20 母、別れ、飛翔(3)
これほど長く走ったのはずいぶんと久しぶりのことだった。高校の体育の授業で実施されていた長距離走以来のことかもしれない。途中で足が動かなくなるのではないかと懸念していたが、幸いそのようなことにはならなかった。足は予想以上に活躍してくれた。もしかすると、日常的に走っておらずとも、歩く習慣がついてさえいれば、長距離を駆けることは苦ではなくなるのかもしれない。歩くのも走るのも、たいして違いはないのだ。どちらがより負担が大きいかというだけであり、歩行は毎日欠かさず行なうことでその負担の小ささをカバーできる。筋肉は、自分の知らないところで意外にも多く使われているということである。
霞はすぐに見つかった。三キロ先からでもわかるくらい彼女ははっきりとそこにいた。鳥居を抜けた先の、石段の段差に彼女は一人で座っている。近づくにつれ、彼女が一体どういう表情でいるのかも判明してくる。彼女はいわば水のような表情をしていた。何の感情もそこには含まれていないし、何の感情も相手に抱かせないような、無色透明な顔。宙を見上げて、そこから目を離さないでいる。だいぶ近づいてから、ようやく僕のことに気がついた。
「嬉しいな。私の思っていたよりも早く来てくれたみたいだ」
「ごめん。母が帰ってきて、それで遅れてしまったんだ」と僕は息を整えながら言った。
「いや、別にいい。私もおかげでずいぶんと考えごとができたしな」
それを聞いて、僕ははっとした。彼女が考えていたことは、きっと僕の考えていたことと同じだろうとそのときに思った。
僕は彼女の肩をそっと抱いた。そして小さな声で「遅れて本当にごめん」と言った。彼女は何の抵抗もしなかった。ただ、体がかなり冷たくなっていた。今、太陽は激しい熱気を地表に注ぎ、地上の生物たちを干上がらせている。そんな灼熱の気候において、彼女の冷たさは異常だった。僕だけでなく、この世のあらゆるものを拒否しているように感じられた。だが僕は彼女の体を離さなかった。
「わかったから、もういいだろう。恥ずかしくなってきた」と彼女は言った。僕はついに体を離した。
僕たちは手を繋いで、神社の正面階段を上っていった。僕の手はかなり湿っていた。走ってきたせいでもあるし、彼女の冷たさにどきりとしたせいでもある。彼女はそのことは気にしていないようだった。むしろこちらの手を強く握ってくれていた。まるでここを上っている最中に、自分が転落するのを恐れているかのようだった。
僕は頭の中でもう一度あのメロディーを思いだした。良かった、忘れていないみたいだ。今日、『未完成』が完成したら何が起こるのだろう。僕たちは何日間もぶっ続けでこの曲のために手を尽くしてきた。それが今、ようやく報われるのだ。それを改めて思うと、感極まるものがあった。すぐにでも曲のことを彼女に言いたくなってきた。
以前のごとく、笛は賽銭箱の上に置かれていた。もう質問などはしない。我々にとって、笛がその場所にあるということは自明のことだったからだ。そしてそれがどういう意味を持っているのかも、いつのまにか考えなくなっていた。きっと考えない方が良いことなのだ。
いつもの四阿まで行き、そこで無言になる。セミは勢いよく生命を謳歌しているし、アリなどの小さい生き物は、奴隷のように休むことを知らないで、あちこち歩き回っている。僕はテーブルの上を歩いていた一匹のアリを指に乗せてみた。アリは自分がどこにいるのかをわかっていないみたいだった。しばらく彷徨ったあと、腕を伝って肩の方まで上ってきた。僕は慌てて逆の手を使ってその進路を遮った。アリは前進後退を繰り返したあと、元来た道を下っていった。その一部始終を観察すると、僕はアリを適当な場所に下ろしてやった。
その間、彼女は何も言わなかった。僕が重要なものを持ってここまで来たことに彼女は気づいているのだろう。そうでなくとも、今までとは違う、何かを決意したような僕の態度に並々ならぬものを感じているのだ。この緊張を早く解いてあげないといけない。だが彼女に話しかけるタイミングはどこかに失われてしまった。そんな僕を嘲笑うように、一羽のカラスが四阿の近くまで下りてきた。こちらを見て、不思議そうに首を傾けている。どうして言わないのだ、さっさと言ってしまえと、その黒い生き物は語っているようでもあった。僕は目をカラスから霞へと移した。
「どれだけ探しても見つからなかったメロディーが、今日見つかったんだ」
彼女はしばらく固まり、それからうなずいた。
「ああ。そんな予兆は薄々感じていた」
彼女はテーブルに置いてあった笛を手に持った。「さあ。お前が手に入れてきたメロディーを私に聴かせてくれ。それでこの曲は『未完成』ではなくなる」
