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1 写真、悪霊、桶(1)

 僕の母は、死んだ父の写真を見ては真顔になる。父の写ったものは、棚に飾ってある一枚しか残っていない。母はそれを、何があっても手放そうとしなかった。もしも家が焼け落ちようとも、これだけは守ってみせると、母の瞳は語っているようでもあった。


 その写真は、父と母と僕の三人が写ったものだ。十七年ほど前に撮影されたもののようで、ところどころ色が落ちてきている。このとき、妹はまだ生まれていない。写真の中の小さな僕は異様に輝いていた。僕だけでなく、当時は家族みんなが輝いていたように思える。今だからこそそれが実感できる。


 画像の中で母は、僕の肩に後ろからそっと両手を置いている。僕はそんなことにはお構いなく、正面の撮影機に向かって眩しいばかりの笑顔とピースサインを見せている。父はそのときどんな格好をしていたのだろう。父の写る部分だけが、なぜか色褪せてほとんど見えなくなっていた。見えているのは、下半身の一部だけだった。父がそのとき何を思っていたのか、どんな表情をしていたのかは完全に忘れ去られてしまった。僕の記憶からも、そして写真からも。


 でも、家族全員で一緒に撮影したのだ、父が悲しい気持ちでいたということはあまり考えられない。失われた表情は、きっと明るかったはずだ。今はもう古ぼけて見えなくなってしまったというだけで、父はずっと笑顔で、僕たちのことを見守ってくれているに違いない。そう思うと、何だか心強く感じ、同時に情けなくもなった。父に胸を張れるほど、僕たちはきちんとした生活を送れているだろうか? 父に恥じることのない毎日を過ごせているだろうか? できればあまり心配はかけたくなかったが、いまいち自信がない。




 そんなことを考えながら、僕はソファーに寝転んでいた。時刻は午後六時を過ぎ、外は夕焼けに染まっている。このとき、半ば眠りかけていたため、母が写真のところまで歩いていくのを、僕は見逃してしまった。母は棚の前で立ち止まり、写真を手に持った。そのまま数分間、じっと動かず、手に持った家族写真を凝視するばかりだった。そのとき母は現実から遊離して、どこか遠くをさまよっている様子がうかがえた。魂が、ここでないどこか別の場所に行ってしまっているような、そんな気の抜けた印象だ。僕はその光景を目の当たりにするたびに、全身を極度に緊張させる。意識を覚醒させて、僕はすぐさま母の近くへと駆け寄った。そして、とにかく何でもいいから、適当に母に向かって話しかけた。「どうしたの」とか、「ねえ」とか、そんな言葉だ。それと同時に母の体を揺さぶった。そうでもしないと、母は意識を失ったまま長い時間立ち尽くしたままになる。僕の母は、この写真を見てしまうとこのように放心状態に陥ってしまうことがあった。母の体に衝撃を与えないかぎり、意識が飛んだままであるのが常だった。そうならないために、僕は母のいるリビングを離れるわけにはいかない。牢を見張る番兵のような役割に自らなるしかない。少なくともこの時間、母を看てあげられる人は僕以外にいないのだ。


 そのうちに母はひどくゆっくりと写真を棚に戻した。次に、まるで生まれてきた小猫のように、辺りを興味深そうに眺めた。自分があちら側からこちら側に戻ってきたことを、自分の目で確かめているみたいだった。瞳はまだ虚ろだ。だがそれも、時計の秒針が時を刻む音に従ってだんだん回復してくる。おおよそ二分後には母は正常に戻っていた。苦悶の時間が終了したわけだ。僕の存在に気づくと、こちらに向かって無垢な少女のように笑った。


「今日の晩御飯は何にしようかしら?」




 皿と皿とのぶつかり合う音が家中に反響していた。食事が終わり、母は台所で食器を洗っている。蛇口から流れ出る水の、心を澄ませるような音は、聞いているうちに溶けて消えてしまいそうだった。


