10ハミルトン姉は、こうして弟の想いを思い知った
「……何を、言っているの」
絞り出した声は、震えていた。
「本当は、もっと前に伝えたかった。あの時は……私が臆病だったのです。貴女と姉弟に戻れなくなることを恐れて言えませんでした」
重なった手のひらに、わずかな力が入った。
「けれど私は、幼い頃から貴女を見てきました。姉上は本当にいじらしい人で、けれど、とても強い方です。そんな姿を敬慕してやまないのと同時に、さもしい思慕の念を募らせておりました。私はずっと、貴女を一人の女性として愛していました」
嘘だと思った。
だって、顔を見れば分かる。
今まで秘めていたという胸の内を打ち明けているのに、その顔には変わらず決意を秘めたような眼差しがあるだけ。
この子が――ミハエルが、本当に恋をしている女性へと、少しの照れなく愛の言葉を囁けるはずがないのだ。
「やめて、ミハエル。どうして、こんな……私に、お見合いを止めさせるために言ってるなら、やめて」
「……昨日の今日で、こういうことを口にすれば、そう思われてしまうことは重々承知しています。でも、昨日の出来事はきっかけにすぎません。姉上がお見合いをすると聞かされた時、本当は身の内が灼け焦げる思いでした。姉上が男性を忌避していることを理由にして、反対したかった。けれど……」
途中で押し黙ってしまったミハエルは、わずかに頭を振ると、薄い笑み浮かべた。
「ひとつ、聞かせてください。姉上がお見合いをすると言い出したのは、私のためを思ってのことではないのですか?」
少し躊躇いがちに、こちらを伺ってくる。
「私たちの距離が近すぎるという、口さがない噂があることは知っています。ですから姉上は、このままどっち付かずの状態でいることが、二人のためにはならないと考えられたのではないですか?」
隠していたわけではないのに、見透かされたようで、気まずさが込み上げる。
そうした心の機微すら、ミハエルには的確に読み取れたようだった。
「でしたら、その思いを私にください」
まるで請うように言うから、胸が締め付けられた。
「姉上に、誰か他の想い人がいないなら、どうか私の側にいてください。いいえ、私を姉上の傍らに置いてください。それだけが私の幸せとなりえます」
ミハエルの懇願は真に迫っていて、本当の恋情を傾けられているような錯覚に陥る。
でも、そんなはずがない。だって、お父さまは――
「姉弟でいたいのだと、お父さまに言ったはずだわ」
思わず口をついて出ていた。
途端、苦いものを呑まされたような顔をするミハエルは、それを隠すように俯いた。
「……はい」
ほら、やっぱりそうだ。
ミハエルは、お父さまにそう言ったのだ。それなのに。
「それなのにミハエルは、私にそんな申し出をしようと言うの?」
ミハエルは顔伏せたまま、膝の上で重なる手の甲に額を乗せた。
「姉上、聞いてください」
跪き、頭を深く下げる姿は、ともすれば懺悔のようだった。
「姉上に、これ以上の無理をさせないために、私がまず何を考えたか。姉弟のままでいることが弊害になるのなら、私は、父上と伯母上を脅してでも、貴女と無理やりにでも婚姻を結ぶこと考えたのです」
ミハエルらしくない乱暴なやり方に、少なからず面食らう。
「たとえ、それが、貴女を苦しめてきた男たちと同じ暴挙を強いることだとしても、結果的に、姉上を患わせるもののない、安穏とした暮らしを差し出すことができるならば、憎まれ役になってもかまわない。そうした自分への言い訳も用意していました」
「…………」
「でも私に、そんな意気地はなかったようです。姉上を裏切るほどの度胸はなかった。とにかく別の方法をと、一晩かけて考えました。けれど、姉上にとって何が最善かは、私の知り得ることではなくて……ならば、せめて私に出来うる最善を考えて、こうして貴女の許しを請うことを選びました」
膝の上で、うなだれている銀色の髪を見た。顔を上げてくれないから、大好きな緑の瞳を見ることは出来ない。
「どうかお願いです。私のために他の男と連れ添われようとするなら、その許しを貴女の弟に与えてください」
昔とは比べものにならない大きな手が、その下にある冷え切った手を温めていた。
もう立派な男の人だということを、今さらながらに実感する。
でも、その心根は、きっと昔から変わっていない。
私を守ると言ってくれた、あの頃と何も変わっていない。
変わっていない。何も。
「一人にして」
びくりと、ミハエルの肩がゆれた。
自分でも驚くほど淡々とした声が出ていた。これでは突き放す言い方だと、すぐに気付いた。
「――違うの。ごめんなさい。考えさせて。だから……」
「……はい。もちろんです」
そう答えて、ミハエルは私の手を放した。
俯いたまま立ち上がるけれど、その姿を視線で追うことは出来なくて。だから彼が、どんな顔をして部屋を出て行ったのかは分からなかった。