僕はもう一度、頭の中で間違いがないかを検討した。それが済むと、僕は意を決してメロディーを口ずさんだ。一年前、お祭りのときに披露した歌声もひどいものだったが、今回も似たような実力だった。自分で聴いていても笑えるから、彼女にしてみたらさらに悲惨なものに聴こえているだろう。体が熱くなるのを感じながら、空白部分の独唱を終了した。彼女は南国の郷土料理を初めて食べたときのような表情をしていた。「ずいぶんと簡単なものだったんだな」とようやく口を開いた。
「そうなんだ」と僕は恥ずかしさをこらえながら言う。「メロディーはどこにでもあるような、ごく単純なものだった。どうして今まで見つからなかったのか、不思議でたまらないくらいだ」
「私たちが、空白部分を下手に神格化していたからかもしれないな。答えは遠くではなく、すぐ近くに存在していたというわけだ」
そのあと、彼女は広げてあった楽譜に、新たなメロディーを書き加えた。これで曲は完成したということになる。ひどく呆気ない結末だが、驚きの最後を予想していたわけでもないので、特に残念なものは感じなかった。
「じゃあ、演奏してみる」と彼女は言った。そして立ちあがり、彼女が笛を吹くときの定位置まで歩いていった。そこは偶然にもカラスの休んでいる場所だった。カラスは彼女の接近に気づいてはいたものの、ふてぶてしくその場を動こうとしなかった。だが最終的には場所を譲ってくれた。カラスは近くの木にとまってカァと鳴いた。
辺りの音が鎮まったような気配がした。それは主観的なものではない。実際にセミや、小鳥の鳴く声が小さくなったのだ。彼女が笛を吹こうとするとき、いつも周囲は静かになる。カラスの声も、もう聞こえない。彼女はこちらを向いて一礼した。僕は軽く拍手をした。
彼女は演奏を始めた。最後の部分までは何百回となく聴いてきたから、今ではもう、笛の音と一緒に口ずさめるほどだ。だが、今回は口ずさむようなことはしない。僕は黙って、彼女の奏でる笛の音に耳を傾けた。すると僕の頭に一つの印象が浮かび上がる。それは暗くて不気味な森だ。木々があまりに生い茂ってしまっているため、地面に生物が住むことはできない。太陽が存在しないため、大地は凍りついてしまっている。森は絶えず沈黙し、来たるべき時に備えて力を蓄えている。音は木々の隙間を通り抜けていが、何の効果も表れず、ただその陰鬱さを拡大していった。演奏が進むごとに闇は深まるばかりだった。
いつも以上に気合いの入った演奏だ。彼女はどういう気持ちでこの曲を作ったのだろうか? 彼女が演奏する他の曲は、大抵が明るい曲調のものだ。その反動で生まれたのがこの曲なのだろうか? それにしては暗すぎる。そこには何か、心の奥底に隠された絶対的な神秘があるかのように感じられた。僕にまだ言えていない、彼女の本当の秘密を、この曲は伝えようとしているようにも思えた。
この思惑が真実であるにせよ間違っているにせよ、彼女の持っているすべての熱情がそこに注がれていることだけは疑いようもなかった。初めて作った曲ということで、不器用なところはいくつかある。しかし、それでも全体を眺めてみれば強く訴えかけてくるものがある。細かな技術ではなく、全体に込められた思いによって、聴衆の心を奪ってみせるような曲と演奏だった。おかげで僕は、何もかもを忘れてその演奏に聞き入ってしまった。
音にはさらなる重みが加わり、聴いている者すべてを不安な気持ちにさせていく。僕は自分がどこにいるのかもわからなくなってきた。かたちを持たないものにばかり気を取られて、実体のあるものに対する興味は失われてしまった。僕がいる場所は、もはや現実ではなかった。観念的な、肉体を持たずに生きていくことのできる魂の世界だった。その状況に疑問を投げかけることはもうできない。実際にそこを見てしまったのだから、納得をするしかないのだ。
僕はふと、母のことを思った。彼女が病気のときにいた世界も、このような場所だったのだろうか? だとしたら、彼女がいつまでもここに囚われていた理由も理解できる。ここでは自分の望むいろいろなことが実際に起こりうるのだ。不可能という言葉はここには存在しない。「可能」という法律だけがここでは適用されている。僕は音を聴きながら、この観念の世界を自由に飛び回ってみた。風はないけれど、僕は鳥のように飛行することができた。鳥の目にはどんな美しい景色が映し出されるのだろうかと期待していたのだが、あいにくもう陽が沈んでしまったために何も見えなかった。うっすらと深い森が広がっているのはわかるけれども、それ以外には何もわからない。この森に入って、中の様子を確かめてみようと一度ならず思った。けれど、僕はどうしても森まで下りていくことができなかった。目に見えない壁のようなものが、下りようとする僕を遮るのだ。何度試してもうまくいかないため、そのうちにあきらめてしまった。