 僕は食べ終わったあともテーブルから離れない。ただ、腕をテーブルに乗せてじっとしている。何もやることがないから、必然的にだらけてしまう。かといって、何か有益な考えごとができるわけでもない。生活していると、ふとそういう空白の時間ができてしまう。そういうとき、僕はそれにどう対処すべきかがわからず、とにかくこの空白を埋めようとする。だが、どう埋めたらいいのかその術が見つからず、心の中で右往左往している間に、時間はどんどん過ぎ去っていく。しまいには一時間が経過してしまった、ということもある。ぽっかり空いてしまった穴は、塞ぐのにひどく手間がかかるものなのだ。


 そんなわけで僕は、体を石像のようにしながら、ただ聞こえてくる音に耳を傾けていた。単調に響き渡るそれは時計の針と同じで、真剣に聞こうとすればするほど空しさが募っていく。僕はよほど部屋に戻ろうかと考えた。だが、今戻ってしまったら、母は皿洗いをしている最中にあちら側に行ってしまう可能性があった。台所からは父の写った写真が遠くながら見えてしまっている。いつ「それ」が起こるのかは予想ができない。だから僕は、ここを動くわけにはいかなかった。写真を伏せる、というか、そもそもそんな写真など飾っておくべきではないのかもしれない。だが、その写真をどこかに隠してしまうと、瞬く間に母は狂暴になってしまう。「あれを、どこにやったの!」と、まるで地獄の炎のように猛り狂う。僕はそんな母の姿を見たくない。しかしながら、写真に魂を奪われる母も見たくはない。どちらも防ぐために、僕は母を監督していなければならない。


 そのまま固まっていると、玄関の方で呼び鈴が鳴った。妹が帰ってきたのだ。「開けてくるよ」と言って、僕は玄関へと向かう。フローリングの床を滑るようにして歩いた。二重鍵の扉を開けると、夜風が途端に部屋に忍び込んできた。七月の中旬にしてはずいぶんな冷たさだ。その寒さに身を震わすようにしていると、妹がひっそりとした様子で入ってきた。そして流れるようにして段差に腰かけて、靴の紐を緩める。その間、こちらを一度も見なかった。


 僕はとりあえず、「おかえり」と言った。返事は聞こえなかった。あるいはぼそりと言ったのかもしれないけれど、いずれにせよ聞こえなかったのだから同じことだ。妹は靴を脱ぎ終えて立ちあがった。一瞬だけ僕の方に顔を向けたあと、すぐに顔を逸らして、リビングに向かった。母に「ただいまー」と言う声が聞こえた。


 僕が大学二年生で、妹は高校一年生だった。妹はほとんど毎日、部活に勤しんでいる。バスケットボール部のマネージャーをやっているらしい。そのため、コーチとスケジュールの確認をしたり、選手がコートから離れたあとも残って作業を続けたりしなくてはならない。だから、当然のこととして帰りは遅くなる。通学も、駅まで十分ほど自転車を漕いで、駅からまた二十分ほどかけてようやく学校に辿り着くのだから、一日の終わる頃にはくたくたになっていることがほとんどだった。のんびりと大学に通っている僕とは大違いだった。少し、妹のことが羨ましいくらいだった。我を忘れて一心に打ち込めるようなものが僕にあれば、あるいは何かが変わっていたのかもしれない。でも僕にはやりたいことがどうしても見つからなかった。大学の授業には適当に参加し、サークルに入らず、余ったほとんどの時間を読書に費やしていた。世間に取り残されたような絶望感に陥ったとき、いつも救ってくれるのは、大学から借りてくる何冊かの分厚い古典小説だったのだ。


 妹が帰ってくれば、僕は二階の部屋に戻ることが一時的に可能になる。そのついでに何冊かの本を選んで、リビングまで持ってこようと思った。そうすれば暇に押しつぶされそうになるということもないだろう。妹はそのあと、きびきびした足取りで二階へと向かった。トン、トンという階段をのぼる音が、狂ったメトロノームのようにして響いた。

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