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17 再会、作業員、感傷(4)

 笛を取り戻したあと、脇道へ逸れて、休憩用の四阿あずまやへと向かった。それは生い茂る林のほぼ中心に位置しており、あたかも森で生活する賢人の住み家のようだ。屋根の下に入ると、急に辺りが暗くなり、気温もさらに下がった気がした。テーブルにはいくつかの落書きがあり、四つの柱も同様だった。どこに行っても落書きというのはなくならない。ここがたとえ神のいる場所だとしてもだ。落書きには青春時代の抑えきれない感情・欲望・精神がふんだんに感じられた。その文字に鼻を近づければ青臭い匂いがしそうなくらいだ。男女それぞれの性器の絵が描いてあったり、卒業のときに書かれたものらしい、特定のクラスメイトに向かってのお礼の文章があったり、あるいは憎い人物に対して恨みつらみの言葉が書かれてあったりした。


「君の中学時代、高校時代はどんなものだったの?」と僕は何気なく訊いてみた。


 霞は黙ったまま長椅子に座った。僕もその隣に腰を下ろした。彼女は何かを考えているように下を向いて、腕をテーブルに伸ばして、そこに書かれた落書きをじっと見ている。何か思い当たる節があるのかもしれない。彼女が何も言わないので僕もじっとしていた。周囲からは気持ちの良い鳥の鳴き声がして、寒々しい気持ちを和らげてくれた。セミの声はほとんど聞こえない。セミはたとえ夏であっても、寒いときには出てこないのだ。きっと極度の敏感肌なのだろう。近くで彼らの声をするのは騒々しくて嫌な気分になるものだが、いなければいないで寂しいものだった。都会で聞こえる騒音のようなものだ。都会を歩いていると、さまざまなところから聞こえてくる音に辟易してしまうものだが、もしもそれらの音が全部なくなってしまったら、かえって変な気持ちになるに違いない。騒がしい音は都会にとってシンボルみたいなものだから、それがなくなるとかえって落ち着かなくなってしまうのだ。セミも同様で、夏のシンボルとしてセミは欠かせないから、彼らの声がしないと、今は本当に夏だろうかという気になってしまう。鳥の華やかな声は、夏というよりも春を連想させる。


「私の中学時代、高校時代はあまり楽しい思い出がない」と霞はやがてぽつりと話を始めた。「お前も知っている通り、私は変な話し方だったから、そのことでずいぶんとからかわれたものだった。男子にも女子にもそれほど好かれなかった。直さなければと何度思ったかわからない。でも、この話し方はどうしようもなかった。どれだけ普通に話そうと意識していても、最終的にはそんなことなど忘れて、いつも通りの私の口ぶりで会話をしてしまったのだ。クラスのみんなにいじめられた、ということはなかったが、似たような状況だった。私のことを影で笑っている人を何人も知っているし、明らかに私を避けているようでもあった。私が何かしゃべるたびに嘲笑が起きているようだった。まあ、さすがにそれは気のせいだろうがな。そんなわけで、私にはその時代の良き思い出というのがほとんど存在しないのだ。期待していたのかもしれないが、悪いな」と彼女は話を終わらせてしまった。


「笛はずっと続けていたんだよね?」と僕はやっとのことで質問をした。彼女の中学、高校時代についていろいろと考えていたせいで、彼女の話が終わってしまったことにしばらく気づかなかったのだ。


 彼女は力の抜けた声で答えた。「ああ、もちろん。笛は生きがいみたいなものだった。もしあれがなかったら、とっくに学校に押しつぶされていただろうな。もうどこかに消えてしまいたいような気持ちに襲われたとき、私はいつも笛の音、というか、その種の音楽に助けられた。そのときの私を支えてくれたCDは今もまだ私の部屋に大事に保管されているよ。あの頃を思いだしたくないから、今ではまったく聴かなくなってしまったがな」


「たとえば……部活とかで、笛の実力を発揮したりはしなかったのかな」

「文化系の部活には入ったことがないぞ。中学時代はむしろ運動系の部活に所属していた。高校時代は何の部活にも入っていなかった。中学時代、無理やり親に入れさせられてな。お前は少し不健康のきらいがあるから、こういう機会を有効に使うんだぞと言われて、陸上部で二年半走っていた。私は小さい頃から運動は大好きだったから、練習はさほど苦痛ではなかった。二年生の頃は長距離の代表選手に選ばれたくらいだからな」


