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6 メロディー、東堂霞、記憶(1)

 女の子は横を向いて、何かを待ち受けるようにじっとしていた。瞳は閉じられており、どうやら深い集中状態にあるようだった。自分自身を見つめ、その奥にある内面の正体を、彼女はひたすら暴こうとしていたのかもしれない。恐ろしいくらいの緊迫感が彼女の周りで渦を巻いていた。


 彼女の長い髪が風にたなびいている。触れただけで溶けてしまいそうな繊細で黒い髪が、宙を舞っている。そのたなびく音だけで、世界中のすべてのものが静寂に呑みこまれてしまいそうだった。争いはなくなり、平穏が全世界に訪れるのだ。だが見る者を絡めとってしまうような魔力も秘められている。調和と混沌が、彼女の髪の中で決闘でもしているかのようだった。風が止むと、髪は女の子の腰のあたりまでだらりと垂れさがる。風が吹くと再び舞い上がり、空中を踊る。それら一連の動きが繰り返される間、やはり女の子は微動だにしなかった。


 僕は階段を下りようとしたその恰好から動くことができなくなった。不用意に音を立ててはいけないという危機感が芽生えたからだ。そう、危機感だ。まるで大蛇の横を歩くときみたいに、僕は次の瞬間には目覚めてこちらに食らいつく恐ろしい化け物に対しての恐怖を感じていた。体中から汗が噴き出してくるようだ。片足を一段下にかけて、そのままもう片方の足を踏み出そうとしたその体勢を続けるのはきつかったが、それでも音を立てて相手に警戒されるよりは何倍もましだった。大気は熱気で満たされていたが、このときの公園内には真冬のような冷気と鋭さが漂っていた。


 どれほど時間が経ったのか、それを正確に知ることはできない。だが相当に長い時間が経過したことは確実だ。彼女はようやく動きを見せた。閉じていた目をかっと見開いた。うつむき加減だった頭を戻して、体を真っ直ぐにした。それから手に持っている長い棒のようなものを口のところまで持っていった。よく見ると、それは笛だった。長さは五十センチかそれ以上あり、彩色のされていないシンプルな構造のものだ。演奏会などで使われるようなものとは明らかに違う。よく見ると吹き口は側面についており、横に傾けて吹くタイプのものらしかった。


 笛はあたかも収まるべきところに収まるようにして、彼女の口元に運ばれていった。そして彼女はしかるべき体勢をとる。両手を添えて、体を若干左に向けて、再び目をつぶる。動きのない静寂が訪れる。僕はそのとき息を飲んでいたようだ。僕はただ、目の前で行なわれていることを順番に認めていくことしかできなかった。他のことは何も考えられなくなっていた。しびれるようなその動きに魅入られて、神経が一時的に駄目になってしまったようだった。少し待つと彼女は演奏を開始した。


 最初は低い音から始まった。その後は緩やかなテンポを保ちながら、重々しいリズムを刻んでいく。僕の頭に瞬時的にイメージが浮かび上がる。王の演説前、広場に集合した民衆がざわざわ何やらわめいている情景だ。大きなことが始まる前のあの緊迫感がそこには漂っている。その場にいるだけで体が震え、いてもたってもいられなくなる。だが王が来るまでは待たなければならない。彼が来るまでは何も始まらない。僕はその音色を聞いているうちに、自分が古代ギリシア時代にタイムスリップしたような気持ちになった。どうして古代ギリシアなのかはわからない。彼女の演奏の様子が、僕の思う古代ギリシア像を万遍なく満たしていたのかもしれない。真意のほどはわからない。


 その頑なな演奏はしばらく続いた。民衆のざわめきは続いている。そろそろ民衆がそわそわし始める頃だ。目はあちこちに動き回り、指先を神経質そうに運動させる。ざわめきが心持ち大きくなったようだ。民衆の一人である僕もまた、そのじりじりした雰囲気を感じていた。別に何かが起こったわけでもないのに、その予感だけで、呼吸が乱れてくる。心臓は先ほどから鳴りっぱなしだ。ざわめきが千匹のネズミの鳴き声みたいに聞こえる。笛の音もだんだんと激しくなっていく。低い音からだんだんと高い音へと移行しつつある。まだ完全には移行していない。まだ王は登場していない。まだか、まだかと僕は焦れる。そして、我慢の限界だと思われたそのとき、気高い一息の音と共についに全身が解放された。


 音階についてはわからないが、いずれにせよとんでもなく高い音だ。その音を皮切りに、僕は精神が高揚するのを感じた。束縛から解き放たれて、いよいよ自由になったときのあの高揚感だ。落ち込ませていた目を上げてみると、檀上にはほとんど姿の見たことがなかった王が勇ましく立っていた。民衆の熱気はすさまじかった。誰もが王の登場を祝っている。獣のような声でみんなが叫んでいる。演奏は初めの頃とは打って変わり、リズミカルで変化の激しいものになった。そのリズムは否応なく僕の魂を揺さぶった。聞いたことのない曲だったが、僕にはどうしてもその曲の音色が初めて聞いたものだとは思えなかった。これは不思議な感覚だった。知らないのに、潜在的には知っているのだ。主題は繰り返されるにつれはっきりとしてきた。王が一言話すごとに民衆は一体となり、勇気が湧いてくるようだった。力のこもった演説――演奏に、こちらとしても本気にならざるを得ない。僕も精一杯、それに応じなければならない。古代の人々はこうやって団結し、多くの戦いを勝ち抜いてきたのだと思った。その気分を、僕は一人の女の子の笛の演奏で追体験していた。音色はだんだん終わりに近づきつつあるという予感を僕に与えてきた。そろそろ王の演説は終了するのだ。あまり長々とやってもだらけるだけだ。それよりは説得力のある力強い言葉を、短い時間の中でこれでもかというくらい詰め込んだ方が印象に残りやすい。その一つひとつに生命が宿っているかのように、音は風景の中を自由に飛んだり跳ねたりしていた。僕の精神の高揚は最高潮に達して、それからは潮の引くように落ち着きを取り戻していった。演奏もまた最初のような穏やかなものに変化した。王は退場し、民衆の最後の熱気が発散されたあと、王の話したことについてさまざまな意見を交わしながら、人々はちりぢりに別れていった。僕もそろそろ帰ろうと思った。僕は現実の世界に戻ってきた。演奏は圧倒的なほどの充足感を持って終了した。


