃないと危ないそうですよ。
行き詰まる方向で、煮詰まっていおります。
今月中に完結させたいところですが、不定期更新にさせてください(´・ω・`)




