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5 コンさん、予言、祠(3)

 コンさんの不吉な予言を聞いたあと、僕は家を出た。あのまま家に留まっていることがつらいのもあったし、一旦問題から離れて、頭を冷やす必要もあったからだ。コンさんは複雑な表情で僕を見送った。そのときの僕があまりに深刻な顔つきだったからだと思われる。ともすると、この青年は母など放り出してどこかに逃亡してしまうのではないか、と疑いを持っていたのかもしれない。けれども、僕には(今のところだが)その予定はなかった。戻ってくるのがいつになるかはわからないが、コンさんが行ってしまう前に必ず帰ってくる。それは玄関を出て、改めて家全体を眺めたときに心の中で誓ったことだった。


 歩いている間、どこへ行くべきか悩んだ。とにかく無我夢中だったのだ。今になって、自分は何のために家を出てきたのか、その本当の目的が曖昧になってしまった。来たるべき危機に備えて、心構えをしっかりしておく、というのが目的になるのだろうが、その目的を達成するためには、実際にどうすればいいのかを考えていなかったのだ。ただ歩き回っているだけでは単なる時間の無駄になろう。僕は二十分ばかり、家の周りの住宅地の密集する地帯を行ったり来たりしていた。ここから歩いていける、一人で過ごすのに最適な場所はどこかあっただろうかとその間に考えていた。路上にはほとんど人がいない。休日ともなれば外を出歩く子供たちの喧噪が耳を塞いでも聞こえてくるのだろうが、今は平日の午前中だ。多くの健全な子供は小学校に行ったり中学校に行ったりしている。歩いている人といえば、乳母車みたいなものを押している老婆や、暇を持て余して談笑する婦人の群れなどだった。彼女たちは僕にはまったく興味がないようで、ただ自分たちの世界に入り浸っていた。


 蒸し暑い日だった。まだ七月に入ったばかりだというのに、日光は地表を焼き尽くすほどの勢いだ。空を見上げてみると、口うるさいいじわるな姑みたいな太陽が、ギラギラした光を放っていた。セミの声は遠くからかすかに聞こえる。住宅地に彼らの止まれるような場所はないのだ。僕は無性にセミの声が恋しくなった。だが聞こえる場所といろいろある。そこでまた、どこへ行こうか迷ってしまい、再度ぐずぐずしてしまう。二十分歩きつづけてようやく、深田公園まで行ってみよう、ということになった。


 家の並びはそれからも続いた。どの家も似たような大きさだ。ときどきそれらに囲まれるようにして建っているアパートや、周りを見下ろすようにして屹立しているマンションが見える。その一つひとつを僕は、ただ機械的に眺めていった。この周辺だけでもいかに多くの人間が生活しているかがわかる。彼らの中には、僕の母みたいな問題を抱えた家族がいるだろうか? 僕の知る限り、どの家族もみな健康で、父親も母親もしっかりしているようだった。父親は仕事に出かけ、母親は家事や子供の世話に苦心する。子供たちは日中は学校に通い、夕方になるまで帰ってこない。もう少し大きくなれば真夜中近くになるまで帰ってこないことすらある。僕はそんな生活とは無縁だった。友人があまりできなくて真夜中まで遊ぶ必要がなかったというのもある。また、母がいつ向こう側に行ってしまうかもわからないので、その見張りをするために早めに帰宅しなければならないというのもある。父はとっくに死んで、母はその思い出に囚われてまともな生活を送れない。長男である僕はこうして平日の午前中であるにもかかわらず浮浪者のように外を出歩いている始末だ。妹はかろうじて正常な生活を送れているようだが、それもいつ続くかわからない。妹もまた、父がいないことをとても寂しく思っているかもしれず、いつ母のようになってしまうかわからない。家族の間だけではうまくやりくりすることができず、近所のコンさんに世話になる日々。僕は自分がどん底にずぶずぶと嵌っていくような気がしたので、これ以上家族について考えるのを止めた。狂人のように無理やり頭を振って、今考えていたことを外に放り出した。


 そのあとはわりに気分が穏やかになった。脚は軽やかになり、周囲の音も鮮明に聞こえるようになった。僕もまた、母と同じような問題を抱えているのかもしれない。まだ表に出てきていないだけで、致命的な病気を潜在的に持っているのかもしれない。だが僕は今のところは元気だ。世間とはちょっとずれているとは思うが、まだ正常だ。そう自分を鼓舞していくとまた気分が明るくなった。


