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4 コンさん、予言、祠(2)

 コンさんは玄関に現れると、僕たちを包み込むような笑顔を浮かべた。相変わらず隙のない身のこなしだった。顔には年相応の皺ができているものの、体つきだけを見れば、スポーツ好きの青年にまったく引けを取らない。定期的に運動をしていないと維持できない肉体だ。全体はどちらかといえばほっそりしているものの、よく注意すれば、彼の中に潜む隆々とした肉体を見て取ることができた。


「おはようございます」とコンさんは言った。渋みのある、重々しい響きだった。「今日の気分はどうでしょうか。どこか悪いところはありませんか」


「ええ、大丈夫よ。むしろ今日は、いつもより体調がいいみたいなの。なぜだかはわからないけれど」


「それはよかった」とコンさんは仙人みたいな顔つきで喜びを表現していた。


 コンさんは家に上がると、唐突に僕を呼びだした。ちょっと話がしたいというのだ。


「すみませんが、奥さんは待っていただけますか。息子さんの方に少々用がありまして」

「いったいどんな話をするのかしら」

「それを言ってしまえば、わざわざ内緒にすることはないでしょう」


 僕たちは二階に上がり、僕の部屋へと向かった。後ろからコンさんが、忍者みたいに足音を立てずに階段をのぼってきている。僕は緊張していた。二人きりで話すようなことは、めったになかったからだ。あるとすれば、彼が帰る際に今日の母の様子を聞くときくらいである。彼に何か悪いことでもしたのだろうか? それとも、母のことについて、僕に伝えておきたいことでもあるのだろうか? 僕は部屋に入る前に、二階にあるトイレに入った。そうでもしないと緊張で押しつぶされそうだったからだ。コンさんとは何年もの付き合いではあるが、彼にはどこか、恐ろしい何かが秘められているような気がしていた。僕たちの知らない、彼だけが知っている良くない秘密だ。彼はそれを、懸命にひた隠しにして、表面だけを取り繕って僕たちに接しているような雰囲気がある。親切にしてくれている彼を疑うのは良くないことだとは思うのだが、僕はどうしても、この懸念を振り払うことができなかった。


 トイレで小便を済ますふりをしてから、自室に行った。コンさんは窓際に立っていた。若干、母の前にいるときよりもくつろいでいるようにも感じられる。窓の淵に手を乗せて、体を壁に寄りかからせている。彼は僕が入ってくると、姿勢を元のしゃんとしたものに戻した。


「すまないね。勝手に呼びつけてしまって」


「いいえ、別に」と僕はそっけなく返した。それ以外に言葉が見つからなかった。


「緊張する必要はない」とコンさんは言った。「君が固くなっていると、こちらとしても話がしづらくなる。少々込み入った話だから、君にはできるだけ、楽な姿勢で聞いてもらいたい」


「努力しますよ」と僕は言った。そして、いったいどこに立っていればいいのかがわからず、自分の部屋だというのに、しばらく右往左往していた。コンさんが厳かに手の平を僕に向けてくれなければ、ずっと自分の立ち位置がわからずうろうろしていたに違いない。


「どうか気持ちを落ち着けてほしい。君が僕のことを恐怖していることは承知している。なにせ、君たちには私の素性をほとんど明かしていないわけだからね。警戒するのは当然のことだ。だが、秘密にするということは、秘密にしなくてはならない相応の理由があるということだ。それをむやみに詮索するのは愚かだ。そして、実体のわからないものに対して必要以上にびくびくするということも、また良くないことだ」


 その言葉で僕は意識がはっきりした。これまで慌てふためいていた頭がすっきりしたような感覚だった。このとき、少しだけコンさんに怒りを持ってしまったのだろう。だがそのおかげで、僕は彼に面と向かうことができた。


「話というのは何ですか」と僕は訊いた。


「ああ」とコンさんは返事をした。そして腕を組んだ。「君もおそらく大体の予想がついているとは思うが、話は君の母親についてだ」


 僕は自分の体がこわばるのを感じた。予想はしていたが、本当のこととなると実際びくりとする。


「今日、君の母親はとても調子が良いみたいだった。それも今までにないくらいにな。それ自体は大変喜ばしいことだ。私としても、元気に過ごす彼女を見ることは幸せでもあるし、一緒にいて心地良くもある。あちら側への移行が何度も起こるような日とは段違いだ。君には本音を語るが、私としても、あんな状態の彼女を見ることは、とてもつらい。すぐにでもその場から逃げ去りたくなる。だが、正常な状態でいるときの彼女は、まるで木漏れ日のように気持ちがいい。私は彼女のそんな魅力を失わせないために、こうして毎日来ているというわけだ。症状は年々ひどくなっているようだが、彼女の真実の魅力は依然として輝きつづけている。私はそれを守りたい。その決意を持って、君の母のところまで歩いてくる。


