12 祭り、福満神社、神様(1)
去年の夏のことを思いだすとき、最初に浮かぶのはコンさんだった。彼はいつも母のそばについていた。母と話そうとするときは大体、コンさんも話に加わった。夜になると、カラスが森に帰るようにして彼は家を出ていってしまうが、彼のいなくなったあとも、彼のいた痕跡ともいうべきものが、しばらく家の中を漂っていたものだった。
当時、母はそれほどひどい状態ではなかった。コンさんが来なくてもいいのではないかと思えるくらい、病気の発症が少なかった。彼は帰る前にその日の母の様子を逐一報告してくれるのだが、彼の話からしても、あの夏が母にとってかなり安定した時期だったことは確かだ。それでも僕は、妹と協力をして、母を見守ることにしていた。カレンダーに丸印とか三角印をつけて、この日は僕が家に残り、この日は妹が母を看る、などという取り決めを行なっていた。それは去年に限った話ではなく、何年も前からの習慣だった。去年はちょうど妹が受験シーズンだったので、夏休みの大半を僕が担当することになっていた。妹はその間、静かな二階の自室で勉学に励んでいた。おかげで妹は実力以上の高校に合格することができた。
去年の夏はそれほど読書にのめりこんでいなかった。本は一、二週間に一冊読む程度だった。それ以外の時間はよくゲームをしていた。大学一年目だけあって新しい知り合いがたくさんできて、彼らを招いてよく一緒にゲームをプレイしていた。母は寛容だったから、リビングのテレビで僕らがピコピコやっていても文句ひとつ言わなかった。それどころか、たびたび「こうした方が良いんじゃない」というアドバイスすら与えてくれた。コンさんはそんな僕たちを温かく見守っていた。その友人が今、どこで何をしているのかはわからない。おそらく今頃はもう夏休み気分で、新しい友人と飲みに行ったり楽しい場所に出かけたりしているのだろう。
そんなだらだらした日々を送っていた。しかし僕は、八月三十一日だけはどうしても忘れることができない。その日は僕にとって運命的な、これまで自分が信じていたことを根底から覆された記念すべき日だった。
この日、坊毛町の方で、大きな催しがあった。町の北にある、福満神社というところでお祭りが開催されていたのだ。その神社は千年以上も前から存在しており、坊毛町で唯一誇れるものであり、最も由緒ある場所だった。この神社にまつわる古くからの伝説、そこに住む太古の神の物語は、今でも町の図書館に行けば閲覧できるはずだ。僕はあまり詳しく調べていないのでわからないが、この祭りは神の逸話にちなんだもののようだった。
そしてこの祭り、なんと百年に一度の祭りらしいのだ。神社の開かれた年を起点にして、以降は百年ごとに建立を祝う催しをしているようである。福満神社ができてから、その年で千百年目らしかった。
これはぜひ参加しなければと思った僕たちは、その日の夕方に家族全員で祭りに参加した。家から神社まで一時間ほど歩き、地元の人たちと貴重なこの日を祝った。久しぶりの家族揃っての外出ということで、かなり張り切っていた思い出がある。妹は勉強ばかりだった日々のストレスを解消しようと意気込んでいたし、僕だって、百年に一度という文句に魅力を感じてわくわくしていた。
だが祭りは思っていたよりもにぎやかではなかった。そもそもの参加人数が少なかったのだ。そこに住んでいる地元の人たちはたくさん参加していたものの、他の地域からの参加者はほとんどいないようだった。どうやらその日は他のところでもお祭りが行なわれていたみたいで、多くの観光客はもれなくそちらに行ってしまったようだ。この町は宣伝力に欠けており、インターネット上でホームページすら作成していないと聞いた。さらに交通の便の悪さも響いて、このような身内同士のお祭りとなってしまったようである。この結果に、地元の住民はさほど落胆していないみたいだった。むしろ自分たちだけで盛り上がろうという意識が強く、ともすると宗教めいた団結力が、この祭りには感じられた。神社まで歩いていく途中、様々な売店が立ち並び、飾り付けもしっかりなされていたが、人々はそのきらびやかさに比べてやけにひっそりとしていた。これじゃあまるで、厳かな儀式の直前みたいだった。
