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3 コンさん、予言、祠(1)

 胸がかきむしられるような夢を見たあとで僕は目を覚ました。とても悪い夢だった。そのせいで頭にその映像がこびりつき、いくらこすっても落ちてくれない洗い場の汚れみたいに、僕を否応なく支配した。それで起きたときは少しいつもと違った気分だった。やけに体が軽いようで、でもその内側はひどく重くなっているようだった。こんな日は初めてだった。


 僕は自分がここに居るということを確認するかのように、うう、と低く唸るような声を出す。それは腹が空いたときによく鳴る音にそっくりだった。あまりにそっくりすぎて、自分は腹が減っているのだろうかと勘違いしてしまいそうになる。現に腹は減っているのだろう。なぜなら、その勘違いが起こった瞬間から、気怠い空腹感がするりと僕の中に侵入してきたからだった。


 やはりいつもと違う。そう思いながら、枕元の時計を確認する。時刻は七時四十七分を指していた。たいした寝坊だった。普段よりも数時間遅れて目を覚ましたことになる。これでいつもと感覚の違う理由がわかった。疑問が解決したところで、僕は朝食をとりに一階まで下りていった。


 今日は木曜日だ。本当なら朝早くから大学に行かなくてはならないのだろうが、この日は何の授業も入っていなかった。大学に向かわなくてはならない理由など何ひとつない。大学から借りてきたいくつかの書物も、返却期限はまだ先のはずだ。大学の方で待ち合わせるような友人もいない。会って話をするような教授も存在しない。そんなわけで、僕は木曜日という平日を好きなように過ごすことができる。


 階段を下りている最中に、そういえば母は大丈夫だろうかと思った。妹はもうとっくに家を出てしまっている。それからは母一人きりだったはずだ。何も問題が起きていなければいいのだがと思う。しかしそんな保証はどこにもないし、また、問題の起きる可能性の方が、ずっと高い。


 そう思うと、起きたばかりでぼうっとしていた頭もだんだん覚醒してくるというものだ。僕は一段下りるごとに意識を元に戻していく。リビングに駆けつけるころにはすっかりいつもの自分に戻っていた。果たして母はそこにいた。呑気に口笛を吹きながら、台所で何らかの作業をしている。皿洗いをしているわけではないようだ。そしてあちら側への移行を起こすような雰囲気もまるで感じられなかった。母はそのときだけは、頼りがいのあるきちんとした母に見えた。


「おはよう」と僕は声をかける。すると母も、快活な声で「おはよう!」と返してきた。


 僕は無表情を保っていたが、内心では、こんなに気分の良い母は見たことがないという驚きと、狂っていなくて良かったという安心感がごちゃ混ぜになったような気持ちを抱いていた。


「今日は大学ないんだっけ?」と母は大きな声で質問をする。


「そうだよ。でも、一日中家にいるわけにもいかないから、昼頃に出かけるかもしれない」

「じゃあ、お昼ご飯はいらないのかしら?」

「どうだろう。詳しくは決めていないからはっきりとは言えないけど、一応作っておいてくれる?」


 そのように言われると、母は「わかったわ」と微笑み、また謎めいた作業に戻った。何をしているのかはこちら側からは壁に遮られて見えなかった。


 僕は冷蔵庫から適当に食品を並べて朝食にした。白飯をよそるとき、母の近くまで寄って、母が何をしているのかをちょっと覗いてみた。特別なことはしていなかった。ただ、フライパンだとかのキッチン用品を要領よく整頓していただけだった。


「今日もコンさんは来るよね?」と僕は訊いた。


「ええ、そのはずよ。まだ連絡はないけど、もうすぐ電話があると思う」


 コンさんは近所に住む老年の男性だ。親切心から母の病気を気にかけている。年齢は六十を超えているようだが、本当のところはわからない。八十近いのかもしれないし、まだ五十を過ぎたあたりなのかもしれない。彼は自分の年齢を絶対に公表しなかった。ところどころ白髪が混じってはいるが、依然として豊かに生えそろっている黒い髪を、後ろに撫でつけてある。目は鋭く、獲物を狙う鷹のような獰猛さが感じられた。しかし人柄はその印象とは真逆で、心の優しい善良な人だ。僕や妹が外出している間は彼に母のことを一任している。このとき、彼らは二人きりになってしまうが、男女のそういった関係が二人に結ばれるという心配は一切ない。コンさんは決してそういう人ではないのだ。彼と話していれば自然とわかることで、ただ彼は、僕の母のことが心配でたまらないから、こうして毎日、ここを訪れているにすぎなかった。


