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コバルト短編小説新人賞投稿作品

サン・サーンジュの乙女は願う。

作者: 結川さや

「サン・サーンジュの乙女は願う」結川さや


 ゆらゆらと、足元で揺れる影をマーサは見つめた。編み上げ靴のつま先に、いびつなマーブル模様が被さっている。

「おはようございます、おさ様」

 まだ顔を出したばかりの太陽は、微笑むマーサの亜麻色の髪を、優しく照らした。

 長、と呼びかけた彼女の言葉に応えるようにさわさわと揺れ動くのは、眼前にそびえたつ巨木の枝葉だ。

 サン・サーンジュと呼ばれるその不思議な木こそが、マーサが十五年間生まれ育ったセスリー村の聖なる樹――聖樹であり、村人皆を災厄から守る役目を果たすもの。それを感謝し崇めて、マーサ含む数十名の村人全員が、この木を長と呼んでいる。

「今朝の花と、ランカ湖の聖水です。どうぞ、本日も村をお守りくださいますように」

 マーサは言って、陶器の花瓶を置いた。静かな風がマーサの編んだ髪を揺らし、足元の下草を撫でていく。裾の長い粗末なドレスが、風にはためいた。

 何事も起こらぬ――かと思えたその時、マーサの靴にかかっていたマーブル模様が揺らいだ。ただ、木漏れ日によって生まれた黒い影だけであったモノが、まるで命を得たような動きだ。

 それでもマーサは動じない。否、それこそが、聖なる樹サン・サーンジュがこの供物を喜んだ証拠であるからだった。髪と同じ亜麻色の瞳で、マーサは嬉しげに聖樹を見上げた。視界いっぱいに広がるのは、美しい深緑。きらきらと太陽光に照り映える自然の輝きこそが、マーブル模様の正体だ。

 太く長い白肌の幹。空に向かってまっすぐ伸びたその先には、傘のように丸く垂れた枝がある。その枝に不均等に被さっている――ように見える生え方をしているのが、聖樹の葉なのだ。花は咲かず、実もならない。一年中、常緑を保つ神秘の木。どれほど雨の少ない天候が続いても、枯れることはない緑の恵みだ。だからこその聖樹で、村人の尊敬と畏怖を集めている。

「さて、と……そろそろ帰って朝食の支度しなきゃ」

 無事、『サン・サーンジュへのお供え係』の当番――といっても、最近はもっぱらマーサの役目になっていたのだが――を終えて、安堵と共に引き返そうとした、その時だった。

 足元のマーブル模様。花と湖水を喜んだ聖樹は、一瞬だけ動かした自身の葉陰をまた静寂に戻していた。それなのに、再び大きく影が揺れ動いたのである。

「きゃあっ、な、何っ!?」

 ガサガサ、といきなり全ての葉が音を立て、そのせいでマーブル模様が滅茶苦茶になった。

 まるで、湖面に誰かが石でも投げ込んだかのように。そして、声は頭上から振ってきた。


「どういうつもりだ、この不届きな罰当たり者めが」

 落雷に当たったかのようにマーサが震え上がったのも無理はないだろう。だってその低い声は、緑の傘にも似た聖樹の枝葉――のてっぺんに腰掛けた、若い男のものだったからだ。

(な、何なのこの人は……どこからどうやって登ったのかしら)

 驚くマーサの目の前に、男はひらりと降り立った。ひどく珍しい深緑色の髪と瞳が陽光にきらめき、不思議な美しさを放つ。が、非常に残念なことに短く刈られた髪はぼさぼさで、長身にまとう白い貫頭衣カルガもよれよれ。まるで、眠っていたところを起こされたかのような……。

