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2 写真、悪霊、桶(2)

 僕は一旦リビングに戻った。母は相変わらず皿を洗っている。いいや、それは僕の見間違いだった。母はもう皿など洗っていない。蛇口から水を出しっぱなしにしながら、悪霊に魅入られた聖女のようにぼうっとしていた。目はどこか空中の一点に張りついていた。僕は危ないと思った。このままだとまた、あちら側を母は旅することになる。僕は母がそうなるごとに、もしかしたら母は永遠に戻ってこないのではないかといちいち心配していた。だから、その心配を払拭するために、母がまだ現実に留まっていられるように、僕は母に近づいて、その肩を揺さぶった。母の体は死んでしまったみたいに固い。大木を揺すっているような感覚だった。そのうちに妹がリビングに戻った。妹もまた、母が意識を半ば失っているのを知って、こちらまで走ってきた。その顔はひどく青くなっていた。僕と妹は、二人して必死に母の体のあちこちを揺り動かした。だが今回は、母がいつまでも戻る気配を見せなかった。


 そのうちに手が痺れてきた。その痺れは不吉な予感を僕に与えた。もしかして、このまま母は旅立ってしまうのか……? 僕は首を振った。いいや、絶対にそうさせるものか。僕は混乱する頭を抱えたまま、何も考えずに流し台の桶を見た。そこには水が、溢れるくらい溜まっている。食器はもう入っていない。僕は母から手を離すと、その桶を持ち上げた。持ち上げたときに半分ほどの水が外に流れ落ちた。だがそんなことに構う余裕もないまま、僕は桶の中の水を、一息に母にぶちまけた。大地の裂けるような鋭い音が鳴った。


 そこで時間が止まったような気がした。だが時間が今もなお進行していることの証拠として、蛇口から流れる水だけは一向に止まっていなかった。


 水をかけられた母は意識を取り戻した。これまで虚ろだった目が、きちんと焦点の合った正常なものに回復している。僕はほっと安心した。これでひとまず、危機は去ったのだ。母は目をぱちくりさせて、自分の様子をじっくりと眺めた。母は自分がどうして濡れているのかが理解できない様子だった。そして、その答えを得ようとするかのように、傍らに立っている僕と妹を見つめた。妹もまた、母と同じように服がびしょ濡れになってしまっていた。手元が狂い、二人に向かって桶を傾けてしまったのである。妹はその大きくて丸い瞳を、怒りに燃えたぎらせて僕に向けている。僕は無視することにした。これ以外に、母をこちら側に呼び戻す方法があっただろうか? しばらくすると妹は「ふんっ」と鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。腕を組んで、髪の先から雫を滴らせながら。


「ごめんね。一体、何があったの?」と母は僕に言った。その顔はまるで身に覚えのない罪を宣言されたときの憐れな婦人だった。


「ちょっとね。皿洗いを手伝おうとしたら、手を滑らせてさ」

「皿はもう洗い終わっていたんだけどねえ。見えなかった?」

「ごめん。見えなかったよ」

「そう……」


 母は顔をうつむかせて何か思い悩む人の表情になった。もしかすると、このとき母は、また自分が家族に迷惑をかけるような失敗をしてしまったのではないかと考えていたのかもしれない。母は、自分があちら側に行ってしまうのだということを知らない。放心状態のとき、母は本当に一時的に自分の時間を止めてしまうのだ。そのときに起こったことはすべてなかったこととしてカウントされる。だから記憶にも残らない。しかし、自分が何か異常をきたしていたという覚えはあるみたいで、たまにそのことについて考えを巡らせるような顔になることがある。今がそれだった。


 母に自覚させたらいいのだとときどき思う。お母さんはときどき、僕たちの知らないところに行ってしまうことがあるんだよ。現実から離れて、死んだ父の(おそらく)いる別の世界にさ。しかし、それを母に真正面から伝えるような勇気は僕にはなかった。それに、一旦それを口にしてしまうと、まるでその異常を容認してしまうような気がして、嫌だったのだ。今のところは妹も、母にそのことを伝えていないようだった(そもそも妹は家の中ではほとんどしゃべらない)。このままでいいのだろうかという懸念がないわけではない。だが、考えを推し進めたときに必ず辿り着くのは、現状維持、という言葉だったのだ。今のところは強いショックを与えれば、母は現実に戻ってきてくれる。今のままでいいじゃないかという諦めに似た気持ちを、僕は毎回こじらせていたのだった。ただの意地だとわかってはいるが、自分で決めてしまったことなのでどうしようもなかった。


 僕にはもう一つ心配ごとがある。それは、妹もまた、母のようにあちら側に旅立つ時が来るのではないか、ということだ。父は、妹が一歳になる頃に死んでしまった。その頃の記憶を果たしてこの妹が持っているのかどうかは疑問だが、人生は何が起こるのかわからないものだ。そして、起こってしまったら、それはもうどうしようもなくなってしまうのだ。それを止める術は自分にはわからないため、余計に嫌になってしまう。


 妹はぷりぷりしたまま風呂場に直行した。僕は母に声をかけた。


「濡れたところは拭いておくから、お母さんも風呂に入ってくるといいよ」


 すると母は遠慮気味に言った。「今ちょうど、もう一人の被害者が入っていったけど……」


「大丈夫。あいつはそんなことで怒りはしないよ。家族に遠慮することなんてない」


 そのあとも母はぐずぐずしていたので、僕は母の背中を押して風呂場まで行かせた。そのあとリビングまで戻って、床を浸している水の処理にかかった。その際に流れっぱなしだった蛇口も止めておいた。




 何もかもをやり終えて、僕はようやく自室のベッドに潜り込んだ。枕元のライトに照らされた時計はちょうど零時を示していた。僕はそれだけを確認すると、ライトを消して部屋を真っ暗にし、枕の柔らかな感触に顔をうずめた。


 母が寝るまでは僕も眠ることができない。妹は朝が早いために、十時前にはもう部屋に閉じこもってしまう。そのため、母の見張りは僕にしかできなかったのだ。母はときたま今日の出来事を僕に話す。そのときは僕も、なるべく興味のある様子を振りまいて会話を続けようと努める。けれども、つい何も考えないでぼんやりしてしまうことも多々あった。


 母は今日は珍しく、新聞を眺めたり、適当に本を選んで読んだりしているだけだった。定期的に、気の抜けるような声と共にあくびをすることもあった。十一時半ごろになってやっと母は本を置いて、「じゃあ、そろそろ寝るね」と僕に声をかけた。そのときには僕はもう、眠気と格闘することすら放棄していた。


 母の寝床に入る音がしたあとに、やっと僕は部屋に戻ることができる。夕方から夜は、だいたいこんな風にして過ごすことになる。母に、いやむしろ父に縛られるばかりの日々。だが不思議と、明日になればその疲労はすっかりなくなり、元気を取り戻すことができた。まだ若いからなのかもしれない。僕がもう少し年を取ってしまえば、日々のこの生活も苦痛に感じるときがやってくるのかもしれない。それを思うと気が重くなった。いつまでこれが続けられるのかもあまり考えないようにしていた。父の呪縛が解ける日が来るのだろうか? 最終的には医師の手に委ねることになりそうだ。しかしできる限り、母の面倒は自分で看ようと僕は決心していた。


 僕は父の顔を思い浮かべようとした。その顔はいつものごとく、白い絵の具で塗りつぶされており、はっきりと思いだすことができなかった。


 僕はその白い顔を脳裏に描きながら、静かな眠りに落ちていった。

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