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恋愛小説のはずでした

「帰るまで待っていろ」と婚約破棄されたので、待たずに結婚しました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/29

「婚約は解消しよう。ただ、僕が帰るまで待っていてほしい」


 ジュリアン様は、難しい話を上手にまとめたような顔をした。

 私は膝に置いた手を見下ろした。今日は、結婚式を延期する相談になると思っていた。三週間後には隣国へ発ち、大使館で三年間働くことになったと聞いたからだ。

 一緒に行けないだろうかと、父に相談までしていた。


「婚約を解消して、何を待つのですか」

「僕が帰ってくるのを、だよ。向こうでの暮らしがどうなるか、まだ分からない。若いうちにいろいろ経験しておきたいし、今から妻を決めてしまうのは、早い気がするんだ」


 二十四歳の彼はそう言った。

 私は二十二歳だった。二年前に婚約した時には、早すぎるとは言われなかった。来年の春に式を挙げようと、庭の花を見ながら話したのは、つい先月だ。


「では、私との結婚は、おやめになるのですね」

「今すぐ決めないということさ。帰ってから、改めて考えればいい。君のことを嫌いになったわけじゃないんだから、そんな顔をしないでくれ」


 嫌いになっていない。

 その一言で喜ぶべきなのだろうかと、私は本気で考えた。彼がもう私を好きではないのではと怯え、昨日まで眠れなかったからだ。

 けれど、結婚したくなるか分からない人を三年待ってほしいと言われている。そのことに気づくと、膝の上の手が冷たくなった。


「私に、別の縁談が来たらどうするのですか」

「断ればいいだろう。僕が帰るまでだ。三年なんて、過ぎてしまえば短いよ」


 彼は紅茶を飲んだ。

 今日のために用意した苺の菓子には、まだ手をつけていない。彼が好きだと知ってから、訪ねてくる日に合わせて料理人へお願いしていた。

 その皿を見ていると、急に喉が詰まった。


「ジュリアン様は、向こうで縁談があったら、お断りになるのですか」


 彼の手が止まった。


「向こうで誰と会うかなんて、まだ分からないだろう。だから、婚約を解消しておこうと言っているんだ」

「私が誰と会うかも、分からないと思います」

「君は、ずっとここにいるじゃないか」


 私は彼を見た。

 王都のこの家にいれば、私には何も起こらないのだろうか。彼から手紙が届く日だけ喜んで、届かない日は次の日を待ち、三年経ったら今日の続きへ戻ればよいのだろうか。

 彼は、新しい仕事や知らない国の話をする時には、目を輝かせる。私も、その顔を見るのが好きだった。

 だから、頑張ってくださいと言うつもりでいたのに。


「私が三年間、ここで何をしているとお考えですか」

「今と同じように、お茶会へ行ったり、ご家族と過ごしたり……アデル、何を怒っているんだ。君まで向こうへ来たいとは言わないだろう?」


 言おうとしていた。

 それを知られたくなくて、私は唇を噛んだ。知られたら、そんなに離れたくないのかと笑われそうだった。

 好きな人についていきたいと考えたことを、恥ずかしいことにされたのが悔しかった。


「私は、あなたとの結婚を楽しみにしていました」


 言い終わる前に、声が震えた。

 ジュリアン様が、ほっとしたように笑った。その笑顔を見て、今度こそ腹が立った。


「そうだろう。だから、帰るまで待って――」

「楽しみにしていた私へ、よくそんなことを頼めますね」


 彼の口が閉じた。

 私は泣くのを我慢するのをやめた。綺麗に話さなければ、考え直してもらえない。そう思っていた自分にも、腹が立っていた。


「あなたは、私より好きな方に会うかもしれないから、婚約をやめるのでしょう。それなのに私は、誰に会っても、どんな暮らしがしたくなっても、あなたのために断るのですか」