「おい、小娘。どういうつもりだと聞いている」

 いきなり肩を突かれ、マーサはびくっとする。切れ長の緑の目がじとっと睨みつけていた。

「な、何を……っていうか、あなたは一体誰なんです? しかも小娘だなんて、私にはちゃんと名前が」

「ああ、マーサ=ミストレンだろ? うっかり者のマーサ」

「ど、どうしてそのあだ名まで」

 一生懸命なのに、なぜか失敗してしまう。そんなマーサに付けられた、やや情けない愛称だった。青年はフンと鼻を鳴らし、にこりともせずに言った。

「まさにそれを証明する捧げ物で、この俺を眠りから呼び覚ました。もちろん役目があるから熟睡はしちゃいなかったが、それにしても十分な迷惑行為だ。正式な手順もすっとばして……」

 ぶつぶつと、独り言のように呟く。青年の低音は、話す内容とは裏腹にひどく滑らかで耳に心地良かった。

「あ、あのう、『迷惑行為』って? 私、ちゃんと積んだばかりの聖なる白百合と、ランカ湖の水を捧げたのに」

 青年のぼやきを遠慮気味に遮って、マーサは尋ねた。自分に落ち度はないはずだと、つい先ほど聖樹の前に置いた花瓶をそっと持ち上げ――それから、ようやく瞳を見開いた。

「お前が捧げたのは白百合じゃない。これは、白姥しろうば百合だ。よく見ろ、花びらに薄く褐色の斑点があるだろうが。そんな違いもわからないくらいに寝ぼけていたのか?」

 言われたとおりの違いと、もう一箇所。白百合よりも緑味を帯びた白い花弁に気づいたマーサは、息を呑む。白姥百合は、同じランカ湖近くの草地に群生する、白百合と似た色形の花だ。花が見ごろを迎える頃には葉が枯れ落ちることから、姥に例えて名づけられた。

 確か、この季節にはまだ咲いていないはずなのに……と愕然としていたマーサに、青年は続ける。

「咲きたての白姥百合を供える。それが特別な事由でなきゃ許されない、呼び出しを意味する行為だってことも知らないのか? その事由がどういうものに限られるか、ってことも全く……?」

 頬を引きつらせ、尋ねられ、マーサは迷ったものの頷いた。本当のことだったから、仕方がない。

「なんてこった……まさかこれほど民に忘れられているなんて。聖なる存在が聞いて呆れる……守ってやるの、やめよっかなー」

 がしがしと緑髪を掻き乱し、青年は呟いた。言葉の内容を脳裏で反芻していたマーサは、しばらくして青くなった。青年の正体に思い至ったのだ。

「ま、さか……!」

「そう、俺こそこの聖樹サン・サーンジュに宿る精霊。サン・レイだ。以後、よろしくお見知りおきを、うっかり者のマーサ=ミストレン」

 言うなり右手を伸ばし、マーサの顎を捕らえる。青年――聖なる輝き、という意味の名を持つ彼、サン・レイはにやりと口角を引き上げた。目と鼻の先で見つめられ、マーサは極限まで緊張した。そして、マーサがマーサたる所以――緊張すると余計に『うっかりと』何か失敗をしてしまう性格を、再び発揮してしまったのだ。

「こ、これは何たるご無礼……も、申し訳ございません、長様っ!!」

 腰を深く折り、お辞儀をしようとした。馬鹿な間違いで聖なる存在を呼び出し、迷惑をかけてしまったお詫びを精一杯誠意で示そうと。なのに。

「ふごあっ!」

 いきなり動かした形となった頭で頭突きを食らわし、その勢いで足元の木の根につまずき、持っていた花瓶を死守しようとするがあまりに妙な形で倒れ掛かって。

 ばっしゃあーん、と音がするくらいに思いっきり、お詫びしようとした相手に向かって中の水と活けられていた白姥百合全てを見事にぶちまけてしまったのだ。

「……いい度胸だ、マーサ・ミストレンッ!!」

 青年の額に浮かんだ青筋の上を、黄色い花粉まじりの水がたらりと流れ落ちた。


 人間の姿を取った精霊サン・レイを引きつれ、戻ってきたマーサを見て、村中は大騒ぎになった。

「平に平にお許しを――長様!」

 白髭を蓄えた村長が、地面にひれ伏している。あわてて、マーサもそれに倣った。村中の皆が息も殺して注目しているのは、向かい合う場所に用意された椅子に腰掛けたサン・レイだ。怒り爆発、といった顔で怒鳴られた記憶も鮮やかなマーサは、彼が果たしてどんな態度に出るのか恐ろしくてたまらない。ところが、全身にかかった水や花粉も既にふき取られ、ぼさぼさの髪や衣服もいつの間にか整えられた『長様』サン・レイは、にっこりと微笑を湛えたのだ。

