11ハミルトン弟は、こうして姉の想いを思い知った
姉上の部屋から己の自室へと移って、自己嫌悪に苛まれる。
ロゼット姉上に求婚をした。
そのための作法もろくに知らなくて、付け焼き刃だったことはいなめない。
それでも精一杯の言葉を尽くして、姉上に婚姻を申し込んだ。
しかし、姉弟でいたいのだと、彼女の口から直接聞かされた瞬間、なけなしの体裁は崩れ去ってしまった。
ばかりか、衝動のままに泣き落としのようなことをしてしまった。
――――女々しい。
婦人を尊ぶ正騎士ミハエル・ハミルトンには、ふさわしくない言葉が出てきた。
けれど、今の自分にはお似合いの言葉だった。
姉上を止めたかった。
彼女は平気だと言っていたが、あんな状態を見せられたあとで、「死ぬことはない」という言葉はあまりにも無分別だった。
どうして、そこまで。
そう考えた直後に、彼女の無茶が自分たちのためだということを思い出す。
止めなければと思った。
彼女が続けようとした見合いだけではない。これ以上、荒療治のような無茶をして心身を壊してしまうのを、これ以上黙って見ていられるはずがない。
義姉弟という、中途半端な関係でいる弊害が、彼女を結婚に駆り立てているなら、それを取り払うべく思考を巡らせた。
だからこそ最初に考えたのは、やかましい周囲に有無を言わせない方法だった。
父上と伯母上、特に王家との繋がりの深いセオドア公爵婦人を抱き込んで、王命という形を取って書類上だけでも婚姻関係に持ち込んでしまおうかと考えた。
しかし、それを強行するならば、どうあっても突き当たる壁がある。
今まで頑なに姉弟だと言い張っておきながら、婚姻を結ぶことに当然の批判はあるだろうが、そうした誹りは、どうとでも言って自分一人で被ればいい。
何よりも恐ろしいのは、これまでに築き上げてきたロゼット姉上の信頼を、はなはだしく踏みにじってしまうことだった。
彼女に結婚を強いることは、彼女を虐げてきた男たちと同列に堕ちることに他ならなかった。
それでも、一時の裏切りで、姉上が心の平穏を得られるならばと、手前勝手な免罪符で自分を言い聞かせようともした。
一晩かけた葛藤は、ふがいない結果で終わる。
自分に、そこまでの胆力は無いと思い知らされた。
なら、どうすればいいか。
ロゼット姉上が、自分たちために事を起こしているのなら、その想いこそが、最大の手段なのではないかと思えた。
他の男ではなく、たった一人の弟のためだと思っていてくれるのなら、その想いを自分に与えてくれはしないかと、彼女の情愛をそのまま請うことを思いついた。
そして、姉上へと、その言葉を口にした。
本当ならもっと前に、告げたかった言葉だった。
数年越しの告白は、口にするには、おそらく最悪のタイミングだった。
案の定、見合いを止めるために言っているのだと指摘される。
その指摘は間違っていない。事実、ロゼット姉上を止めるために動いたのだから。
思慕の言葉が届かないのは覚悟していた。
たが、望んでいたのは、同じ想いを返されることではなく、許しの言葉。
弟の、遅きに失した求婚が、意味のあるものになるための救済。
あとはもう、姉上の心の内が決まるのを待つしかないというのに、ひっきりなしに詮無いことを考えてしまう。
――――断られたら、どうしようか。
家を出るという手もある。
姉上のお陰もあって、騎士団では腕を買われ、同期の中では一番の出世頭でもあるので、働き口に困りはしないだろう。
けれど、それはそれで無責任だし、まるで当てつけのようになってしまう。
――――本当に、どうしようか。
どのみち、以前通りの“家族”に戻れはしない。
そればかりが、胸に重くのしかかった。
ロゼット姉上は、昼食の席に顔を出さなかった。
発作を起こした昨夜の件もあって、使用人たちが何があったのかと心配していたが、今はまだ話せないと説明しておいた。
ほとんど喉を通らなかった食事を終えて、自室に戻るが、やけに身体に気怠さを感じて、昨夜はほとんど寝ていなかったことを思い出す。
少しだけ横になるつもりで寝台に入るが、あらがえない眠気に襲われて、目蓋を閉じていた。
ほんの一瞬、眠ってしまったと思った。
寝台が軋むの感じて目を開けると、ぼんやりとした視界に人影が映る。
「起こしてしまった? ごめんなさい。起きるまで待っていようと思ったのだけれど」
ロゼット姉上が、寝台の端に座っていた。
「ふふ、ミハエルの寝顔を見たのなんて、何年ぶりかしら」
夢うつつかと思いきや、姉上の小さく笑う声がやけにリアルだった。
幻ではないと気が付いて、固まった。
どうしてここに、それもベッドの上にいるのかやら、妙齢の女性を部屋に入れてしまった後ろめたさやら、軍人のくせに人の気配に気づけなかった失態やら、様々なものが頭の中を飛び交って、硬直状態から抜け出せなかった。
「昨日、寝ていなかったのね。ごめんなさい」
こちらを気遣うように、彼女の手が伸ばされる。
前髪と額に触れられる感触に我に返った。その細い指先から逃げるように上体を起こす。
「――あの、姉上。それより、ここは、その……場所が場所なので……」