「そんな言い方をしなくても。帰ってきた時に、君がいてくれれば、僕だって安心して」

「私は、安心できません」


 涙が頬へ流れた。

 彼は少し身体を引いた。私がこんなふうに泣いたのを、見たことがなかったのだと思う。悲しい時にも困った時にも、まず彼を不機嫌にしない言い方を探していた。

 今日は、もう探せなかった。


「婚約解消のお話は、お父様へお伝えします。でも、私は待ちません。お帰りになった時にもう一度考えるお約束も、いたしません」


 ジュリアン様は、私の顔をじっと見ていた。

 やがて、今日は少し気持ちが高ぶっているようだから、と立ち上がった。


「出発までには、落ち着くよ。君は昔から、そういうところは変わらないから」


 私は見送りに立たなかった。

 扉が閉まっても、しばらく同じところを見ていた。泣いた理由も、怒った理由も、全部、一時の機嫌の悪さにされてしまった。

 残された菓子を見たら、ますます涙が出た。

 私は本当に、この方と結婚するのが嬉しかったのだ。


 * * *


 一週間後、両家で婚約解消の手続きを終えた。

 父は初め、三年待てるのなら婚約を続ければよいではないかと言った。私も、そうだったら違う話ができたと思う。

 けれど、ジュリアン様が求めたのは、それではなかった。


「お父様。あの方は、私の婚約者ではいたくないのです。私は、あの方の婚約者でもないまま、待っていたくありません」


 父は困った顔をし、母は私の手を握った。

 相手の伯爵家から異議は出なかった。赴任前に互いの将来を自由にしておくという、ジュリアン様ご自身の申し出だったからだ。

 私だけが自由にならないという取り決めは、どこにもなかった。


 彼の出発する日、私は家にいた。

 窓の外を馬車が通るたび顔を上げ、そんな自分が嫌になって、机へ向かった。以前に断った伯母からの手紙を、引き出しから出した。

 夏は海辺の別荘へいらっしゃい、と書いてある。


 去年も誘われた。

 その時は、ジュリアン様が夏の間に何度か訪ねたいと言ったので断った。日を決めてくださいとお願いしても、仕事が忙しいからと笑われた。それなら、いついらしても会えるようにしておこうと思ったのだ。