「頭を上げられよ、長老殿。我はサン・サーンジュに宿る者。聖樹と崇められる存在である我が、民に対する慈愛と理解に満ちていなくては何としようか。我は、こうして久々に直接姿を現せたことをかえって嬉しく思っておるぞ」

(え……?)

 あまりの違い様に、マーサは口をあんぐりと開けた。そんな風に優しく微笑んでいると、先ほどの姿のほうが嘘のよう。自分が白昼夢でも見たのだろうか、と首を傾げる。そんなマーサをちらりと見て、慈しみあふれる表情で村長、そして集まる村人全員を深緑の双眸に映すサン・レイ。

「何とお優しいお言葉……ああ、やはり聖樹の化身であらせられる!」

 感動と安堵が村人たちの顔を輝かせる。

「では、マーサへのお咎めはなしということで……?」

「うむ、それについては約束しよう」

「で、では、古き伝承通りに、民の願いを叶えてくださるのですね!」

 村長が調べた結果、聖樹の精霊を呼び出した者は、一つだけ願いを聞いてもらえるらしい。歓喜に沸きかけた人々に、サン・レイは「ただ」と付け加えた。微笑だけは、穏やかなままに。

「我を呼び出したのは、あくまでもそこなる娘。願いは、娘の一番望むものとする。というわけだから、しばし娘を借りるぞ。来い、マーサ=ミストレン」

 立ち上がり、縮こまっていたマーサの手を取り、堂々たる歩みでサン・レイは村の広場を後にした。

「え、あの、ちょっと……!」

 小さな抵抗は無視され、体ごと抱え上げられる。マーサのためらいは、すぐに悲鳴に変わった。

 心配そうに追ってきた村人の見上げる中、腕に抱いたマーサごと、サン・レイが空に飛び上がったのだ。

「きゃあああっ」

 叫ぶ声も空しく、ぐんぐん高く舞い上がっていく。自然、しがみついた先はサン・レイの胸だ。

「おい、コラ」

 聞こえた言葉と冷たい響きに、マーサは恐怖も忘れて呆然とした。村長たちに見せた慈悲深い聖樹の化身の姿とは、天と地とも違うくらいに再び豹変していたからだった。

「俺はそうそう暇じゃないんだ。さっさと願いとやらを言ってみろ。うっかり小娘」

(や、やっぱりこっちが本当の性格!?)

 怯えるマーサを、サン・レイは半眼で睨み付ける。とてもではないが、聖なる樹の精霊には見えないほど意地悪な表情だ。

「そ、そんな急に言われても……」

「急に呼び出したのはお前だろうが。あんな手順丸無視の不遜なやり方に応えてやった俺の面子も考えろ。さあ、さっさと願いを言え。今すぐ言え。言いやがれ!」

「きゃああ、ゆ、揺らさないで~」

「うるさい。早く言わなきゃもっと揺らすぞ、オラオラ」

「ひいい、こ、これのどこが精霊……」

「何だとお?」

 思わず漏れたマーサの本音。サン・レイはひくりと片頬をゆがめ、マーサの体を揺らすのをやめた。空中で停止していた状態から、更に跳躍され、悲鳴も出せない。風の音が耳元でうなり、マーサは今度こそ何も言えずに息だけ詰めて、サン・レイの胸にしがみついていた。