きょとん、と彼女は目を丸くしたあと、二人が座している人が横になる場所を見つめ、それから、はっとしたように立ち上がった。
「そ、そうね。ごめんなさい」
寝台からそそくさと離れて、部屋の中央にある丸テーブルで立ち止まる。その上に飾られた花器の花を、照れ隠しなのか、急に撫で始めた。
部屋を見渡すと、辺りは少し仄暗くなっている。
わずかな時間だと思っていたが、かなり寝入ってしまっていたらしい。
軽く身なりを整えながら寝台を出ると、姉上がこちらをうかがいながら語り出す。
「あの、さっきね、ここに来たの。それで、ミハエルは眠っているって言われたんだけど、無理を言って入れてもらって。その、お話しがあるから……」
「……はい」
返事を返すと、彼女はゆっくりと振り返り、真っ直ぐと正面から対峙した。
ロゼット姉上は20歳になったばかりで2つ年上だが、どちらかといえば小柄な人なので、身長は私の肩に届くか届かないかほど。
黒髪に緑の瞳。
自分とよく似た緑の瞳を見るたびに、血のつながりを感じて、嬉しいと思うのと同時に時々切なくなる。
その瞳が、今は赤く充血していた。目元も少し腫れている。
泣いていたのだろう。
そんなに私と結婚するのは嫌だったのかと、卑屈な考えに囚われてしまう自分がいた。
「あのね、えと。まず最初に謝っておこうと思って。あんな姿を見せてしまって、きっと怖かったと思うの。たいしたことないって、そんなの私だけが分かる感覚だと思うし、そのせいで、ミハエルを追い詰めてしまったんじゃないかと思って」
言いながら、儚げに笑う。
「ごめんね、たくさん心配をかけさせてしまって」
「……いえ」
彼女からどんなことを言い渡されるのか、それに萎縮して、ろくな言葉が出てこない。
「それでなんだけど、ミハエル、私たちが結婚するには色々と問題があると思うの」
否定的な言い回しに、ひやりとした。
「私たちは、周囲にただの姉弟だってずっと言ってきたから。今になってそれを覆せば、たくさんの人から誹りを受けることになるわ」
「……それなら昨夜、マーラ伯母上に相談いたしまして。伯母上がいいようにして下さるそうです」
「具体的に、どうやって?」
「……たとえ、本人たちにその気はなくとも、政治上の策略から突然と婚姻が結ばれるケースはいくらでもありますから。それに、どっち付かずの関係でいることが、批判のもとなら、一度あるべきところに収まってしまえば、悪し様に言う声は存外小さいかもしれないと仰っていました」
姉上が、じっと探るような目で、こちらを見つめてくる。
「ねえ、嘘を言っていない? ミハエルのことだから、自分一人で被ろうとなんて思ってはいない? たとえば、私はずっと姉上に邪な想いを抱いていて、強引に娶ったなんて言い広めるつもりじゃない?」
「……それは」
思わず言い澱んでしまった。そのまま的中ではないとはいえ、似たような筋書きを考えていた。
「ミハエル、非難を浴びるとしても、きちんと二人で乗り越えましょう。そうしてくれるなら、私はミハエルと結婚します」
彼女からこぼれた言葉を、耳が取りこぼした。
自分の口から、「え?」と音になっていない声がもれていた。
ロゼット姉上は、おもむろに足を進めた。
迷いなくどんどん前進し、見る間にも二人の距離が縮まってしまう。
ぶつかると言うには、あまりにも繊細で弱々しい力が、胸元へと入り込んできた。
「私も、ミハエルを愛しているから。だから、結婚します」
今度こそ、彼女の言葉を耳が拾った。
胸元から背中を包む、自分のものとは明らかに違う体温に、心臓が早鐘を打つ。
何度確かめても、間違いなく腕の中にいるロゼット姉上を見下ろした。
「――――……本当、に?」
「はい、本当に」
「――っ」
心が震えるあまり、呼吸が詰まる。
許して、もらえた。
その事実が、ただただ嬉しかった。
たとえそれが、弟への哀れみだとしても彼女に受け入れられた事実に変わりはない。
知らず動いていた自分の手に自分で驚く。
抱きしめ返すことを躊躇った。腕の中の人が、やたら華奢に見えて、どう触れていいのか戸惑った。
おずおずとした緩慢な動作に気付いたのか、背中に回った姉上の腕にわずかな力がこもる。それに勇気づけられて、そっと彼女の肩を抱いた。
鼓動は未だに速く、おそらく相手に伝わっているだろう。
こんな時、何を話せばいいのか全く経験がなくて、頭が全く回らない。
すると、ふふ、と笑う声が聞こえてきた。
「……あの?」
「あ、ごめんね。ちょっと自分に呆れてしまって。あのね、過呼吸って言うのは、繰り返すことが多いの。でも、一生に一度しか発症しないこともあって。気の持ちようっていうのかな……私、ミハエルに結婚を申し込まれて、たくさん悩んだのに、過呼吸なんて、そんな気配もなかったの。きっと安心しているんだわ。ミハエルが側にいてくれることに」
「……姉上」
返す言葉が見付からなくて、それだけを呟くと、再び腕の中で笑う振動が伝わってくる。
「姉上って呼ぶの、止める練習しなきゃね」
「……はい」
そうか、姉弟ではなくなるのかと、実感のない感慨も押し寄せる。
さっきまで、以前通りの家族には戻れないと、同じ憂いを抱えていたはずなのに、そこに感じる心許なさは、人肌にくるまれていて温かかった。