 結局、二度しか会わなかった。


 いつか一緒に海へ行きたいと話した時には、結婚したら、と答えてくださった。

 私はその返事を、何度も嬉しく思い出した。目の前の夏を断っても、ずっと先の夏が手に入った気がしていた。

 手紙の白い余白が滲んだので、私は手巾で目を押さえた。


 嫌いになれば、すぐ楽になると思っていた。

 でも、嫌なことを言われた日ばかり思い出すわけではない。初めて名前を呼ばれた時の嬉しさも、彼の帰ったあとに一人で笑ったことも、消えてくれなかった。

 泣き止んでから、新しい便箋を広げた。


 今年の夏は、ご一緒させてください。

 海を見たいです。


 たったそれだけを書くのに、ずいぶん時間がかかった。

 封をしたあと、もう一度開いて謝る文を足そうかと迷った。でも、誰にも悪いことはしていないはずだと思い直し、そのまま母へ届けてもらうよう頼んだ。


 ジュリアン様から最初の便りが来たのは、初夏だった。

 街並みと住まいの話のあとに、君も元気で待っていてくれ、とあった。

 私は返事を一通だけ書いた。私的な文通はこれで終わりにしたいこと、帰国を待つつもりはないことを、出発前と同じ言葉で伝えた。

 それから旅の支度を始めた。


 * * *


「伯母様、あれは全部、海ですか」


 丘を越えたところで、私は馬車の窓へ顔を寄せた。

 青いものが、地面の先に広がっていた。川のように向こう岸がない。雲の影がゆっくり動いていて、そのずっと遠くに、小さな白い帆が見えた。

 伯母は笑って、全部そうよ、と答えた。


「これから二か月も見られるんだから、窓から落ちないでね」


 私は慌てて座り直した。

 それでも次の曲がり角で海が隠れると、また身を乗り出してしまった。伯母が今度は声を上げて笑ったので、私も笑った。

 喉の奥で引っかからずに笑えたことに、少し驚いた。


 翌朝、朝食の前に、私は伯母と浜へ出た。

 朝食に招かれていた近隣の領主、ヴァレル伯爵も一緒だった。伯母がレオンと呼ぶその方は、私より五つ年上で、子供の頃はこの辺りでよく叱られたという。


「岸へ置いておいた靴を流されたんです。片方だけで帰ったら、母に、もう片方も海に返していらっしゃいと言われました」

「取りにお戻りになったの?」

「いいえ。裸足で叱られ続ける方を選びました」


 真面目な顔で言うので、私は吹き出した。

 レオン様は少し嬉しそうにしてから、今は潮が引いているので向こうの浜を歩けます、と伯母へ説明した。


 海は、遠くから見た時より、ずっと忙しかった。

 波が来て、白く崩れ、砂を引っ張って戻っていく。そのあとに小さな穴がたくさん現れ、また次の波に隠れる。

 私は裾を少し上げ、靴のつま先を濡らさないように近づいた。


「足を浸してみますか。ここなら、石も少ない」


 レオン様に言われ、私は伯母を見た。

 伯母は、靴を置く場所だけはこの方に習わないことね、と言った。侍女が乾いた布を取りに別荘へ戻り、私はその間に靴と靴下を脱いだ。

 砂が思ったより冷たくて、最初の一歩で声が出た。


 次の波が来た。

 足首へ水が触れる。冷たい、と言う前に思わず跳び上がり、慌てて後ろへ逃げた。レオン様が少し離れたところで笑っていた。


「逃げたら、追いかけてきますよ」

「だって、今のは、思ったより遠くまで来たんです!」


 言い返したところへまた波が来て、私は裾を持ち上げたまま、さらに逃げた。

 伯母まで笑っている。悔しくなって、次は逃げませんと言い、今度こそ足を踏ん張った。

 水が両足を包み、戻る時に砂が足裏からさらわれた。不思議で、くすぐったくて、私は声を上げて笑った。


 レオン様が隣へ来た。

 彼も靴を脱いでいた。二人で次の波を待ったが、先ほどほど大きくはなく、足の手前で引いてしまった。


「足りませんでしたね」

「もう少し、こちらまで来てほしかったわ」

「今度は呼び寄せるんですか」


 自分でもおかしくなった。

 私は海の方を見たまま、早く次が来ないかと思った。昨日まで知らなかったものを、もっと知りたい。そんな気持ちで胸がいっぱいになった。


 その日、薄桃色の貝殻を拾った。

 レオン様が白い貝を見つけたので、私は自分のものと並べた。伯母の家へ戻ってから、窓辺に置けば綺麗だと思ったのだ。

 持ち帰る前に砂をよく落としたつもりだったのに、朝食のあと、袖口から少し出てきた。


「海を全部持って帰るつもり?」


 伯母に言われ、私は袖を見た。

 レオン様は笑いながら、自分の靴からも砂が出たと打ち明けた。私だけではなかったのが嬉しくて、次に浜へ行く時には、貝を入れる小さな籠を持っていくことにした。


 彼に会うのは、毎日ではなかった。

 領地の仕事があるし、私も伯母と隣町へ行ったり、別荘で本を読んだりした。朝食の時に、今日は何をなさるのですかと聞かれ、私はいつの間にか、自分の予定を先に話すようになった。