 女の子は口から笛を離して、最後の音が空中に消えてしまうのを味わうかのように大きく息をついた。それから目を開き、上を向いた。その瞳は去っていった音色に対して敬意を表しているようでもあった。右手に持った笛を下ろして、真っ直ぐな姿勢のまま風に吹かれる。髪が再び舞う。そういえば、彼女が演奏しているとき、風は吹いていたのだろうか? 僕にはその記憶がすっかり抜け落ちていた。もしかしたら、音が鳴っている間、風は止んでいたのかもしれない。大気の状態すらも、彼女は変えてしまったのだ。たった一人で、笛の音色だけで。


 僕は自分でも気づかないうちに、楽な体勢をとっていたようだ。気がつくと、僕は段差に腰を下ろしていた。女の子はまだ僕の存在に気づいていない。彼女は白い布を取り出して笛の吹き口を拭いていた。大事な人形を扱っているようで、見ているこちらが思わず微笑んでしまいそうだった。


 手入れが終わって布をしまったそのとき、彼女は顔をこちらに向けた。時の流れが一瞬だけ静止する。彼女は表情を元に戻したあと、僕を見たまま固まってしまった。僕も固まってしまった。


 女の子の視線は冷たい。切れ長の目は僕を真っ向から拒絶しているようだった。こちらが何者なのかを知らない以上、警戒されるのは当たり前のことなのだが、それにしては大した拒絶反応だった。初対面でこれほど撥ねつけられた経験は今までにない。それが僕だからなのか、それとも誰であれ警戒されていたのかはわからなかった。


 正面から見た彼女は一層細かった。彼女は本当は死んでいるのではないかと勘違いしてしまいそうなくらい体が軽そうに見える。身長は女の子にしては高い方だろう。百六十センチの後半くらいはありそうだった。ぴっちりしたジーンズを履いているため、脚の輪郭が浮き彫りになっていた。茶色いブーツが足元の砂利を踏み鳴らす音がした。どうやら後ろに下がったようだ。鮮やかな模様のプリントされたシャツを着て、その上に薄手の黒いジャケットを羽織っている。秋が到来したかのような服装だが、わりに涼しい公園内ではさほど違和感はなかった。年上の女性の持つ雰囲気が漂っていたが、顔つきは入学したての高校生のように幼さの残ったものだった。そのおかげでこちらの気が妙に抜けてしまい、先ほど抱いていた危機感はどこかに飛んでいってしまった。


 僕はこの気まずい状況を打破するべく立ち上がった。それから彼女の方へと近づいていった。だが彼女はなおも後退し、僕と一定の距離をとろうとしている。明らかに僕を敵視していた。なんだか自分が闇からの絶望的な使者になったみたいだった。何も知らない女の子を、誰にも見つからないうちにどこかに連れ去ってしまうのだ。僕は「あの……」と声をかけようとしたが、彼女の目とその様子を見て何も言えなくなってしまった。彼女は笛を抱きかかえるようにして持っている。彼女自身への危害というよりは、笛への危害を恐れているようにも見えた。


「お前、何の用だ……!」と女の子は言った。冒頭の笛の音のような低い声だった。


 僕は彼女を見た。彼女は憎しみのこもった目つきで僕を睨んでいる。だがそこにはもう、こちらを威圧するような力強さは感じられなかった。どちらかといえば、さっさとあっちへ行ってくれ、というようなさばさばしたものだった。


「僕は君が来る前から公園にいたんだよ」と僕は弁明した。「祠のところまで行っていて、その帰りだったんだ。君が演奏するのを見て、僕は立ちどまることしかできなかった」


「そ、そうか……」と女の子は少し下を向いて、何かを考えるようにして言った。彼女は後退するのを止めた。


「だから僕は、君に対して危害を加えたりだとかはしない。ただの通りすがりの大学生なだけさ」


「大学生? 大学生が、こんな時間にどうして公園をうろついているのだ」と女の子は真剣そうに訊ねた。


「木曜日は授業を取っていないから、こうして自由に過ごせるんだよ」


「大学生は、自分で授業を取れるのか」と女の子は、一人で納得するように小さな声で言った。


 僕は彼女が大学生なのではないかと疑っていたが、どうやらその可能性はないようだった。だとすれば彼女は何者なのだろう。そこまで考えて、僕は彼女に対してただならぬ興味を抱いていることに気がついた。あんな演奏を聴いてしまったのだから当然のことだ。しかし僕はそのような自分の心の変化に驚いていた。相手のことをもっと知りたいと思ったのは何年振りか知れない。


「君は大学に行きたいと思わないの? それとも、大学よりも高い目標でも持っているのかな」


「私は大学には興味がない」と女の子ははっきりと明言した。「教育などにはもううんざりなんだ。高校を卒業してからは教育というものからすっかり離れてしまった」


「何だか複雑な事情がありそうだね」


「それは、きっとそうなのだろう」と女の子は他人事みたいに言った。


「ちょっと、あそこのベンチに座って話そうか?」と僕は思い切って提案してみた。女の子は答えを渋ったが、最終的にはうなずいてくれた。

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