 この調子を維持しながら、僕は住宅街を抜けていった。大通りを行くのではなく、車が一台しか通れないような細い道ばかりを進んでいく。すると周りの景色が変わっていき、窮屈で暑苦しいものから、広々とした爽やかなものへと移り変わっていった。家の並びはだんだんとまばらになっていった。真っ直ぐな道路ではなく、やけにぐねぐねした道路がよく見られるようになった。隣町に入ったのだ。


 僕の住む鵡白町むじろまちは、いわゆるベッドタウンだ。人の住める建物で隙間なく埋めつくされている。誇れるような名所はないものの、生活に必要なあらゆる機能が備えつけられている。コンビニは、歩いていても数分ごとに見かける。休日になると、町の中央にあるデパートは人でいっぱいになる。僕は小さい頃に何度か家族でそこに行ったことがあるのだが、覚えていることといえば、人ごみに押しつぶされそうになったことくらいだった。公園は町の何ヵ所かに申し訳程度に設置されているけれど、そこで小学生が遊ぶようなことはもうない。大抵は幼稚園児を連れた婦人や、わけのわからない臭いをふりまく男が利用していた。今の小学生は、家でゲームをするのが当然となっているのだ。そして僕も、この町の公園にはもう興味がない。これから行こうとしているところも、別の町にある公園である。


 鵡白町から西に行ったところに深田公園がある。坊毛町ぼうげまちという変わった名前の町だ。ここは人口密集地帯である鵡白町とは違って、自然の多く残っている田園地帯となっている。整備の行き届いていない道路はあちこちで気まぐれに曲がっており、しかもどこに進んでも田圃ばかりである。歩いている人を見かけるのは稀で、その大体が老人だ。今でもなお、無人の野菜売り場を見かけることがある。ビニールハウスと畑のあるところでは、足腰の丈夫な男たちや女たちが毎日のように畑仕事に勤しんでいた。山の稜線を背景に、伸び伸びした大地がどこまでも続いている、そんな場所だった。


 景色が変わると気分もまた変わるというものだ。さっきから快調ではあったが、緑が多く見え始めてから、さらに気分が良くなっていった。辺りはいつの間にか田圃ばかりになっていた。この季節なので、どの稲穂も思いきり生長していた。まだ頭の垂れるほど実ったものはないが、どれもこの季節を満喫しているかのように若草色に輝いていた。風が吹くと、そのたびに一斉に体をくねらせた。そのまま倒れてしまうのではないかとひやひやするが、風が止むと同時にまたもとの体勢に戻った。


 坊毛町に入ってからはだいぶセミの声が届くようになった。どのセミもなりふり構わず、めいめいが好き勝手に声を出している。中学の吹奏楽部の、各パートの練習時間みたいなものだ。しかし人間たちのそれとは違って、そのばらばらの音は不思議と不快にはならない。むしろこれが彼らなりの合奏なのではないかと錯覚してしまいそうになる。僕はいつのまにか道の真ん中に立ち止まって、風の音やセミの声に耳を澄ましていた。この年になって感傷的に浸ることは、若干恥ずかしいものだった。しかし僕は響いてくる音から注意を逸らすことがどうしてもできなかった。この混声合唱が僕を包んでいる。このときだけは自然と一体になれたような気がした。僕は無性に泣きたくなった。


 いつまでもこうしているわけにもいかないので、また歩き出した。風は気が狂ったように吹いているが、直立不動のままだとやはり暑い。木の影にでもいればいつまでも立っていられるのだろうが、建造物の少ないこの町では日射しをもろに浴びてしまうため、どうしても我慢ができなくなった。頭を触ってみると、都会のアスファルトみたいな熱さだった。


 立っているにせよ動いているにせよ、汗はどうしてもかいてしまう。僕の着ているシャツは汗でびしょびしょになっていた。下半身も、特に尻のあたりが蒸れてきている。そろそろ休憩がしたいな、と思っていたところで、ちょうど目的の公園に辿り着いた。歩きだしてから、三、四十分が経過したところだった。僕は早速そこに入り、休みをとることにした。