 しばらくして、たどり着いたのはより高い空の上。マーサが生まれ育ち、そこから出たこともないセスリー村の全貌が小さく見えるほどの高さだ。

「まあ……!」

 初めての素晴らしい眺望は、マーサの頬を上気させた。空高く浮かんではいても、サン・レイがしっかりと腕の中に支えてくれているからか。それともあまりに美しく荘厳にも感じられる景色のためか。

 恐怖よりも、感動に包まれていく。

「あれが見えるか、うっかり者のマーサ=ミストレン」

 マーサの背に回した右腕はそのままに、左腕を少し上げてサン・レイが指差した。周囲の木よりも一際大きく立派に枝葉を広げた、不思議な形の樹は、もちろんサン・サーンジュだ。他に、同じ形をした木は存在しない。目の前に広がる美しい景色のどこにも――。

「その昔は、もっとたくさんあったんだ。だが今は、ここセスリーだけに生えている。いや、残っている、とでも言うべきか」

 まるでマーサの思考を読んだかのように、サン・レイは嘆息した。

「人々は変わり、いつしか聖樹への親愛も崇拝も消えていった。セスリーでも精霊の呼び出し方さえ忘れられていたほどだ。いつかはサン・サーンジュ全てが消え行く運命さだめ……」

「そ、そんなことありません!」

 叫んだマーサに、サン・レイが言葉を止める。わずかに持ち上がった眉が、彼の驚きを示していた。

「私たちは聖樹を大切にしているし、絶対になくならせたりしないわ。例え他のみんなが忘れてしまっても、私はずっとお供え物を続ける。ずっと村を守ってくれた『長様』――あなたへの、せめてもの感謝の気持ちだもの。たまには、うっかり花を間違えたりするかもしれないけど……」

 恥ずかしそうに最後は俯いたマーサを、サン・レイはじっと見ていた。面白がるような、実に人間に近い表情をしている。

「そういうヤツだから、呼び声に応えたんだがな……」

 ぼそっと呟いた言葉はマーサにはよく聞こえなかった。小首を傾げると、サン・レイが仏頂面を向ける。

「それで、お前の願いは? まあ、間違いとはいえ呼び出されたんだ。聞いてやるから言ってみろ。お前の、心の中の望みを」

 心、とマーサは自分の胸を押さえる。無意識に、かばうように。

「……私、わからないの」

 他でもない自分の心。それなのに、マーサにはわからない。小さな願いさえも、思い浮かばない。なぜならマーサには――。

「記憶が、ないんだろう?」

 サン・レイの言葉に、マーサはハッと目を見開いた。

「そんなことまでわかるのか、って顔だな。これでも、俺はずっと村を守ってきたんだぞ。俺を『長様』と呼んで慕ってくれたお前のことも、知らないはずがないだろう?」

「あ……」

 そう言われてみれば、聖樹の化身ともあろう彼は、何でも知っていておかしくなかった。最初、かなり不機嫌そうだった顔つきは、今では少し穏やかに、優しくなってもいる。

(やっぱり、長様だわ……!)

 マーサは、あの木のそばにいるのが好きだった。風に揺れる葉の下で、よく影を見つめていた。悲しい時も、寂しい時も、慰めてくれる気がしたからだった。サン・レイの纏う空気は、やはりあのサン・サーンジュと同じ優しさを持っている。

「記憶が戻れば、願いもきっと浮かぶ。なら、取り戻せばいい。俺が手伝ってやる。呼び出されて応えたからには、ちゃんと仕事をしないと落ち着かないんだ。俺はこう見えても、親切な『長様』だからな」

 半ば強引に握手を要求され、握られた手はぶんぶん振られる。頷かざるを得ないほどの、明るい笑みと力強い感触。そんなものに引きずられるように、マーサは彼の提案を飲んだのだった。