 会えない日があっても、次に会えば話すことが増えていた。


 ある雨の日、伯母の食卓で、私たちは魚料理の付け合わせについて言い合った。

 レオン様は、一口分ずつ豆を潰してから食べていた。私は丸いままの方が好きだった。


「いつも潰して召し上がるのですか。丸いままも、おいしいのに」

「魚と一緒に食べやすいので。子供の頃からこうしていたから、もう癖ですね」


 彼は自分の皿を見て、次の一口だけ、豆を二つ残した。

 私は笑ってしまった。私が好きだと言うものを、必ず褒めてくれるわけではない。でも、聞く前からつまらないと決められることもなかった。

 食後には彼が港の倉庫を直す相談で困っているという話をした。私は何も知らないので、分からないところを尋ねた。

 説明している途中で、レオン様自身が、誰に聞けばよさそうか思いついたらしい。


「明日、職人の親方に確かめてみます。あなたに話していると、分かったつもりでいたことが見つかる」


 私は特別な答えを出していなかった。

 それでも彼は、話せてよかったと言った。そのあと、私が隣町で買った奇妙な形の帽子を見せて感想を求めると、彼はずいぶん困っていた。

 似合っていますとは、なかなか言わない。


「明日の朝、もう一度見てから、お答えしても?」

「一晩考えるほど、おかしいのですね」


 言い終わる前に二人とも笑い、伯母が、私は気に入っているわよ、と帽子を自分の頭へ載せた。

 雨がやみ、レオン様の迎えの馬車が来ると、私は窓の外を残念に思った。もう少し降っていてくれたら、一緒に話していられたのに。


 二か月は、短かった。

 帰る日の前夜、私は窓辺に並べた貝殻を箱へ収めた。部屋が急に借り物へ戻ったようで、寂しくなった。

 夕食に来たレオン様へ、来年も海を見に来たいと話した。


「それは、楽しみです。来年と言わず、またいらしてください」


 嬉しかった。

 その嬉しさを、すぐに怖いと思ってしまった。来年。帰ってきたら。その言葉だけで、今日からの日々を全部その人のために空けてしまいそうだった。

 私は食後の茶器を見つめた。


「また、というお約束を楽しみにするのが、少し怖いのです」


 レオン様は、急いで励まそうとはしなかった。

 伯母が静かにお茶を飲んでいるそばで、私は、以前の婚約がどうして終わったかを話した。婚約解消のことは彼も知っていたが、帰国を待てと言われたことまでは、話していなかった。

 口にすると、まだ恥ずかしかった。二年間好きだった相手に、そう扱われたことが。


「あなたと会いたいと思うのは、私の気持ちです。でも、また私だけが、そのつもりでいたらと考えてしまって」


 レオン様は、しばらく黙っていた。

 それから、冬に王都へ行く用事があります、と言った。


「日程が決まったら、お手紙を書きます。都合が合えば、会っていただけませんか。今、冬の予定を全部空けておいてほしいとは頼みません」


 私は顔を上げた。

 彼は少し緊張した顔をしていた。丁寧な言葉で慰めているだけの人の顔ではなかった。


「お断りされるかもしれませんけれど、私は会いたいです。海の話がなくても、あなたに」


 胸が熱くなった。

 私は伯母がいることを思い出し、恥ずかしくなり、それでも返事をしないままにはしたくなかった。


「私も、会いたいです。お手紙をください。私の予定も、お返事に書きます」


 レオン様は、大きく息を吐いて笑った。

 その笑顔を、王都へ持って帰れるのが嬉しかった。


 * * *


 秋に来た手紙には、冬に会いたい日の候補が二つ書いてあった。

 私は一つを選んで返事をし、その次の便りには、彼の知らない私の家のことを書いた。母が刺繍の柄を間違えて笑ったことや、弟の飼っている馬が私の持っていた林檎を狙って離れなかったこと。