 彼が普段、どういう生活をしているのかは謎だ。自分の経歴も稀にしか語ろうとしない。彼はどうやら一度も結婚をしていないようであった。女性との付き合いは少なからずあったらしいのだが、結婚という段階になると、どうしても足を踏み出せなかったのだと彼は言っていた。どこかの大学(母の話によれば、一流の大学だそうだ)を卒業してからは親元を離れて一心に働いた。そのおかげで、この歳になってからは悠々自適に暮らしている。そういうことらしかった。


 本名もまたわからないことの一つだった。彼はただコンさんと呼ばれているだけで、それがどこに由来しているのかもいまいちはっきりしない。家の表札を確認すればいいのだろうが、彼の家がどこにあるのかもわからない。彼はただ近所に住んでいるというだけで、自宅の具体的な住所までは明らかにしないのだ。以前、彼の自宅をつきとめようと、妹と一緒に彼を尾行したことがある。おおよそ三年前のことだ。その日、僕たち二人は、相手に気づかれないように、そっと彼のあとをついていった。時刻は午後六時を回ったところで、もうすぐ闇がすっぽりと町を覆ってしまう時間だった。僕たちは面白半分に尾行を続けていた。コンさんという男に興味が尽きなかったのだ。しかし、ある地点からいきなりコンさんの姿が消えてしまった。煙のように、すっと。僕は混乱してしまった。彼から目を離したという記憶はないのに、気がついたら消えていたのだ。妹も同じようなことを言っていた。終始観察を続けていたにもかかわらず、コンさんは、その一瞬の隙を狙って、巧妙に僕たちの前から行方をくらましてしまったのだ。尾行はそのあとも何度か行なわれたが、結果は同じだった。彼はいつも、僕たちの目をかいくぐって姿を隠し、翌日にはまるで何事もなかったかのように家を訪れる。僕たちは何だか恐ろしくなりはじめて、以降は行方を追うということをまったくしなくなった。謎も残ったままになってしまった。


 神秘的な人間ではあるが、それを抜きにすれば、赤の他人である母を気遣う頼れる人格者であるため、彼という人物を好きにならざるを得ない。出会ったのは四、五年ほど前だが、彼はそれ以来、文句ひとつ言わずに、電話を午前八時から九時の間に入れて、その五分くらいあとに、ダンディな顔つきで玄関に姿を現す。そして夕方になり、日が暮れかけて暗闇が訪れる少し前に、後腐れもなく颯爽と家を出ていく。そんな生活を続けていた。


「昨日はコンさんとはどんな話をしたの?」


「そうねえ」と母は溶けたアイスクリームみたいな表情を浮かべる。「格別面白い話はしないわよ。何しろ彼はおしゃべりじゃないから。私が質問をすれば二言三言返しはするけれど、自分から何かを話すというようなことはしない人だから」


「本当に物静かな人だよね」

「ええ。会話が終わると彼はいつも本を取り出すの。それも毎日違う本を。昨日はタイトルははっきりしなかったけれど、英語で書かれた小説みたいだったわ。表紙に西洋画が載っているようなやつ」

「コンさんは何者なんだろう」

「わからないわよ。たぶん、彼のことを本当に理解している人は、世界中でも一人か二人しかいないんじゃないかしら。過去に何の仕事をしていたのかも話してくれないし、今のことだって……」


「お母さんはもっとコンさんのことを知りたいと思う?」と僕は訊いてみた。


「もちろんよ」と母は叫ぶように言った。「あんなに親切にしてくれている人だもの。私も何か力になってあげたいと思うわ。でも、彼が自分のことをほとんど明かしてくれないから、贈り物の一つもできやしない。せいぜい訪ねてきてくれたときにお菓子を振る舞うことぐらいしかできない」


「昼食も自分で用意してくるんだっけ」

「そうなのよ。だから、一緒に食事はするんだけど、私と彼とで食べているものが違うから、ひどく間の悪い空気になってしまうの。いくら私がコンさんの分まで用意すると言っても、彼は全然聞いてくれない。勧めれば食べてはくれるけれど、あまりぐいぐい勧めるのも何だか悪いじゃない? だから、ちょっと困っているのよねえ」


 でも、と母は言った。「悪い人じゃないことは確かだわ。この数年間、私の気を煩わせるようなことは一つも起こさなかった。彼は常に徹底している。彼がそばにいるとき、私は英国の貴族にでもなったような気分になるのよ」


「それはコンさんが執事みたいだからかな?」


「たぶんね」と母は言った。そのとき、電話の鳴る音がした。

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