南の聖女は旅に出る
――聖女となる者、その身のいずこかに証が現れる――
この国では、物心がつく頃には誰もが知っている言葉だった。
歴代の聖女たちには必ず蝶のような証があり、手の甲や耳の後ろ、肩や足首、珍しいところでは瞼に現れた者もいたという。
「だ、旦那様ーっ!」
廊下から響いた声に、グレゴールが書類から顔を上げると、慌ただしい足音が近づいてきたかと思えば、そのまま執務室の扉が開いた。
「ノックもせず、騒々しい! 何事だ!」
飛び込んできたロザリア付きの侍女は、息を切らしながらグレゴールを見た。
「ロ、ロザリア様が……!」
「ロザリアがどうした!」
「お、お足に、聖女の証が!」
「ロザリアはどこだ!」
「お部屋にいらっしゃいます!」
グレゴールは返事を聞くなり執務室を飛び出し、ロザリアの部屋へ向かって廊下を駆けた。
「お父様」
部屋へ入ると、ロザリアは寝台に腰掛けていた。
「見せなさい」
ロザリアがドレスの裾を持ち上げると、露わになった足首には蝶のような証が現れており、グレゴールはそれを見たまま娘の前にしゃがみ込んだ。
「……いつ出た」
「分かりません」
「今朝はございませんでした。朝のお支度の際には確かに何もなかったのですが、先ほどお靴を履き替えていただこうとしたところ、こちらが……」
追いついてきた侍女の話を聞きながら間近で証を確かめていたグレゴールは、見覚えのある形に目を留めた。
「……同じだな」
「お父様?」
十五年前にも、一度だけ見ている。
グレゴールは立ち上がると、ようやく息を整えた侍女へ振り向いた。
「馬車を用意しろ。神殿へ行く。今度は消える前にな」
◇
中央神殿でロザリアの足首に現れたものが聖女の証であると確認され、そのまま聖力量の測定へ進むと、結果を過去の記録と照らし合わせていた神官が顔を上げた。
「西方を任される聖女と同程度ですね」
「西?」
ロザリアは思っていた答えではなかったのか、父親を見た。
「測定結果では西方ですね」
「南ではありませんの? フェリクス様のいらっしゃる南へ行けると思っていたのに」
「少し待ちなさい」
グレゴールはロザリアの言葉を遮ると、付き添っていた侍女へ目を向けた。
「ロザリアを馬車へ。私は確認したいことがある」
「かしこまりました」
「お父様?」
「すぐに戻る」
納得していない様子のロザリアだったが、侍女とともに部屋を出ていった。
扉が閉まると、グレゴールは改めて測定結果へ目を落とした。
「この子には、生まれたときにも同じ証があった」
「出生時にも?」
「ああ。だが、翌日には消えた。神殿へ知らせる前にな」
神官はロザリアの足首にある証を改めて確認したものの、思い当たるものはなかったのか首を横に振った。
「一度消えた証が再び現れたという例は、私も聞いたことがございません」
「そうか」
十五年前という年月を頭の中で辿ったグレゴールは、当時の出来事を思い返すうちに一人の聖女へ行き着いた。
「現在の南の聖女は『無印の聖女』と呼ばれているな。確か入殿も十五年前だったと記憶している」
「フィアナ様ですか? はい、三歳で入殿されております」
「当時の記録は残っているか?」
「残っているはずですが」
「見せてもらいたい」
神官から渡された資料をめくってフィアナの名を見つけたグレゴールは、入殿当時の記録へ目を通していき、聖女の証を確認したとの記述に手を止めた。
「……証があったのか」
隣から資料を覗き込んだ神官も、その一文を確かめると怪訝そうに眉を寄せた。
「記録には、そうございますね」
グレゴールはもう一度その記述へ目を通してから資料を閉じ、先ほどロザリアの測定を行った神官へ目を向けた。
「今日の測定を担当したのは、お前だけだな」
「はい」
その返事を聞いたグレゴールは懐から金貨の入った袋を取り出し、神官の前へ置いた。
「ならば話が早い」
