19 母、別れ、飛翔(2)
衣類などの荷物をすべて部屋に運び入れたあと、おじさんとおばさんはすぐに帰った。お茶はいかがですか、という母の申し入れを彼らは丁重に辞退した。十年以上使っているという黄色いコンパクトなアルト・ラパンが、うなり声を立てて遠くなっていく。僕たちは微妙な気持ちのまま家に戻った。そのあとはみんなで荷物の整理をした。
時計の針が十二時を過ぎたところで、僕たちは昼食にすることにした。食卓にはいくつかの弁当が透明のビニール袋に入れられてある。「ごめんね、ちょっと作る時間がなかったから、弁当にしちゃったの」と母はそっけない口調で言った。
「別にいいよ」と妹は言った。「弁当、好きだし」
僕たちは各々の弁当を食べた。もちろん話は尽きなかった。特に僕と妹は、質問を機関銃のように連発した。本当にもう大丈夫なのか、再発の恐れはないのか、そして、自分の病気を知ったとき、どんな気持ちになったか。これまでずっと秘密にしておいてごめんなさい、と僕と妹は謝った。母は手を振って穏やかに微笑んだ。
「謝る必要なんてどこにもないのよ。あなたたちが病気のことをどうしても私に言えなかったというのはよくわかるわ。私があなたたちと同じ立場に立たされたら、私だって伝えられないと思うもの、たぶん。自分の母に向かってあなたは病気だなんて、とてもそんなことを言える勇気はなかった」
「コンさんがいなかったら、僕たち家族がどうなっていたかわかりません。ありがとうございました」と僕は礼を言った。
コンさんもまた、うっすらと笑っている。「いや。私はただ、自分のしたいことをやっただけだよ。結果として君のお母さんはこうして元気でいられる。そしてこんなにも早く治療が終わったのは、他でもない君のおかげなんだ」
「そんなことはないですよ」
「いいや、君の心のサポートは、君の思っている以上に治療に貢献したはずだ。相手を思いやる気持ちは、実際のかたちを取らなくても、必ず効果の表れるものなんだ。それは時には医療の力をも凌駕する。君は自分の持っている力をもっと誇りに思っていいんだよ」
ありがとうございますと僕は言った。だが果たして、彼の言った通り、僕は母思いの立派な人間なのだろうか? 母が病院にいる間、僕はずっと、母以外のことばかり考えていた気がする。一応おばさんと共に病院を訪ねてはいたが、それも半ば義務的なものだった。彼の思う僕と、実際の僕とは、かなりかけ離れている。彼のその勘違いをこの場で指摘できるわけもなく、僕は当たり障りのない会話を、そのあとも続けた。
時間が経つにつれ、コンさんの表情が硬くなっていった。口数もどんどん減っていった。どうやら、何か気がかりなことでもあるようだ。それをみんなに伝えたいのだが、和やかな雰囲気を壊したくないがために、言えないのだ。「コンさん、もしかして、何か話すことがあるんじゃないんですか?」と僕は促してみた。
すると彼の表情が少し緩んだ。僕に、目で「すまない」と語ったように思えた。
「実は、そろそろ私は帰らなければならないんだ。ここを離れて、別の場所へと赴かなければいけない」
「もう帰るんですか?」と母はひどく落胆した声を上げる。それに対してコンさんは肩をすくめてみせた。
「すみません。絶対に外せない用があるもので」
「それじゃあ、仕方がないわね。今日はここまで送ってくれて、ありがとう。また今度、機会があったら話しましょう」
「ええ、ぜひ」
コンさんは早々に席を立ち、玄関の方へと歩いていった。弁当は既に全部食べ終わっていた。彼はその途中で足を止め、僕の方を見た。その目は、二人きりで話がしたいという意味が込められている。そこで僕は立ちあがって、コンさんの近くまで行った。僕たちは玄関近くまで行って、母たちに話す内容が漏れないようにした。