本当に、私の弟は、何て良い子なのだろう。
一度守ると約束した女性を、最後の最後まで守ろうとするなんて。
そんじょそこらの正騎士様では、きっと逆立ちしたって真似できないに違いない。
もしかしたら、前世であれだけ男に苦しめられてきた私を神さまが憐れんで、ご褒美を用意してくれたのかもしれない。ミハエルという、私のためだけに奉仕するナイトを。
――――そんな神さま、殺してやりたい。
いくら殺意を込めたところで、けっして届かない相手に、唇を噛みしめていた。
分かっている。
神さまへの恨み言なんて、ただの現実逃避だ。
私がしなくてはいけないのは、ミハエルの真摯な思いに対する答えを考える事で、姉を案じるあまりにしてしまった決断を、神さまのせいにする事じゃない。
動機はなんであれ、私はミハエルに求婚されたのだ。
しかも強制ではなく、ちゃんと選択の余地まで用意されている。
彼の求婚が姉弟の情にすぎないをことを理由に、私が断ることも出来るのだろう。
でもそれでは、あの子の誠意を全く顧みていないことになる気がした。
あんなにも思い悩ませ、心を砕かせておいて、ミハエルが私を真実恋い慕ってはいないから断るなんて、あまりにも薄情ではないか。
そもそも、どうしてためらう必要があるのか。だって私は、ミハエルの事を……
一度たりとも経験のないことだから、確証のあることは言えない。
でも、私はきっと、ミハエルのことを弟以上に想っている。
それをはっきりと自覚した時のことは、今でも覚えている。その瞬間に、私の初恋だったものは破れていたから。
ミハエルが騎士団へ仕官するために、王都へと旅立つひと月前のことだ。
その時ハミルトン家内では、私とミハエルの婚約話が持ちあがっていた。
特に使用人たちの間では、将来、私とミハエルが義姉弟とは別の形で縁組みをし、このハミルトン家を継がれるつもりなのだろうと、ひそかに盛り上がっていたことを私は侍女のサラから聞かされた。
そして、ミハエルが王都に引っ越す前に、ミハエルから何かしらの言葉があるかもしれないと、サラは色めき立ちながら話していた。
結婚。
それまでは、あまり考えないようにしていた。
家のため、いつかはしなければいない事だと分かっていも、知らない男性の元に嫁ぐなんて想像するだけでも恐怖だったから、あの頃は極力考えないようにしていた。
でも相手は、ミハエルかもしれない。
そんな未来もあることを教えられて、私は全身が熱くなるのを感じた。ミハエルのことを考えてドキドキしているなんて初めてのことだったから、自分の感情を持てあました。
ただ、その感情が何なのか、まだはっきりと認識はしていなくて、次の日から、どんな顔をしてミハエルと会えばいいのか、とにかく気恥ずかしさだけが募った。
けれど、次の日にお父さまから呼び出しを受けた。
お父さまは人払いをして、私と二人きりで話をしたいのだと言い出した。
お父さまとは、距離を縮めることを始めたばかりだったので、狭い部屋に二人きりという状況は心理的負担がまだまだ大きかった。
それを知っていながら言い出したからには、よほど重要な話があるのだと思い、私は連れていたサラを下がらせたが、それでもお父さまとは出来る限り距離を取って、部屋の隅で縮こまりながら話を聞いた。
お父さまの話は、屋敷に勤めている多くの者が、私とミハエルの婚約を期待して浮ついている、それを踏まえて、ミハエルにその意志の確認したのだと説明された。
ミハエルの答えは、姉上のことは姉弟だとしか思えない、だった。
そして、男が苦手な私に変なプレッシャーをかけないよう、婚約の話題を持ち出すのは止めて欲しいと、私のために周囲まで咎めてくれていた。
実にあの子らしいと思った。
思いながら、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような、喪失感に襲われていた。
何を期待していたのか。私はその時、はっきりと理解してしまった。
でも、大丈夫だとも思った。
まだ軽傷で済むと、姉としての愛情の方がずっと強いと、あの時は思えた。
今はどうだろう。
ミハエルは、私のために自らの全てを捧げようとしてくれている。
それが悲しいことなのか嬉しいことなのか、何だかよく分からなくなってしまった。
色々なものがごちゃごちゃで、まとまりがなかなか追いついてこない。
それでも、自分の中に確固として動かない気持ちがある。
彼を、愛おしいと思う気持ち。
それはおそらく、ミハエルも同じはずだ。
愛ならあるのだ、家族としての。
姉弟としての。
ごちゃごちゃしたものが、瞬く間に胸の中をいっぱいにした。
堪えきれなくて、涙を溢れさせる。
この酷く弱い涙腺から、ぼろぼろと零れていく。
遅れてやってきた何かが、喉を迫り上がってきて、嗚咽と共に流れだしていた。