 海のない日も、彼へ話したいことがあった。


 冬、レオン様は父と母へ挨拶に来た。

 約束していた日は雪になり、彼の肩にも白いものが残っていた。玄関で顔を合わせた途端、私は言うつもりだった丁寧な挨拶を忘れた。


「お会いしたかったです」


 彼は手袋を外す途中で、動きを止めた。

 それから、私もです、と言った。夏よりずっと近くで声を聞いて、私はますます、会いたかったのだと思った。


 その日は母と三人で食事をした。

 彼は、私の家の料理には豆が丸いまま入っている、と気づいて笑った。母には意味が分からなかったので、私が夏の話をした。

 説明している間、レオン様が私を見ていた。あの時の私を知っている人が、今ここにもいる。それが嬉しくて、話が長くなった。


 王都での滞在が終わるまで、何度か会った。

 彼が帰る日は寂しかったが、帰らないでとは思わなかった。今度は私が会いに行きたい。そう伝えると、彼は、待っています、と言ったあとで慌てた。


「その、あなたに待てと言うつもりでは」

「分かっています。今度は、私が行きたいと言ったのですもの」


 そう答えると、自分でも少し笑えた。

 会いたくて日を楽しみにすることまで、嫌いになったわけではなかった。


 次の春、私は伯母に頼んで海辺へ連れていってもらった。

 まだ風が冷たく、夏のように足を浸す勇気は出なかった。砂浜を歩くだけにした私の隣で、レオン様は何度も、何かを言いかけた。

 別荘の庭へ戻った時、私は立ち止まった。


「今日、私にお話があるのではありませんか」

「あります。ただ、海で言うつもりだったのに、思ったより風が強くて」


 彼は困ったように笑った。

 伯母と侍女は少し先で、庭師に花の名前を聞いていた。レオン様はそちらを一度見てから、私へ向き直った。


「アデル。私と結婚していただけませんか」


 風の音が遠くなった気がした。

 私は彼の顔を見たまま、返事をしようとして、うまく息が吸えなかった。嬉しいと、こんなふうに泣きたくなるのだと、その時に知った。


「あなたから手紙が来ると、食事の席で話したくなるんです。こんなことがあったそうだと。でも、聞いてほしい本人は、ここにはいない」


 彼は少し照れたように、私の手を取った。


「手紙を待つのも楽しかった。でも、あなたと同じ食卓で話したいです。豆を潰すかどうかで、また叱られたい」

「叱っていません。私は、丸い方が好きだと言っただけです」


 涙が出ているのに、笑ってしまった。

 彼も笑った。その顔を、朝も夜も見たいと思った。


「私も、毎日お話ししたいです。あなたが何をしたのか聞いて、私が何をしたか話して、同じことを何度も話したら、前にも聞いたと言ってほしい」


 レオン様が頷いた。

 私は握られた手へ力を込めた。あの人を忘れるために、この方へ返事をするのではなかった。今、目の前にいる人が好きだった。


「あなたと結婚したいです。レオン様が、好きです」


 彼の目が見開かれた。

 次の瞬間には抱き寄せられ、私は彼の上着を掴んでいた。耳のそばで、よかった、と何度も聞こえる。

 嬉しくて、私も腕を回した。伯母に見られているかもしれない。でも、今は離れたくなかった。


「私も、あなたが好きです。夏の間に言えばよかったと、何度も思いました」

「私は、あの時から、あなたのお手紙が欲しかったです」


 少し離れると、彼が私の顔を覗き込んだ。

 頷くより先に目を閉じてしまい、触れた唇の温かさに、私は彼の袖をまた強く握った。短い口づけが終わっても、顔を上げるのが恥ずかしかった。

 レオン様は笑わず、私の額へもう一度口づけた。


 その翌年の春、私たちは結婚した。

 初めて彼と浜へ行ってから、二度目の春だった。式を挙げるまでには相談することもたくさんあり、花の色や食卓の飾り方で、私は何度か意見を変えた。

 彼はそのたび、また変わったのですか、と困り、それでも最後に選んだ花を見て、あなたらしいと言って笑った。


 一緒に暮らし始めると、知らなかったことも分かった。

 夫は朝、起きてすぐにはあまり話さない。私は目が覚めたら昨日の続きを話したい。初めの頃は眠そうな返事に寂しくなったが、ある朝、彼がお茶を飲み終えたあとで、さっきの話をもう一度聞かせてくれないかと言った。