 マーサはセスリー村で生まれ育った。それは、彼女自身の記憶に裏づいた情報ではない。

 三年前のある大風と豪雨の夜から、マーサの記憶のページは始まる。夏至祭りの、ちょうど翌晩だった。  

 十二歳のマーサは、ランカ湖のほとりで一人目を覚ました。いつから眠っていたのかも、どうしてそこにいたのかもわからなかった。ただわかるのは、大粒の雨に打たれ続けて全身が冷たかったことと、ひどく空腹で疲れきっていたことだけ。しくしくと痛む、重たい体を動かすのも辛くて、必死で這うようにして聖樹のそばへ寄った。慈しむように雨から守ってくれたあの時から、マーサはサン・サーンジュを慕っていたのだ。

(まさかその『精霊様』が、こんな方だとは思わなかったけれど)

 考えたその刹那、深緑色の瞳が振り返った。ドキリとした胸を、無意識に押さえる。

「それで、お前の家族は?」

「両親は、私が小さい頃に流行り病で亡くなったそうです。覚えていないからわからないけど、優しくて穏やかな木こりの夫婦だったとか」

 以来、ずっとマーサは村長の元で育てられた。屋敷の下働きとしてできる仕事を精一杯にこなし、日々を地道に過ごしてきた。

「村長様も他の皆さんも、とっても親切にしてくださいますから……」

 マーサが語るのを、サン・レイはたった一つの椅子に腰掛け、黙って聞いている。聖樹の化身と崇め讃えられる彼に、村長が与えたひと時の休息所の中だ。

「そうか。それならば、よかった」

「長様? あ、えっとその、精霊様。じゃなくって、あのう……サン・レイ様」

 どう呼ぶべきか困惑気味のマーサに、彼はくすりと笑う。

「レイでいい」

「はい?」

「そんなに偉い存在ってわけじゃないんだ、本当は。それにそう呼んでもらうほうが気楽だから……それだけだぞ」

 サン・レイ――いや、レイと名乗りなおした彼の頬が、うっすらと赤く染まっている。本当の人間の青年みたいだった。思わずマーサまでもが赤面しかけたその時、コツコツと扉を叩く音がした。

「長様、それでこのの願いは見つかりましたかな?」

 入ってきた村長に問いかけられ、レイは首を横に振る。さっきまで足を組み、自分の膝に片方の肘をついて座っていたのに、いつのまにか背筋を伸ばし、悠然とした様子で腰掛けなおしていた。

「いや、まだだ。まさに無欲な、純真なる乙女であると見える。こういう者の願いこそを、我は誠実に叶えてやりたいのだ」

「ごもっともでございます。マーサはわたくしにとっても近しい、自分の娘も同然の者。身寄りもなくし、一人でも健気に暮らす彼女の願いを、ぜひ叶えてやって下さいませ。よろしくお願い申し上げます……!」

「ああ、わかっている。よし、行くぞ」

 村長に頷き、レイはおもむろに立ち上がる。片手を目の前に差し出され、マーサはキョトンとした。

「あーもう、察しが悪いヤツだな。だから、お前の記憶探しに行くんだろ? 村一周」

 囁きだけは本来の口調でしておいて、村長たちには威厳を保った微笑を見せる。器用なレイに連れられて、マーサは外へ。

 村一周と言っても、空の上からだ。最初に出会った日にやったことを、レイはこの数日毎日繰り返していた。言うなれば優雅な空の散歩、しかしその実は、単なる恐怖体験。

「何だよ、まだ怖いのか? 訓練が足りないみたいだな。ホラホラ、大回転~!」

 両手を握り、ぶんぶんと体ごと振り回されるマーサ。抗議しようにも、あまりの状態で声も出せない。

(お、鬼……!)