演奏はなおも続いている。問題の部分まであと少しのところだ。僕はだんだん飛ぶのに疲れてきた。どこかで休憩したいと思いはじめてきた。だが適当な止まり木はどこにもない。森に下りることはできないし、そのうえ地表は森に覆われている。僕はどうやら飛び続けるしかないようだった。霞が演奏を終えるまで、僕は力尽きないようふんばるしかない。「可能」しかないこの世界だから心配はいらないだろうが、それでも僕は、自分が墜落する場面を想像しないわけにはいかなかった。
この際だから、どこまで森が続いているかどうかを確かめることにした。こんな機会は二度とないだろう、だったら自分のやりたいことを思いきりすべきだ。そう決めると行動は早かった。僕は一直線に、全力で飛行を始めた。森がどんどん後方へと流れていった。どこまでその闇が続いているのか、まったくわからない。どこまでも行けそうな雰囲気はあるけれど、進むたびに不吉な予感が膨れ上がっていった。――このまま行けば、僕は一生、もとの世界に戻れないのではないかという予感だった。
だが僕はもう、進むことを止められなかった。鳥の頭は単純にできているのだ。方向転換をするという選択は僕にはない。進むのを止める方法があるとすれば、それは下に広がる森のどこかに着地するということだけだった。だが森に下りることはできない。そういう決まりになっている。結果、進むことしかできない。一度決めたことは最後までやり遂げなければならない。たとえその先に絶望しか待っていなかったとしても、進むのを途中であきらめてはならない。それがこの世界で新たに発見したルールだった。
問題だった箇所、今まで空白だったところが演奏された。やはりいつ聴いても普通だ。それ以外の感想が浮かばない。答えは簡単だったのだ。でも僕たちはそれを自力で見つけることができなかった。僕の母の助けを借りなければ、メロディーを埋めることができなかった。僕はそこで、あることに思い至った。母はこの世界を知っていたから、メロディーを知ることができたのではないか? つまるところここは母も一度通った世界で、僕は母の進んだ道をただなぞっているだけなのではないだろうか? だとしたら、この先に待っているものは……。
考えがまとまる前に、空白だった部分の演奏は終わり、曲はフィナーレを迎える。霞はいつの日か、僕に言ったことがある。最後の部分はすぐにできたのだ、と。その手前の、中盤から終盤にかけてのところがどうしてもうまくいかなかったのだ、と。どれだけ立派な町が隣の島にできたとしても、そこへ行くための橋がなければ意味がないのと同じだ。その橋はやっとのことで完成した。僕はそこを通って、立派な町へと向かっている最中なのだ。そしておそらく、霞自身もそこへ向かっているのだろう。今は姿が見えないが、必ずや僕の近くで同じように羽ばたいているに違いない。そう思うと自然と勇気が湧いてきた。このままいけるところまで行ってみようという気に改めてなった。
曲は終わってしまった。僕はまだ飛行を続けている。もうほとんどものを考える力はなくなっていた。だから自分が何をしているのかもよくわからない状態だった。わかるのは、音が聞こえなくなったあと、僕の傍らに、微笑みを浮かべた東堂霞が出現したということだけだった。
夜が明けてきた。森は陽光に照らしだされ、どんな姿をしていたのかを僕たちに見せつける。森はどこまでも広がっていた。四方八方、どこを見渡しても緑しかなかった。きっとこの先、進んでいってもやはり森しかないのだろう。しかし僕はまったく不安を感じなかった。霞がそばにいてくれているのだ。何におびえる必要があるだろう?
音はもうなくなってしまったけれど、よく耳を澄ませてみると、木々の一本一本に音が染みわたっているのがわかる。演奏が終わり、曲が完成したことで、森もようやく真の姿を取り戻したのだ。今はまだ生き物はいないけれど、時間が経てばきっと戻ってくるのだろう。そうなれば、僕も木の枝で羽を休めることできるようになるのかもしれない。いつまでも飛んでいるというのも骨なのだ。生き物は必ず休息を取らなくてはならない。
僕は愛する女の子と一緒に、どこまでも真っ直ぐに進んでいった。太陽のある方角ではない。太陽は僕たちの進んでいる方向とは逆の位置にある。それがどういうことを意味しているのかもわからずに、僕と霞は、手を握り合いながら、何が待っているかもわからない未知の世界へと旅立っていった。
「一緒に」と霞は言った。彼女の発する言葉はそれだけだった。「一緒に。一緒に」
それに僕は快く応じた。彼女の手は、太陽が高くなるにつれてますます温かくなっていった。