 しかし、今日という日は、私たちにとって重要な日であるようだ。私には、彼女をずっと観察してきてわかっていることがある。それは、彼女の調子が良いときに限って、より深刻な、あちら側への移行が起こってしまうということだ。朝から彼女の気分が優れないような日は、逆に起こりにくい。どうしてそのようになっているのか、詳しい仕組みについてはわからない。だが、彼女が元気でいるときほど、我々はよほど注意をしていなくてはならないということは事実だ。特に今日は、彼女自身も言っていたように、非常に調子が優れているらしい。さっきも言ったように、それはそれで構わない、彼女が気持ちよさそうに過ごしているところを見るのは嬉しい。しかしそのあとが問題だ。まるで躁鬱病のようにして、それは起こる。ちょっとやそっとの衝撃では、もうこちら側には戻って来れない可能性だってある。それを君だけに、伝えたかったんだ」


「母自身にそのことを伝えるのは、やはり駄目なんでしょうか」


「やめておいた方が良いだろう」とコンさんは自信のなさそうな声で言った。「自分が病気だということを自覚させるのは治療としては良いのだろうが、この問題に関してはもう少し丁寧に扱う必要がある。知らない方が平和に暮らせるということもあるのだ。それに彼女の場合、自分が父にばかり囚われているということを知ってしまったとき、どういう行動に出るのか予想がつかない。情けない自分に腹を立てるのかもしれない。あるいは、弱い自分を克服するために、父についての記憶や記録を執拗に消し去ろうとするかもしれない。いずれにせよ危険な行動に出る可能性が高いんだ。彼女は穏やかな気質の持ち主だが、その分、燃えたぎる炎を内に秘めている。今はそれを制御できているが、たとえば父の写真を伏せようとしたときに驚くくらい激しく怒るように、リミッターが外れてしまえば、それこそ業火のように狂うことだってできてしまえるんだ。君はそのことを知っているはずだ」


 コンさんは慎重な態度を崩さなかった。僕も彼の言葉には大賛成だ。しかし、心のどこかで、このままでいいのか、一生この生活を続けることになるぞ、という僕自身の声が聞こえてくるようでもあった。僕は年齢でいえばもう成人しているが、今もまだ、何が正しくて何が正しくないのかを、自分で決めることのできない未熟な人間だった。


「とにかく、今日は気をつけていてほしい。特に夜は注意だ。暗闇は人を惑わせるからね。昼の間はわたしもついていられるし、君もいてくれるだろうから大丈夫だろうが、夜になれば私は帰らなくてはならない。君と、いずれ帰って来るであろう妹さんだけで、事態を乗り切らなくてはならないんだ。その際、君が家族を支えてやらなければならないんだぞ」とコンさんは、今まで以上に声を低くして言った。


 僕は何とか返事をしたが、あまり自信がなかった。いったいどれほど強く、母はあちら側に囚われてしまうのだろうか? コンさんがあれだけ言うのだから、きっと水をかけたくらいでは戻ってこないに違いない。今のうちに、対策を練っておかなくてはならない。そこで僕は、コンさんに聞いてみることにした。もしもそういったことが起こったら、どう対処するのが最適なのか。コンさんは僕の顔をまじまじと見つめた。そして、意を決したように話しはじめた。


「彼女がもしも、永遠に戻ってこないのではないかと思うくらいの深みまであちら側に行ってしまったとき、彼女をこちらに引き戻すのは、物理的な衝撃しかない。夜、眠っているとき、ベッドから落ちてしまうときがあるだろう? そのときに君は夢から覚めるはずだ。そんな具合にして、彼女を現実に連れてくる必要がある。眠りが浅ければ、人の話す声だけで起きることも可能なように、彼女の没入の度合いが低ければ、たとえばちょっとつねるくらいでたやすくこちらに戻って来られる。だが重度の没入となると……。あるいは彼女の体をひどく傷つけるくらいのものでないと、引き戻せないのかもしれない」

「傷つけるというのは、血を伴うようなものでしょうか」


「それは最終手段にすぎない。方法はたくさんあるよ」とコンさんは言った。「けれども、どの方法も彼女を苦しめなくてはならないことに変わりはない。すまないけれど、私にそのいくつかの方法を教えることはできない。突き放すようで悪いとは思うが、方法は自分の頭で考えだしてほしい。その方がお互いにとって良いだろうから」


 コンさんはそのとき、一瞬ではあったが、弱気な態度を見せた。彼もまた、実際にそれが起こってしまったら、どうしようもなくなってしまうのかもしれない。僕はただ黙っていた。


「話はこれで終わりだ。長く付き合わせてしまって悪かったね」とコンさんは言った。その途端、部屋を包んでいた緊張の糸も切れたようだった。僕は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。手を開いてみると、汗が滴になってまとわりついていた。


 コンさんは話し終わるとすぐに一階に下りていった。僕に気を使ってくれたのだろう。実際、僕は一人になって、この問題について考えたかった。コンさんの言ったことは本当のことなのだろう。疑う理由など何ひとつない。僕に嘘の情報を教える必要もない。それは、彼の言っていたとおり、今日のうちに起こるのだ。僕は気分が悪くなり、立っていることがつらくなってきた。ベッドに腰かけて、心と体を落ち着かせることにした。だが、心臓の高鳴りはしばらく続いた。意味のないことだとわかっているのだが、どうか起こりませんように、と願うことはどうしても止められなかった。下の階からは、母のすがすがしい笑い声が聞こえた。いつもなら嬉しくなるはずのその笑い声も、僕の憂鬱を加速させるにすぎなかった。

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