「もう二度と、ここに来ることはないだろう」とコンさんは矢継ぎ早に言った。
僕はこの発言の意図を必死に探った。どうやら冗談ではないらしいが、かといって真実らしさもあまり感じられない。「それはどういう意味ですか?」と僕は訊いてみることにした。
「言葉通りの意味だよ」とコンさんは優しく、こちらを励ますような口調で言った。「私はもうここに来る理由がなくなった。君のお母さんはもう、お父さんのことで放心状態になることはないだろう。これまでとはまったく違う生活が待っているはずだ。もうお母さんのことで時間が制限されることはない。そして私も、彼女を見守る必要はなくなってしまった」
「でも、たまに話しに来るくらいはいいんじゃないんですか?」
「それも駄目だ」とコンさんは言った。そこには確固たる決意がみなぎっていた。「私はこれからすぐにここを発つ。そして君の知らないところに住む。そこで何をするのかはまだ決めていない。しばらくは暇になることだろう。私がどこに行くのか、それを君が訊くことはできない。私は絶対に教えないし、知ったところで君には何の得もないからだ」
「僕には、コンさんのことがほとんどわかりませんでした。何年も一緒にいながら……」
「それでいいんだよ。じきに私のことは忘れるだろう。これからは家族仲良く、一致団結して暮らすんだよ」
コンさんは最後に、僕の頭に手を乗せた。そして笑顔のまま、家を出ていってしまった。僕は彼から目を離さなかったが、ついに見えなくなってしまうまで、彼は一度もこちらに振り向こうとはしなかった。僕は彼のあとを追いかけようとした。こんな最後があってなるものか。だが、予想はしていたがもちろん彼の姿はどこにも見えなかった。彼は数年前と同じく一瞬のうちにしていなくなってしまった。
僕はたまらない気持ちになった。このまま彼を行かせてよかったのかどうか、僕にはわからなかった。まだ感謝の気持ちを十全に伝えきれたわけでもない。それに、あのままだと彼は一生孤独なのではないだろうか……? 僕は彼の人生をほとんど知らない。しかし、彼が一人ぼっちであることくらいはわかる。もう彼に会うことはないのだろうか? 彼は永遠に消えてしまったのだろうか?
きっとその通りなのだろう。彼が選択したことなのだ。僕がどうしたところで、彼はおそらく信念を曲げようとはしない。二度と会わないと彼が言ったら、本当に会わないのだ。そういうことになっている――おそらく。僕はあきらめて、母と妹のいる場所へと戻っていった。
「コンさん、何か言っていた?」と母は沈む僕などおかまいなく訊ねてきた。
「うん。今までのことをちょっと話していた」と僕は適当に答えた。そして残っている弁当を一気に口の中に入れた。
「ふーん。そうなんだ。次はいつ来るかしらねえ」と母は呑気な態度を崩さず、台所を見て回っている。「懐かしいなあ。前にここで料理を作っていたのが一年前に思えるわ」
母はフライパンやらヤカンやらをキッチンの引き出しから取り出して、それらを整理し始めた。既に整理されているものをさらにもう一度整理し直すというのだ。何をしようか迷うと、母はいつも、全然意味のない行為をしたがる。母は気持ちよさそうに口笛を吹きながら整理を続けていた。
そのとき、僕は脳がピンと張りつめるのを感じた。電撃が一直線の針となって僕の脳天を刺し貫いた。針がどこから飛んできたのかはもうわかっていた。僕は母をしっかりと見た。
母の口笛は僕に訴えかけるようなものを持っていた。ずいぶん下手だが、そんなものは今は関係がない。母が何を演奏しているのかが問題なのだ。拙い技術のせいで、風邪をこじらせた小鳥のさえずりみたいな音ではあったが、僕はそれが何の曲であるのかがすぐにわかった。それは東堂霞の演奏した、『未完成』だったのだ。冒頭部分が印象的だから、忘れるわけもない。僕は母が救急車に運ばれる前、母が別の曲を演奏していたのを覚えている。あのときは『王の登場』だった。一体この繋がりはどこから生まれてきたのだろう? 「この曲を、どこで知ったんだ?」と僕は立ちあがって叫んだ。