 それからは、朝の最初の一杯だけ待つようになった。


 その代わり、夜更かしして本を読んでいると、今度は彼が私を待った。

 あと少し、と言って何頁も進めると、そろそろ私の方を見てほしい、と本の向こうから訴えてくる。

 私は本を伏せ、彼へ手を伸ばした。

 待たせてごめんなさいと言うと、夫はその手を取って、自分の隣へ引き寄せた。


 * * *


 ジュリアン様が帰国したのは、私の結婚から一年後だった。

 母の誕生日を祝うため、夫と王都の実家へ戻っていた時期と重なった。

 帰国の予定を知らせる彼の手紙は、実家を通して私へ届いた。会いたいという文面へ、私は、すでに結婚していること、以前の関係へ戻るつもりはないことを書いて返した。


 婚約が決まった時にも、結婚した時にも、相手の伯爵家には伝わっていた。

 それなのに、なぜ今さらなのだろうと思った。

 帰国して数日後、彼は父へ、どうしても一度話したいと面会を申し込んできた。


「お断りしてもいいのよ」


 母はそう言った。

 私は少し考えた。夫は隣で、私の返事を待っていた。

 また便りが来るたびに、三年前の続きを求められるのは嫌だった。今回だけお会いして、これで終わりにすると伝えたい。そう答えると、母は同席すると言ってくれた。


 ジュリアン様は、見慣れない色の上着を着ていた。

 隣国の流行なのだろう。襟元も髪型も少し変わっていたが、応接間へ入って私を見つけた時の笑い方は、昔と同じだった。

 私の指輪を見て、その笑顔が止まった。


「……本当に、結婚したのか」

「お手紙に書いた通りです」


 母は私の隣に座っていた。

 ジュリアン様は母へ目を向け、母が頷くと、ようやく椅子へ腰を下ろした。


「父からも聞いていた。でも、君が、そんなに早く……」

「解消から二年後です。早いとは思っておりません」


 彼は口を閉じた。

 私は相手の次の言葉を待った。昔なら、この沈黙に耐えられず、お茶を勧めたり、旅はお疲れになりませんでしたかと尋ねたりしていたと思う。

 今日は、彼の話を聞くためだけに座っていた。


「僕は、三年で帰ると言ったよ。ちゃんと帰ってきた」


 彼は少し強い声で言った。


「君にも、待っていてほしいと言ったはずだ」

「私は待ちませんと、お答えしました。出発前にも、そのあとの手紙でも」

「怒っていたからだろう。あの時は、君も僕を好きだったじゃないか」


 胸の奥が熱くなった。

 あの時、どれほど好きだったかを、この方は何のために持ち出すのだろう。

 涙をこらえて座っていた二十二歳の自分を思い出した。隣国へ一緒に行きたいとさえ言えなくなり、苺の菓子を前に泣いた自分が、まだ腹を立てていた。


「好きでした。だから、ひどいと思いました」


 私は彼を見た。


「結婚する気はない。でも帰るまで待てと、好きな人に言われたんです。その三年間、私がどんな気持ちで暮らすか、一度でもお考えになりましたか」


 ジュリアン様は、答えなかった。

 私は指輪へ触れかけ、やめた。夫に選ばれたからようやく言えることにしたくなかった。結婚する前から、あの時の要求は嫌だったのだ。


「私は、お帰りになったあなたが、やっぱり別の方と結婚するとおっしゃるかもしれない三年間を、過ごしたくありませんでした。お約束もしていません。それなのに、待たなかったことを責められるのは心外です」