だがそんな空気にはおかまいなく、僕たちはそれなりに祭りを満喫した。売店でたくさん食べ物を買って、雑談を交わしながら歩き回った。遠くの方で聞こえる音楽に誘われるようにして歩いていくと、とうとう福満神社に到着した。丘の上にあるそれは、まるで城のような圧倒的な構えで、思わず見惚れてしまいそうになった。その周辺はさすがに盛り上がっていた。たぶん他が寂しかったから、相対的にそう感じただけなのだろう。だが当時は僕たちも大いににぎやかした。笛の音に合わせて踊ったりもした。地元の住民との交流もたくさん持って、喉がかれるほどしゃべった。知っている曲が流れると、祭りの酔いに任せて大声で歌ったりもした。僕はひどい音痴だったので、母や妹は何だかひどい顔をしていたように思える。
祭りは夜遅くまで続けられた。十時を過ぎたあたりからだんだん通りを歩く人が減少していった。参加者を囃したてる音が控えめになり、就寝準備を始めた近隣の住民の迷惑にならないよう配慮される。伝統では、次の日の朝まで祭りは続けられるそうなのだが、もうそんなものは誰も知らない。朝までどんちゃん騒ぎをするような体力のある人間は、この町にはほとんど残っていなかったのだ。
そんなわけで、十一時頃に、僕たちも帰ろうかという話になった。最後に、神社でお参りでもしていこうと母が提案した。
福満神社は傾斜のきつい石段を上がったところにそびえていた。下から見上げただけで、その高さに尻込みしてしまう。昔は本当に城だったんじゃないかと錯覚してしまう。僕たちは苦労して石段を上りきった(あとで訊いた話だが、ここをわざわざ上らなくとも、別の場所に楽に上がれる道があったそうだ)。頂上に来たところで後ろを振り返ると、美しい光景が目に飛び込んできたのを今でも覚えている。神社を中心にして扇状に広がった照明が、まるで巨大な鳥の羽のようだった。美しく幻想的な、心奮える体験だった。僕につられて妹と母もその景色を見ていたに違いない。そのあと僕らはまったくしゃべろうという気になれなかった。ただ黙って、先ほどの光景が頭から離れないまま、拝殿に向かって歩いていった。
人はほとんど撤収していた。数人の若者や元気そうな中年の男たちが、祭りの余韻に静かに浸っているだけだった。木々に飾られた明かりが彼らの顔を照らしていたため、彼らの満足げな表情がすっかり見えた。道から外れたところにあるベンチやら四阿などに座って、きらきら笑いながら酒を飲んでいた。その光景には力強さが漂っていた。
僕たち三人は参道を真っ直ぐ歩いた。もう音楽は聞こえてこなかった。男たちの話し声が聞こえるだけで、あとは死んだようにひっそりとしていた。明かりで照らされた拝殿、そこにぽつりと置かれた賽銭箱に、僕たちは十円玉を投じた。僕が代表して鈴を鳴らし、みんなで両手を合わせた。僕はそのとき、千年以上ここに住んでおり、ずっとこの土地を見守ってきた神について思いを巡らせていた。神様というのは男だろうか、それとも女だろうか? どちらにせよ、もう顔は皺だらけで、もとがどんな顔だったのかがわからなくなっているに違いない。男だったら髭がライオンのたてがみみたいな長さになっているだろうし、女であれば、だらりとした乳房を構えたわけのわからない妖怪に変化しているのだろう。そんな神が今、僕たちのことを正面の、あるいはその奥の建物からこっそりと覗いているのかもしれないと思うと、なかなか恐ろしいものだった。
そのときだった。