「すごいじゃないか」

「走ることは好きだった。高校に行っても続けたいと、一時は思っていた。でも、どうしても私は、人間関係に満足の行くものを見出せなかったのだ。こうして気の合う人と静かな場所で語り合うことは好きだった。でも、それが三人とか、五人とかになってしまうと、途端に何を話していいのかがわからなくなってしまった。無理やり話そうとしても、場の空気をしらけさせるだけだった。それで私はだんだん学校では話さなくなってしまった。もちろんお前のような、私の話し方を馬鹿にしない何人かの仲の良い人間はいたよ。私は彼らとよく二人きりで話したものだった。相手の家に遊びに行ったり、公園を散歩したり……。今思えば、彼らは相当私に気を使っていたのだなと思う。学生時代はそんなものでは満足などしないはずだ。遊園地に遊びに行ったり、もっとにぎやかな場所に行きたいと誰もが願っていたはずなのだ。でも私はそのような場所を苦手としていたから、彼らもそれに合わせてくれていたみたいだ。自分たちの欲望を抑えて、私の言うことを一から十まで聞いてくれていた。彼らには申し訳ない思いでいっぱいだ。今、何をしているのだろうな。連絡はまったく取っていないから、どこで何をしているのかは想像をするしかないのだが」


 霞は今までにない生き生きとした表情を浮かべながら話していた。きっとその仲の良い人たちというのが相当彼女にとって大事な存在だったのだ。


「こうして思いだしていくと、案外良い思い出というのも残っているものなのだな。全然楽しくなかったなどという、先ほど私が言ったことは忘れてくれ。学校では忌み嫌われていたが、仲の良い親切な人たちと充実した時代を送れたわけだからな」


 そう言ったあと、彼女は椅子に座りなおした。そして顔を上に向けて、水浴びでもしているように気持ち良さげに目をつぶった。


「あのときのような熱情を、今復活させることは到底不可能だろう。いろいろなことをやったよ。北海道まで行って広大な大地を眺めに行ったり、誰も知らないような山の奥地でキャンプをしてみたり。みんなで小説を見よう見まねで書いて、大手の出版社の新人賞に応募したりもした。音楽にしても、笛の他にピアノを独学で学んでみたり、コンサートにもお金を貯めて行ったりした。嫌な思い出もあるが、それ以上に良き思い出がある。さまざまな記憶に光が当てられて、人生の素晴らしい一面が垣間見えるようだ」

「それで、新人賞は取れた?」


 霞は僕に眩しい笑顔を見せた。「どれも一次選考で駄目だったよ。いいや、一つだけ、二次選考に進んだ作品があったな。まあ、どっちにしても変わらんが」


「素敵な友人だったみたいだね」


「ああ。懐かしさで涙が出てきそうだ……」彼女はそう言って、隣の僕に肩を寄せてきた。そのまま首をこちらに傾けて、今にも眠りそうな体勢を取る。


「すまないな。少しの間、こうさせていてくれ。私の中でたくさんの記憶が暴れ回っているようで、それを抑えている間に疲れてしまったんだ。話すのは止めにして、しばらく休憩したいのだ」

「わかった。お休み」


 霞は口を閉じて、ただ僕にもたれかかるだけになった。彼女の肩はかすかに上下している。息を吸ったり吐いたりする音が、僕の内側から響いているようだった。それくらい彼女は僕に密着していたのだ。僕はどうすればいいのかわからなかったのでじっとしていた。次第に僕まで眠たくなってくる始末だった。そのうちに僕の中で何かが変化するような感覚があった。この変化は僕の心を奮わせた。震えの正体について考えているうちに、彼女が冷たくなっていることを感じ取った。彼女の細くて長い脚が、椅子とテーブルの間から見えていた。肉眼では捉えられないが、肌は冷気に痛めつけられ、ぶるぶると震えているようだった。


 僕は思い切って彼女にもっと近寄り、その体を包み込むように抱きしめた。彼女はびっくりして、初めは抵抗を示した。だが、僕の体が温かいことに気づくと、抵抗を止めて、抱きしめられるがままになった。それで彼女が少しでも温まってくれるといいのだけれど、と僕は思っていたが、その裏側に、男としての救いがたい悪い欲望が具わっていることを、認めないわけにはいかなかった。つまるところ、僕は彼女という女性に対して欲情していたのだ。


 どうしてこんなに悲しい気持ちになるのか、自分でもまったくわからなかった。彼女はここにいる。それははっきりしている。しかし、体を離してしまったら、彼女はどこかに消えてしまうのではないかという思いが僕の中にあった。今、こうして抱いている彼女の肉体は消えてしまい、魂の輝きも失われ、彼女はもう彼女ではなくなってしまうのではないか。自分でも馬鹿らしい妄想だとわかってはいたが、でもとにかくそういった感情が僕を満たしていた。だから僕は一層強く彼女を抱きしめた。彼女の体はびくりと震えたものの、そのあとは落ち着きを見せた。