 深田公園は普通の公園とはまるで違っている。それはこの公園を外から眺めたときからもうわかることだ。ここはまるで、森の中にできた空き地のようなところだった。木のアーチをくぐっていくと、こじんまりした広場が現れる。森をくりぬかれて作られた、隠れ家のような場所だ。近くに山があるせいで、公園は微妙に傾いている。遊具はそれを考慮して作られてあるようだった。上に顔を向けても、青い空や太陽はほとんど見えない。それはいくつもの大木の枝と葉が、公園をすっぽりと覆ってしまっているためであった。


 ここまで来るともう騒音に近い大音量のセミの声に辟易しながら、備えつけのベンチに座る。そこから公園の様子を眺めていく。いつ来ても、ここだけは何一つ変わることがなかった。僕が子供の頃からずっとあるブランコ、滑り台、砂場、ジャングルジム。修繕がされてはいるが鉄棒も残っている。小さめのものと、大きめのものの二つだ。公園を奥まで歩いていくと、石でできた質素な階段があるのがわかる。そこをのぼっていくと、祠もあるのだ。ここからだと見えないが、祠も撤去されずに残っているはずだ。前にここに来たのは半年くらい前だが、変わっているものといえば気温と音くらいのものだった。夏はうるさすぎて、冬は静かすぎるのだ。だがどちらも僕にとっては憩いの場所だった。座っていると、体が浄化されていくような感じがした。


 自分の体は、葉の隙間からかろうじて差し込む日光のおかげで、ところどころ黒かったり白かったりしている。何だか自然の中に擬態しているみたいだった。何匹かのアリがベンチを伝ってこそこそと這い回っている。中には僕の体に上がってくるものもいた。手で払ってしまうと、そのアリは空中のどこかに飛んでいった。どこかに無事に着地したことを祈りつつ、再び周囲を見回していった。


 夏にはつきものだが、蚊がたくさんいた。気がつくと腕に何ヵ所も刺されていた。下の方は丈の長いジーンズを履いているので無事だろうが、上半身は腕がむき出しだ。僕の見えないところでたくさんの蚊が血を吸っているのかと思うとぞっとした。だがどうにもならないので、結局血を吸われるがままになった。あんなものをいちいち退治していたらきりがないのだ。ここは対策をしてこなかった自分が悪いということにしておこうと思った。


 充分休んだところで、僕は立ちあがり、祠のある方向へと歩いた。弧を描くように続いている石段を慎重に上っていく。上へ行くごとに、周囲の音が静かになっていく。単なる感覚的なものなのかもしれないし、あるいは本当に音が小さくなっているのかもしれない。僕は自分が現実から離れていくような錯覚に陥りそうになった。そんなことが起こるはずがない。だが無意識のうちにそういう想像をしてしまう。謂われのあるような立派なところではないはずなのだが、それでも神はいるはずだと思うと、どうしても空想の羽根を伸ばしてしまうのだ。


 祠は本当に小さなものだった。高さは僕の腰にも届いていない。真ん中にぽっかり空いた穴は、そこだけ光を忘れたかのように暗かった。ちょうど僕の手を入れることのできそうな大きさだ。とても手を入れようなどとは思わないが。


 僕は祠の前でしゃがんで手を合わせた。目をつぶって、取り留めのない願い事をする。それは神へのお祈りというよりは、独白に近かった。お母さん、早く良くなってくれ。お父さんはもういないんだ、これからもずっと僕たちだけでやっていかなくてはならない。どうか彼への未練を断ち切ってほしい。僕はその他にも、もっと本を読めるだけの時間がほしいだとか、可愛い女の子と仲良く話したいだとか、自分勝手な思いをすべて神に打ち明けた。もし本当に神がここにいたら、なんて身勝手な男だと腹を立てるだろう。僕は怒りに震える老人のような神を想像して、にやりとした。そうして立ちあがり、少し後ろに下がってから一礼した。正式な礼儀はわからないけれど、きっとこういう感じなのだろう。僕は頭を上げてからも、じっと祠の様子を眺めていた。祠は当然ながら、うんともすんとも言わない。僕はそそくさと帰っていった。


 石段もあとちょっとで終わりそうなところで僕は立ちどまった。公園の広場の真ん中に、一人の見知らぬ女の子が立っていたからだ。

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