 彼は、責めているわけでは、と言いかけた。

 けれど母の顔を見て、言葉を続けなかった。


「向こうでも、君のことは思い出していた。帰ったら、改めて求婚しようと考えていたんだ。あの頃より、ずっと君を幸せにできると思って」


 ジュリアン様の声が少し弱くなった。

 私は、彼が何も得られず帰ってきたのではないことを、父から聞いていた。仕事ぶりを認められ、帰国後の勤め先も決まっている。あの国へ行けてよかったのだと思う。

 私も三年間、よいことに出会った。そのことだけが、彼には予想外だった。


「私があなたを忘れるために、無理に結婚したとお考えですか」


 彼は目を上げた。

 否定する返事は、すぐには来なかった。


「……そうではないかと、思ったことはある。僕への当てつけで、急いだのではないかと」


 腹が立った。

 砂浜を一緒に歩いた日も、手紙の返事を待ち遠しく思った冬も、求婚されて泣いた春も、この方を困らせるために使ったことにされていた。

 私は背を伸ばした。


「夫に、失礼です。私にも」


 ジュリアン様が息を止めた。


「私があの人と過ごした時間を、あなたへの当てつけにしないでください。夫と知り合ったのがあなたより後だというだけで、私たちの結婚を軽く扱わないで」


 母がそっと、私の腕へ手を添えた。

 落ち着かせるためというより、ここにいると知らせてくれる手だった。私は一度息を吸った。


「あなたがいなくなって、私は海へ行きました。ずっと行きたかったところです。そこで夫と知り合って、何度も会って、お互いに結婚したいと思いました」

「海へ……僕も、連れていくつもりだった」


 その言葉に、私は彼を見つめた。

 結婚したら、いつか。そんな約束を嬉しく思っていた。でも、私はもう、海を見た。冷たくて逃げたし、もっと大きな波に来てほしくて、濡れた砂の上で待った。

 あの日の笑い声まで、彼との未来のために取っておく必要はなかった。


「私は、楽しかったです」


 ジュリアン様は、何かを言いかけてやめた。


「海を見に行った日も、夫に会いに行った日も。結婚してからも、毎日楽しいことがあります。あなたが帰ってくるまでに何をして過ごそうかとは、もう考えていませんでした」


 彼の顔が、ゆっくり歪んだ。

 怒るのかと思った。けれど、違った。


「僕が戻ってきた時には……また、ここで」


 その先は聞こえなかった。

 彼は部屋を見回した。同じ長椅子、同じ窓、同じ家。私はここにいるが、ここで三年前から待っていたのではない。

 母の誕生日を祝いに、夫と帰ってきただけだった。


「夫をご紹介してもよろしいですか」


 私は尋ねた。

 ジュリアン様は顔を下げたまま、しばらく動かなかった。やがて、小さく頷いた。

 母が隣室へ声をかけると、レオンが入ってきた。


 私は立ち上がり、彼の隣へ行った。

 夫は私の顔を見てから、ジュリアン様へ会釈した。私が紹介を終えるまで、何も言わなかった。


「夫の、レオン・ヴァレルです」


 口にすると、少しほっとした。

 ジュリアン様も立ち上がったが、挨拶を返すのに時間がかかった。


「……大切にしていただいているようで」


 ようやく出てきた声に、私は頷いた。


「ええ。私も、夫を大切にしています」


 レオンがこちらを見た。

 嬉しそうな顔をされて、私は少し照れた。目を合わせると、いつものように話しかけたくなる。今はまだお客様の前だと思い直したが、その短いやり取りを、ジュリアン様は見ていた。

 彼はもう、帰るまで待っていたはずだとは言わなかった。


「ご結婚、おめでとうございます」


 かすれた声だった。

 私は、ありがとうございます、と答えた。

 お別れの時に、今後の私的なお手紙とご訪問はお控えください、と伝えた。ジュリアン様は長く私を見て、それから頭を下げた。

 私は玄関まで見送りには行かなかった。


 扉が閉まると、思っていた以上に疲れた。

 レオンが隣に来たので、私はその腕へ額を寄せた。母がいることは分かっていたが、少しだけ、そうしていたかった。


「嫌な話を、聞かせてしまったわね」

「隣室にいましたから、全部は聞こえていません。ただ、私も夫を大切にしています、というところは、よく聞きました」


 私は顔を上げた。

 レオンは笑っていた。困ったほど嬉しそうだったので、私まで笑ってしまった。


「そこだけ、ずっと覚えているおつもり?」

「ええ。帰ってからも、ときどき思い出します」


 私は彼の腕を軽く叩き、そのまま手をつないだ。

 母が、祝いの席にそんなに仲のよい夫婦を呼んでしまったわ、とわざとため息をついた。私は、今日はお母様をお祝いします、と言い、夫も慌てて頷いた。

 夕食では父が昔の母の話をして、母に三度訂正された。私は笑いながら、二度目の菓子をもらった。


 翌朝、出発の前に、母が焼き菓子の箱を持たせてくれた。

 レオンは荷物を馬車へ積み、私は玄関で家族に挨拶をした。次は夏に海辺へ来てほしいと母を誘うと、父が、私も行っていいのだろうね、と言った。


「もちろんです。でも、靴は波の届かないところへ置いてくださいね」


 父は不思議そうにし、レオンが隣で咳払いをした。

 馬車へ乗り込んでから、私は夫の肩へ寄りかかった。朝のお茶は飲み終えていて、彼もすっかり目が覚めていた。


「帰ったら、浜を歩かない?」

「そうしましょう。あなたの籠、玄関に置いたままでしたね」


 私は頷いた。

 家に帰ったら、いつもの籠を持って、二人で海へ行く。見つけた貝を並べる窓辺も、夜に向かい合って座る食卓も、もうそこにある。

 私は夫の手を取り、指を絡めた。


「レオン。あなたと結婚して、よかったわ」


 彼は少し驚いたあと、私の手を両手で包んだ。


「私は今、あなたを抱き締めたいのですが、この箱をどちらへ置けばいいでしょう」


 彼の膝には、母の焼き菓子の箱があった。

 私は笑って箱を向かいの席へ移した。夫が腕を広げたので、その中へ身体を寄せた。

 窓の外では、王都の家並みが少しずつ遠ざかっていた。

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