 僕は彼女をさらに近くに寄せた。互いの脚がマグネットのようにくっついた。僕の履いているジーンズから、彼女の脚の冷たさが伝わってきた。相当冷えてしまっているようだ。でも脚はだんだんと温かさを取り戻していくようだった。その一部始終を僕は感覚を鋭敏にして観察していた。僕と彼女はまるで悲劇に会った人間のように決死の思いで抱き合っていた。彼女の心臓の脈動する様子すらわかるほどに近づいていた。彼女の顔は、あまりに近寄りすぎて見えない。眠っているのだろうか? それとも、別の表情を浮かべているのだろうか? 僕のしていることが間違っていないことを祈りつつ、ずっとその体勢を維持しつづけていた。このときほど、周囲に人がいないことに感謝する日はない。だがもし誰かが見ていたとしても、彼女の体を離しはしなかったのだろうなとも思った。それくらい、何か切迫した思いが、僕の中にあったのだ。その正体は後によくわかった。


 それは青春時代の恋の思い出だったのだ。僕は彼女のように充実した学校生活はあまり送れなかった。誰かに恋をして、男女交際をした思い出などもない。好きになった女の子は数知れないけれど、その人に告白をして一緒にいたいとまで願うことはなかった。ただ遠くの方でその人のことを見守っているだけで満足だと勝手に確信していた。でも、それは間違いだったのだ。僕も男として、誰かに想いを打ち明けて、一緒に時を過ごしたいと願っていたのだ。僕はそのことに気づかずに、学生時代を悶々と過ごしてきた。それは大学に行っても変わらない。いいや、もう誰かに純粋な恋心を抱かなくなっているから、中学、高校時代より救いようのないものになっている。東堂霞という女の子に出会って、自分がいかに弱く、自分を抑えつけて生きていたのかが実感できた。もう少し若いときに、こういう経験を積んでおけばどれだけ良かっただろうと思う。今自分のやっていることが、この歳にしてはずいぶんと恥ずかしいことだろうなということはわかりきっているからだ。こういった公の場所で、じっと黙って感傷的に抱き合うなんて、中高生にしか許されていない(と僕は思っている)。でも僕は、今まで恋愛という、人間にとっておそらく不可欠の門をくぐってこなかったから、今になってこういった若々しい行為をしなければならないのだ。実際、僕は心が中学時代の自分に戻っているような感覚になっていた。まだ何も知らず、思い込みが激しく、わがままばかりだった時代。確かに彼女の言った通り、あの頃のままのエネルギーを今に復活させることはできそうになかった。もしこれが中学時代に経験していたものだったら、夜になるまでずっとこうしていただろう。しかし二十歳になった僕に、そうするだけの力はもう残されてはいない。


 だからせめて、彼女が目を覚ますまではこうしていようと決心していた。僕は彼女の温もりを感じ取った。胸が上下しているのを見た。剥き出しの腿が、親密な力によって緊張のほぐれていくのがわかった。このままどこか別の世界にトリップしてしまうのではないかと心配になってしまうくらいの心地良さだった。時間の流れが歪んでいた。景色も妙にかすんで見えた。僕の視界にきちんと映っているのは彼女の体だけだった。身も心も彼女に支配されてしまったようで、胸騒がしく、だが異様に落ち着いた自分を、そこに見出すことができた。


 そのとき、テーブルに置かれた笛が目に止まった。そしてその瞬間、僕の頭で何かのメロディーが再生された。おそらく彼女の言っていた未完成の曲なのだろう。初め、聴いたことのあるメロディーが耳をくすぐった。何の曲だっただろうと思ううちに、それが一ヵ月前に聞いた断片的なメロディーだったことに気がついた。ずいぶん前のことだったから、忘れかけていたのだ。そのメロディーが流れたあとは、僕の知らない連続した音が、頭の中を駆け巡っていった。


 その曲は途中までは完璧に近いものだったのだが、そこでふと音が途切れた。電話線が切断されたみたいに、ぷっつりと。それからまた、メロディーが流れはじめ、そう遠くないうちに終わりを迎えた。


 どうして彼女の未完成の曲を頭に思い描くことができるのか、それについてはあまり気にならなかった。きっと彼女と一つになったことで、彼女の中にある音が僕に伝わったのだろう。それよりも、僕はぽっかりと空いた音の空白ばかりが気になっていた。そこを埋める手立てはないのだろうか? 今のままでも充分素晴らしいのだが、空白部分さえうまく埋めることができれば、さらに洗練された立派な曲になるに違いない。しかし彼女はどうしてもその部分を埋めることができないと言う。この問題はじっくり考えてみる必要がありそうだった。それはなおざりに処理してもいいようなものではない。


 僕たちは空が赤くなるまでこの体勢でいた。そろそろ日も暮れようとしている頃、彼女は肩に寄せていた顔を上げた。前髪が目にかかって、何だかくしゃっとした顔つきになっていた。


「本当に眠ってしまったみたいだ」と彼女は意外そうに言った。僕は彼女が、もう悲しそうな表情でないことがわかってほっとした。「おはよう。でももう夕方だ」と僕は言った。


「そうだな。早く帰らないと親が心配するだろう」

「明日、また、ここで?」

「ああ。できれば明日も会いたい。今度は約束を守ってくれ」

「もちろん」


 最後に僕たちはもう一度抱き合って、別れた。

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