突然、世界が入れ替わってしまったような妙な浮遊感に襲われた。誰かの手で僕の魂が他の人と交換されたとき、きっと同じような感覚に陥るに違いない。どこかに飛ばされてしまったような未知の衝撃が、このときの僕には感じられた。その証拠として、先ほどまで一緒にいたはずの母と妹がどこかに消えていた。周囲の風景はどこも変わっていないのに、人間だけがいなくなっていた。男たちの話し声ももう聞こえなかった。神社には静寂が充満していた。
そのときにまず思ったのは、これは神様の仕業なのではないかということだ。僕が変な想像をしたから、神は怒って僕をこらしめようと企んだ。妹たちのところから僕を引き離し、誰にも見られないところで僕をこっぱみじんにしてやろうと神は決意している。そう思うと怖くなった。びくびくしながら、その場で待機していた。だが、いくら待っても何も起こりそうになかったため、何分かあとには自然と緊張を緩めていた。
とりあえずこの世界を探索してみることにした。家族で歩いてきた参道を、今度は逆から辿っていく。道は明かりに照らされてはいたが、その光はどこかしら奇妙な色をしていた。まるでお化け屋敷の照明だ。道を逸れていった先はどうなっているのかわからない。光はそこまで届いていないため、その様子が判明しないのだ。もしかすると道は途絶えているのかもしれない。あるいは、もっと先まで進んでいけるのかもしれない。いずれにせよ、今はそちらに行く必要はないみたいだ。僕は誰かに導かれるようにして、神社入口の石段に向かってひたすら歩いていった。
石段の手前まで来ると、再び視界が開け、幻想的な光景を目にすることができた。だがそこにはこれまで感じられなかった違和感が存在した。具体的にどこに違和感を覚えるのかと訊ねられたら困ってしまうが、とにかく何かが変だったのだ。一見すると普通の絵なのだが、じっと鑑賞していると次第に現実離れしたおかしな部分が明らかになるように。僕は呆気にとられてしまい、その場から動くことができなかった。一体自分はどうなってしまうのだろうとそのときに思った。
風は異様に冷たかった。夏という季節がここにはそもそも存在していないかのようだった。剥き出しの腕に風が当たり、非常に寒かった。そういえば、妹たちとここまで上って来たとき、風はまったく吹いていなかったなと思いだした。あれはあれでまた不思議なものだった。上ってくる前、あちこちを歩き回っていたときには風はたくさん吹いていたのに。そのことから、もしかすると石段を上りきった直後から、我々三人は別世界に来てしまっていたのではないかという仮説を立てた。つまるところ、僕は別世界のさらにまた別世界に来てしまったというわけだった。そこまで来ると、もう意味不明の状況だった。
とにかくここを早いところ脱出しないといけない。だが、ここを下りていっていいのかがわからない。下手な行動は、自分の知らない場所においては慎むべきだ。そこで僕は踵を返して、正面の大きな拝殿へと戻っていった。
僕はとりあえず鈴を鳴らしてみた。そうしたら、驚くべきことに、音は何も聞こえなかった。ただ鈴を振ったという感触が残っているだけだ。ポケットにまだ小銭が入っていたので、僕はそれを賽銭箱に放り入れてみた。ちゃりんという音は少しも聞こえてこなかった。僕はそこでとうとう覚悟を決めた。本格的に自分は危険な状態にあるようだ、と。正直に言って、先ほどまではかなり呑気な心持ちでいた。適当にぶらついていれば、いつのまにか自分のよく知る世界に戻れるだろうという態度でいた。でも、その希望はおそらく叶えられない。財宝を手に入れられなければ出られない運命づけられた冒険者のように、僕は脱出方法を自力で見つけなければ一生ここに囚われることになるのだ。そこで周辺をもっと詳しく見ていくことにした。明かりのついていないところは、携帯の光で意地でも照らしていった。多くの木々が緊密に密集しており、藪蛇でも出てきそうな雰囲気だった。動物たちをびっくりさせないように、慎重に捜索を続けていった。あとになってわかったことだが、ここにはどうせ僕一人しかいないのだから、動物におびえる必要なんてなかったのだった。




