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18 母、別れ、飛翔(1)

 それから三日間はほとんど同じスケジュールで時間が過ぎていった。朝、僕は早く起きて台所にあるパンを食べる。そして食べ終わり次第すぐに家を出発する。おじさんとおばさんにはあらかじめ、これからは朝早くに出かけることが多くなると言ってあるから、特に心配はいらない。バスを経由して電車に乗り、坊毛町へと急ぐ。彼女との集合場所である福満神社に到着するのは、だいたい九時頃だ。彼女はその時間にはもう神社に来ている。僕たちが集まると、どこに行くあてもなく周辺をぶらつきまわる。その目的は、彼女となるべくたくさん話すことにあった。特別な何かをしようなどという野心は二人とも持っていなかった。


「今日は良く晴れるみたいだ」

「そうだな。空がまるでサンゴ礁の広がる海みたいな色をしているぞ」

「手ですくい取ることができたら、すくい取ったそれも青い色をしているのかな」

「どうだろう。私はそう願っているが」


 そんな意味のない、のほほんとした会話を僕たちはよく好んだ。


 昼食も一緒に食べた。坊毛町で飲食店を見つけるのは相当な困難だったため、このときばかりは鵡白町へと足を運ばなくてはならなかった。霞はここでは人の目を引いた。確かに、改めて考えてみると、彼女の外見は華々しく美しい。多くの人が、自分の恋人を差し置いて彼女をじろじろ眺めるのは、無理もないことだった。


 さらに、こうして人の目にさらされると、いかに僕たちが不釣り合いなカップルなのかが大いに露見した。通りゆく人たちは漏れなく僕たち二人を見比べているようだった。そしてそれぞれが、ああ、俺はこの男には勝っている、俺の方が彼女によく似合っているな、とか、ああ、こいつには勝っているけれど、さすがにこんな綺麗な人の隣を歩くほどの勇気は俺にはないなあ、とか判断を下しているように思えた。僕も霞も最終的には、他人の存在をすべて無視して、自分たちだけの世界で楽しむようになった。


 霞はこの町のことをあまり知らなかったため、僕が案内役を務めることになった。案内と行っても僕だってここのすべてを知っているわけじゃないから、かなりたどたどしいものだ。それでも彼女はにこにこと嬉しそうにしながら僕の隣をついて回っていた。


 一日目はマクドナルドでハンバーガーを食べた。彼女は「苦しい」と言って、ハンバーガーとポテトを半分ほど残した。彼女には脂が多すぎたのだろう。そこで二日目は趣向を変えて、町の隅にあるこじんまりしたカフェに入った。店内は静かで、料理もさっぱりした味付けのものが多かった。霞はそれなりに満足したようだった。三日目も同じカフェに足を運んだ。ウェイターは昨日と同じ人で、僕たちのことを覚えてくれていたようだった。僕たちは三人で日常的な会話を楽しんだ。ウェイターの男は笑顔の素敵な二十二歳の青年で、理系の大学に通いながら、ここでアルバイトをしているそうだ。大学の話になると、霞は決まって沈黙した。僕はその男と同盟して、彼女をからかったりした。


 お腹が膨れると再び坊毛町に戻り、神社まで歩いた。木漏れ日と小鳥の鳴き声、そして穴を穿つようなセミの声の響き渡る四阿で、僕たちは尽きない会話に耽った。互いに持ってきた本を見せ合ったり、交換した本を読んだりした。彼女はよく笛を吹いてくれた。僕が初めに聴いた『王の登場』の他にも、『波紋』、『泥のついた芋』、『木霊の召喚』などを演奏してくれた(どれも僕が勝手につけた名前だ。彼女は曲に特定の名前をつけるようなことはしなかった)。彼女の奏でる音は魅力的で、圧倒された。このときばかりは小鳥やセミも、一様に押し黙って、じっと笛の音に聞き入っているようだった。


 彼女は『未完成』も演奏するのだが、最後まで滞ることなく吹くことはできなかった。必ず終盤の特定の箇所で音が止まってしまい、それから唐突に再開を迎える。おかげで結末部分はまったく締まらない。僕たちは協議して、何とかその空白部分を埋めようと努力した。だが僕には音楽的な知識がまったくないし、彼女としてももう手詰まり状態だったため、あまり充実した話し合いにはならなかった。彼女の持ってきた楽譜にたくさん書き込んだりもしたものの、どれも納得のいくものにはならなかった。


「何だか自分の求めている旋律が、私のもとからずっと逃げ続けているみたいだ」

「いつ捕まるんだろう」


「さあな」と彼女はため息をついて言った。「もしかしたら私のところには一生来てくれないのかもしれないな」


 この曲ではなく、他の違った曲を作ってみたらどうだろうかと僕は提案した。だが彼女はそれをきっぱり拒否した。この曲でなくては駄目なのだと彼女は声を強くして言った。どうしてかは自分でもはっきりしないが、これを完成させないといけない気がするのだ。それに今から新しい曲を作るにしても、あまり時間が残っていない。作ると決めたら、私は中途半端なものにはしたくないのだ。だから私たちは何としてでもこの曲を完成までに導いてやらなければならない。公園が「死」を迎える前に。僕は彼女の音楽に対する姿勢に概ね納得した。だがメロディーが浮かばず、いつまでも完成しないというのはちょっとした問題だった。夕方までいろいろと意見を言い合うのだが、実りのあるものにはならなかった。