 ついついそう呼んでしまったマーサの心の叫びは、しっかり当人に聞こえていたらしい。

「天下の精霊様から悪鬼に転落か。ま、それも当たらずとも遠からず、かもしれないな」

 深緑色の髪を掻きながら、レイはにやりと笑う。

「じゃあ、悪鬼にふさわしいやり方に変えてみるか」

 大回転、そして跳躍――、などと声を張り上げたレイが、マーサの手をぱっと離す。同時に上方に高く放り投げるようにされて、哀れなマーサは宙を舞った。

「この俺様をぬか喜びさせた罰だ」

 馬鹿ものめ、と呟くレイの声が聞こえたような聞こえなかったような。それを最後に、投げられ降下していくマーサの意識は、暗転していたのだった。


 ざわざわ、ざわざわ。

 これはあの日と同じ、雨の音だろうか。それとも、誰かが周囲を取り囲み、自分を見下ろして何事かを囁きあってでもいるような感覚。

「落ちてきた、落ちてきたぞい」

「レイ様の――が、空から振ってきたぞい」

 よくは聞き取れなかったしゃがれ声が、マーサが瞼を開いたと同時に歓声に変わった。

「あ、目が覚めたみてえだ。よかったよかった」

 揃いも揃って拍手しているのは、顔は皺だらけの老人なのに、背丈や体格は子供のような奇妙な人々。

「アンタ、心を少しかじられてるなあ。清らかで優しい、乙女の涙をあの方は好まれるからなあ。にしても、今頃どうしたんだい? 心の欠片、取り戻しに来たのかい?」

(心の欠片……?)

 瞬きだけを繰り返していたマーサよりも早く質問に答えたのは、低く楽しげな声。

「やっぱりそうか。あんたら『森の耳』族に知らないことはないからな。でも、こいつが俺の――だっていうのは違うぜ」

「サ……レイ様!」

 振り返ると、水に濡れたレイが木に寄りかかって立っていた。また、言葉の一部がよく聞こえない。それにしてもなぜ濡れているのだろう、と疑問に思いかけたマーサは、自身の周りにゆらゆらと蠢く水の存在に気がついた。

「森が、水の中に……!?」

 辺りに生える木々や下草、そして斧を持った不思議な小人――レイ曰く『森の耳』族と呼ばれる人々は濡れていないから、気がつかなかった。水も、まるでもやか何かのように、木にまとわりついたり、揺れて流れていったりしているのだ。見下ろした自分の体と、レイの髪や衣服だけが濡れている。それでも息ができるのが、不思議だった。

「俺たちはここに属していない、この『サン・サーンジュの森』にとっての異物だからな。表と裏をつなぐ水たちが、そう印を付けて保護してくれてるってわけだ」

「サン・サーンジュの森?」

「元来、それはこの聖なる森――ランカ湖の水中に存在するこの場所を指しての言葉だったらしい。が、聖なる世界と人間世界とのえにしが薄れていくにつれ、森は忘れられ、単語だけがあの木の名とされて残った。それも、まだ唯一こことの繋がりを保てている、セスリー村だけでの話だがな」

 マーサに教えてくれながら、レイは『森の耳』族全員に片手をあげて挨拶している。皆が「レイ様」と彼を呼び、笑いかける様子からもとても親しげなのがわかった。

「強引なやり方だったが、やはり森はお前を拒まなかった。この際だ。直接乗り込んでお前の心の欠片を取り返してやろう。さて、サン・ルーはどこにいる?」

「私ならここにいるぞ」

 マーサだけが飲み込めない状況を、周囲の誰もが理解し、歓声を上げている。レイに対するのとはまた違う、敬愛を込めた歓迎の声だ。そんな『森の耳』族とは裏腹に、レイはなぜだか渋い顔だった。

「さすがは聖なる森、サン・サーンジュの守護精霊。本物の『長様』は、あいかわらずお祭り好きなこって」

「何を他人行儀なことを。久方ぶりの弟の来訪に、浮き立たぬ姉がどこにいる? しかも、ようやく心を決めた相手を連れてきたのだ。お前の愛らしい乙女に、義理の姉としてキスくらいは送らぬとな」

 肩をすくめ、長く美しい深緑色の髪をはらう。レイと並ぶほどに背の高い、凛とした印象の女性を、皆が「ルー様」「我らが長様」と呼んで、嬉しそうに迎えた。

「長、様……?」

 驚くことばかりで呆然としているマーサの頬に、サン・ルーは優しく手を当てた。

「なるほど、ずっと以前に迷い込んだ者か。あんまり悲しそうだったから、心の欠片――そなたの涙を取り去ってやったっけ。しかし、今のそなたならば、全てを受け止めることもできよう。今、そなたの欠片を返すぞ」