母はびっくりしたのか演奏を止めた。「いきなりどうしたの? 何かあった?」
「今、口笛を吹いていたよね。聴いたこともないような珍しい曲だ。どこでその曲を知ったの」
「ああ、これね。私にもわからないのよ。気がついたら、私の頭の中にメロディーがあってね。入院している最中も、この曲が存在していたことはわかっていたんだけど、どうしても途中までしかわからなかったのよ。それに、口笛で吹こうとしてもどうしてもうまくいかなかった。けれど、最近になって、だんだんメロディーが浮かんできてね、頭の中で音が結合していくのがわかったのよ。退院したあとには、曲はもうすっかり完成していた。それで私も、やっと実際に吹くことができたのよ」
「その曲に聴き覚えはないの?」
「うーん……言われてみればどこかで聴いたことがあるみたいだけれど。でも、初めてこの曲の存在に気づいたとき、何だろう、これ、っていう感想しかなかったわ。だからきっとこれは私の知らない曲なのね」
「それ、最後まで演奏できる?」
「ええ、できるわよ。けっこう長いけれど」
「やってみて」
母は僕の真剣さに呑みこまれたようだ。母は不審な目で僕を睨みながらも、指示に従って演奏を続けてくれた。
曲は『未完成』そのままだった。霞と一緒に何度も聴いているから、間違いはない。テンポは母のものの方が若干速いようだが、それは特に問題ではない。僕は母が、一度も滞らずにこの曲を演奏しきれるかどうかだけに注意を傾けた。体中の筋肉がこわばって、下手をすれば明日、筋肉痛にでもなりかねないほどであった。
ついに口笛は、どれだけ時間をかけても埋められなかった空白部分に到達した。母はその部分をずいぶんあっけなく演奏しきった。それは風変わりなメロディーではなく、拍子抜けしてしまうほどの素朴さだった。その部分について思いを巡らせる暇もないまま、曲はフィナーレを迎える。演奏が終わると、母はふうとため息をついた。「続けて吹くと、かなり疲れるわね」
僕は空白だったメロディーを忘れないよう、何十回も頭の中で繰り返し再生した。僕が呆然と立ち尽くしているのを見て、妹は心配になったようだった。「大丈夫、お兄ちゃん?」と妹は声をかけてきてくれた。
それで僕は頭の中の世界から現実の世界へと引き戻された。「ああ、大丈夫」と返事をしながら、メロディーを忘れていないかどうか確かめる。完全に定着したというわけではないが、どうにか記憶できたようだった。
「で? どうしてこの曲のことがそんなに気になっていたのかしら?」
母の声はもう遠くに隔てられていた。次に僕のしなければならないことを考える。霞は今日も、朝早くから例の神社で待っているに違いない。今すぐ、そこへと行かなくてはならない。
「ごめん。もう少し家でゆっくりできればいいんだけど、用事があって家を出なくちゃならないんだ」と僕は言った。
「えっ! もう行くの? 食べたあとなんだから、一時間くらい休んでいけばいいのに」
「すぐに行かないと、駄目なんだ」
母はふうとため息をついた。「わかったわ。どこに行くのかは言えないみたいだけど、危険なところでないことを祈るわ。あなたはもう、子供じゃないんだからね。自分のすることは自分で責任を持ちなさいね」
「わかってるよ。それじゃあ」
僕は二階に上がって急いで支度をした。とはいっても何も準備するものはいらない。携帯と、少量のお金があればそれで足りる。この二つをポケットに入れると、巨人のような足音を立てて階段を下り、靴を履いて外へと出た。「行ってきます」と思い切り叫び、福満神社に向けてまっしぐらに駆け出した。




