川の中
頭を軽くしてお読みください。
夏休み最後の日、ぼくは川へ来ていた。
特に理由があったわけではないのだが、理由として挙げるなら気分転換することが目的になるだろう。その日は父とぼくの今後の進路について話し合っていたのだ。
父はぼくを都会の有名高校に入学させたいらしく、それに対する熱意も確かに伝わってきた。しかしぼくは現在の人間関係を保つために地元の高校へ行くことを希望した。それが父の癇に障ったのだろう。父は無理やりな理屈でぼくの希望を否定し、都会の高校へ行くことをすすめた、もとい強制した。
ぼくは父からの扶養を受けている身であり、それを拒否する権利はなかったので、渋々都会の有名高校に進学することにした。
ちなみに母はスルメを食べながら、ジャニーズジュニアといういけ好かないアイドルたちが出演している番組を見ていた。あのジャニーズジュニアは、母のような中年の小母さんたちにちやほやされて嬉しいのだろうか。すこし疑問だった。
そんなことをぼんやりと考えながら、適当な位置に自転車をとめて川の土手に下りる。
この川は既に川と言えるような水量がなく、せいぜい足首が埋まる程度の深さだった。その反面、この川の水はスーパーで売っているアルプスの天然水よりも美味しいと評判で、子供たちはよくここで遊んだりしている。おぼれる危険性がなく、水が清潔だからだ。
わずかな水をすくい上げて、月光に照らしてみた。微妙に青く光る透明な水は冷たくて、宝石のようだった。きらきらと月の光を反射して自然の明かりを灯している。
ぼくが川の水で遊んでいると、不意に水音が聞こえた。ぽちゃん、ぽちゃん、という一定の規則性に則った水の落ちる音だ。ぼくの他に誰かかがいるのだと、遅れて理解した。もう遅い時間帯であるはずなのに、なぜ人がいるのだろう。
この川の近くはかなり古いので、街灯すら設置されていなかった。そのため水音の主を確認するのに時間を要した。
水音は着実にぼくに近づいてきた。その水音の主は暗闇にまぎれたまま、ぼくに告げる。
「あなた、いったい何をしに来たの?」
と水音の主は言った。
ぼくより年上のようだが、若い女性の声だった。姿は暗闇のため確認することができない。こんなことなら懐中電灯でも持ってくるべきであったとぼくは後悔した。
「ねえ、聞いているの?」と女の声。
ぼくはすこし緊張しながらも「うん、ちゃんと聞こえているよ。」と返事をした。そしてぼくは最初に出された女の質問を無視して自分の質問を切り出した。
「きみは誰なんだい?」
ぼくがそう言うと女はわずかの間沈黙して、言った。
「わたしの素性は教えられない。でも名前なら教えてあげられるわ。サカセクロエリアミヤよ。」
「それはすごい名前だね。外国人でもそんなにいないと思うよ。」
「そうでしょうね。」
「あと、その名前を言うとよく噛みそう。」
「そうなのよ。わたしも自己紹介するときによく噛むわ。」
ふふふ、と水音の主は笑った。心なしか、水のなかからも同じ笑い声が聞こえた。
そして、その音が幻聴ではないという風に、すべての水が連動して振動し、ひとつの声を生み出した。
「「「あら、聞こえた?」」」
重奏のように重なる声。ぼくは驚いて水から遠ざかるようにのけぞった。後ろに足を下げると、泥沼のような場所に足を突っ込ませてしまった。どうやら水音の主はぼくを帰さないつもりのようだ。
「おおよそ見当がついているように見えるけれど、白状しましょう。わたしは人間ではないわ。この川の主とでも言っておきましょう。」
暗闇から、水でできた手が伸びてきた。その手は留まることを知らないように長く伸びて、足が埋もれて動けないぼくに近づいてくる。腕の部分から透明な水滴が零れ落ちて、浅い川に落下した。ぼくは金縛りにでもあったように叫ぶことができず、ただ目の前の異様な光景に目を背けることしかできなかった。目をぎゅっとつむり、拳をにぎる。
「本当なら、もっとすごいことができたのよ。」
川の主が暗闇からそう言った。その声はさびしく、今にも消え入りそうな声音だった。
「この川も、もうお終いなの。いままで六百年も川を守ってきたわたしも、お役御免。」
川がわずかに振動して、水流の速さが速くなった。たぶん川の主が泣いているのだろう。そして川の主が続ける。
「来年に建物が建つでしょう。そのときにこの川は死ぬのよ。」
その言葉を契機として、川が震えた。水の手がざばん、という音を立てて川に崩れ、泥沼もいつの間にか単なる柔らかい泥と化している。「さようなら。」水滴がひとつ落ちたような音がしてから、川の主の声は聞こえなくなった。
ぼくは急いで家に帰り、父に都会の高校へ進学するため、すぐに受験勉強をすると言った。父は喜び、母は未だにスルメを齧っていた。