 日が暮れる前に僕たちは別れることになっていた。それがルールなのだ。コンさんが夜になる前に帰ってしまうように。彼女の迎えの黒いメルセデス・ベンツはいつも同じ時間に神社の前に停まった。運転手が極度の神経質なのだろう。意見がぶつかり合って不機嫌になることもあるけれど、別れの際はどちらも笑顔で手を振った。「また明日」と言って、体を寄せ合う。僕は都会へ、彼女は自宅へ。僕がおじさんのところに帰るのはだいたい夜の七時頃だった。それから、みんなで雑談をしながら夕食を食べて、部屋で二時間ほどプラトンの哲学書を読み、風呂に入って十時か十一時には寝た。




 四日目には特別なことが起こった。母がついに退院するというのだ。


「あら、言っていなかったかしら?」とおばさんは、その日の朝、コーヒーをすすりながら言った。「きっと私が勘違いをしていたのね。妹さんにはもう言ってあったから、きっとあなたもこのことを知っていると勝手に思い込んでいたんだと思うわ。そう、今日の午前中には、もうあなたのお母さんは家に戻ってくるのよ」


 あまりに突然のことに、僕は何も言えなかった。今まで水泳の選手だった学生が、いきなり教師に、絵を描いてみないかと言われるようなものだ。何の感想も浮かばないし、どう反応していいかもわからない。そこで僕はとりあえず、目の前のパンを口に入れた。パンは、吐き出される寸前のガムみたいな味しかしなかった。


 あるいはおばさんのいたずらかとも訝ったのだが、ちょうどそのときに妹がこちらにやって来て、「何時頃、お母さんのところに帰るの?」と嬉しそうに叫んだのを見て、確信した。母が戻ってくるというのは本当のことなのだ。


「でも……お母さんが戻るには迎えがいるんだよね? 僕たちがこれから、迎えに行くことになっているの?」と僕はふと思ったことを訊いてみた。


「その必要はないようだ」とおじさんが口を挟んだ。彼は新聞で自分の顔を隠しながら話し続ける。「聞いた話によると、君のお母さんをよく知る人物が、病院まで迎えに行ってくれるそうだ。彼は私たちの親戚ではないようだが、君のお母さんを長い間気にかけていたそうだね」


 コンさんだ、と僕は瞬時に思った。彼が迎えに行くというのなら、それよりも安心なことはない。どうして彼が母の退院を知っているのかと疑問に思ったが、きっと病院に直接行って訊きでもしたのだろう。彼は見た目は強直で冷たい雰囲気をしているが、実は情熱的で活動的な男なのだ。それくらいならやりかねない。


「とにかく、今日は出かけるのはよしなさいね。十時にはここを出発する予定だから」とおばさんは僕に言った。僕はとりあえずうなずいた。


 これで霞のいる神社に行けないということが確定したわけだった。自分の母の退院を差し置いて、女の子のところにいくわけにはいかない。彼女には悪いが、今日は家族のことを優先させてもらうことにした。このときほど、彼女に連絡が取れたら良かったのにと思った日はない。彼女は僕に、家の電話番号も携帯番号も教えてくれないのだ。こういうときに困ってしまい、彼女に謝るまでの間、ずっと後ろめたい思いを抱いていなければならない。だからといって、これから彼女に会いに行って、今日は予定があるから会えないんだ、と伝えるのも叶わない。自分一人のために出発を遅らせるわけにはいかない。だから僕は、次に彼女に会ったときに謝ろうということに決めた。それ以外にどうしようもなかった。


 荷物をまとめて、おじさんの車に詰め込む。予定通り、僕たちは十時頃に餡味町を出発した。母のいる自宅へは一時間弱で着いた。何度も鵡白町を経由して神社まで行っていたから、あまり懐かしいという感じはしなかった。だが妹は、「わあー」と嘆息して、ここに帰ってくることがいかに待ち遠しかったかを表現していた。


 若干緊張しながらインターフォンを押すと、すぐに母が現れた。健康を取り戻し、血色の良くなった母を見て、僕は言いようのない感動に包まれた。隣に立つ妹も感極まっているようだ。すぐにでも抱きつきたいと言っているように体を震わせているが、人目を気にしているのか母に突進することはなかった。


「おかえりー! 元気だった? 良い子にしていた?」


 妹がぐずぐずしているうちに、母の方から僕たちを抱きしめた。その腕の力は、母が元気になったという何よりの証拠だった。このとき、僕はコンさんが母の後ろに立っているのが見えた。彼は普段通り無表情に近い顔をしていたが、しかしこのときばかりは口もとが幸福そうに笑っていた。母は僕たちを一分間ほど拘束したあと、体を離した。


「家族が揃うって、こんなに嬉しいことだったのね。退院して一番良かったのが、あなたたち二人にこの場所で再会できたことよ。私のいない間、何も悪いことはなかった?」


 何も、と僕と妹は言った。そしてしばらく互いの目を見つめ合って、我々がまた一緒になれた喜びを分かち合った。


 そんな僕たちのところに、おじさんとおばさんが近寄ってきた。二人はどちらも精一杯の笑顔を浮かべていたが、それはどことなくよそよそしく、他人行儀なものだった。あまり僕たちの邪魔をしたくないと思っているのかもしれない。


「ああ、この度はすみませんでした。手のかかる息子たちで……」と母は、おじさんたちに申し訳なさそうに言った。


「いえいえ、全然。楽しい時間を、おかげで過ごすことができましたよ」とおばさんは首を振ってそれに応えた。


 母とおばさんはぎこちなく笑い、握手を交わした。おじさんはそこから少し離れたところで、その様子を静かに見守っていた。僕の母とおじさんたちが、どうしてあまり仲の良くないのか、結局知ることができなかった。僕たちには言えないような深い理由があるのだろう。握手が終わると、おばさんは僕と妹に声をかけた。


「さ、車の荷物を運びましょう。お昼はそれが終わってからですよ」

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