 サン・ルーの手から、暖かく不思議な熱が送り込まれてくる。流れ込む聖なる力と声が、マーサに全ての記憶を戻したのだ。

 昔、両親を亡くしたのは、流行り病ではなく悲しい事故のせいであったこと。幼いマーサが彼女なりの冒険心で湖に落ち、それを助けようとした両親は二人とも溺れてしまったこと。マーサはサン・ルーに助けられ、そして目前で命尽きた両親を想って泣きじゃくっていたこと。サン・ルーが、その悲しみを引き取ってくれたこと、全てを――。

「そなたのせいではない。悲しい事故で儚くはなったが、両親は別の場所でそなたを見守っておるぞ。そして、娘の婚約を祝っておる」

「こ、婚約……?」

 涙に濡れていたマーサの瞳は、別の驚愕に見開かれる。「知らぬのか?」とサン・ルーのほうも驚いているようだった。

「清らかな乙女が、自ら手折った白姥百合――サン・ランカの別名を持つ聖花を捧げた時、それは聖樹の化身へ自身の愛を打ち明ける行為となる。つまり、人間の世界で言うところの、求愛。婚約の申し込みということだな。後には、この正式な意味の薄れた、単なる願い事を叶えてもらう行事のようになっていた時もあったようだが」

「おい、姉さ……」

「それをこやつは受け入れた。当然か、ずっと見守ってきたそなたからの告白だ。嬉しくないはずがない。それなのに、何の説明もしていなかったとは」

「姉さんっ!! 勝手にぺらぺらと喋るなって! ああ、やっぱり連れて来るんじゃなかった」

 真っ赤になっているレイと、にんまり見つめているサン・ルー。二人のやりとりの意味が段々飲み込めてきて、マーサも頬を染めた。

「私が助けたことを知らぬまま、一人きりで暮らすお前のことを見守ってきたのはこやつだ。暇つぶしだとか何とか言って、聖樹の番人まがいのことをやってきたから、自分なりの責任を感じていたのかもしらんな。それが愛に変わっても、何らおかしくはない。乙女との婚礼は、我ら聖なる精霊族にとっても喜ばしい話であるからな。何より昔は行われてきた慣例だった。今、ここに人との縁が復活することを私も嬉しく思うぞ?」

「だからっ! 勝手に決めるなって!」

 レイの叫びがこだまして、漂う水まで笑うように揺れた。


 後日、セスリー村では近隣の村人たちまでも集めて盛大な祝宴が行われた。

「結婚おめでとう!」と口々に言う人々に、マーサは頬を染め、レイは「まだそういう意味じゃない!」と必死で否定する。そう、これはマーサが『サン・サーンジュの乙女』に選ばれたことを祝う儀式。

 今まで聖樹に向けられてきた幼い敬愛は恋心に染まっていき、同じように慈しんでくれていたらしいレイを、マーサも慕うようになった。数ヶ月後の自然な流れだった。

 照れながらも優しく見つめるレイを、マーサもそっと見つめ返す。幸せそうに微笑みながら、乙女は願うのだ。生まれたばかりの望みの成就を。永遠の、幸福を――。

「聖なるサン・サーンジュの乙女――聖樹の花嫁に選ばれたマーサに、乾杯!」

 ランカ湖の聖水を満たした杯を高く掲げたのは、集まった村人だけでなく、湖中の聖なる森の民も同じ。漂う水の流れを表した聖樹の葉が、優しい風にそよそよと揺れた。               (了)


読んでくださり、ありがとうございました!

コメント等、何でもお待ちしています^^

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― 新着の感想 ―
[良い点] 中央アジア辺りの民話を読んでいるような気になりました。どことなく、荒野の中のオアシスにいるような感覚を味わえ、レイの人間くささ、マーサの純真さもあいまって、物語全体が爽やかです。 ハッピー…
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