◇
数日後、フィアナは王城へ呼ばれていた。
何のために呼ばれたのか分からないまま案内された部屋へ入ると、正面には国王が座り、その傍らには神官長、さらに数人の神官と見知らぬ少女、その父親らしい男まで揃っていたため、思っていたより大事らしいと考えながら国王の前で礼を取った。
「南の聖女フィアナ、参りました」
「顔を上げよ」
許しを得て顔を上げたフィアナへ、国王は少女を示した。
「こちらはロザリア・オルデン。数日前、その身に聖女の証が現れた」
ロザリアがドレスの裾を持ち上げると、左の足首には蝶のような紋様が浮かんでおり、初めて実物を目にしたフィアナは思わずそちらへ目を向けた。
あれが聖女の証なのか。
「フィアナ。そなたはこれまで、自らの身体に聖女の証を見たことがあるか?」
「いいえ、ございません」
国王はフィアナの返答を聞くと、今度はロザリアの隣に立つ男へ目を向けた。
「オルデン伯爵。そなたから説明せよ」
「御意」
グレゴールは一礼してから口を開いた。
「ロザリアには、生まれた直後にも今と同じ証が現れております。しかし翌日には消えてしまい、神殿へ届け出ることもできませんでした。そして、その直後にフィアナ様が聖女として中央神殿へ入殿されたと知り、私は十五年前に起きたことをようやく理解いたしました」
十五年前と聞いて、フィアナも三歳だった頃のことを思い出した。
あの日、フィアナの中には突然、知らない土地を訪れて初めて見るものや食べ物に出会うことが好きで、それを仕事にまでして各地を旅していた前世の記憶が次々と流れ込んできており、その横ではなぜか両親がひどく慌てていた。
ようやく目の前の出来事へ意識を戻したときには中央神殿にいて、すでに聖女として認定されていた。
「何を理解した」
国王の声に、フィアナは十五年前の記憶から意識を戻した。
「本来、南の聖女となるはずだったのはロザリアだったのではないかと」
グレゴールがそう答えると、室内にいた者たちの視線がロザリアへ集まった。
「当時のロザリアは生まれたばかりで、聖女として役目を果たすことなどできません。そのため一時的に証が消え、代わりにフィアナ様が南へ遣わされた。そしてロザリアが聖女として役目を果たせる年齢になった今、再び証が現れたのではないでしょうか」
国王はグレゴールの言葉を聞き終えると、神官長へ目を向けた。
「ロザリア・オルデンの聖力量は?」
「測定では、南方を任せるに足るとの結果が出ております」
「フィアナの入殿時の記録は?」
「改めて確認いたしましたが、聖女の証があったとの記載はございませんでした」
国王は手元の書類へ目を落とし、しばらく内容を確かめたあと、フィアナへ顔を向けた。
「フィアナ。そなたが南の聖女として十三年間、その役目を果たしてきたことに疑いはない。魔獣の群れが押し寄せた年も、大嵐によって各地に被害が出た年も、結界を失うことなく南部を守り続けた功績まで否定するつもりはない」
フィアナは黙って続きを待った。
「しかし、聖女となる者には必ず証が現れる。そなたにはその証がなく、入殿時の記録にも確認したとの記載がない一方、ロザリア・オルデンには証があり、南部を任せるに足る聖力も確認されている」
国王は一度言葉を切った。
「以上を踏まえ、そなたから南の聖女としての任を剥奪する」
室内に声を上げる者はいなかった。
「本来、聖女を偽ることは国を欺き、民を危険にさらす重罪である。ただし、そなたは三歳で神殿へ入った身であり、自ら聖女を名乗ったわけではない。また、十三年間にわたり実際に南部の結界を維持してきたことも考慮し、極刑には処さぬ」
フィアナにも、次に続く言葉が軽いものではないことくらいは分かった。
「国外追放とする」
「――以上をもって裁定とする」
「承知いたしました」
フィアナは深く頭を下げた。
国外追放。
国外。
顔を伏せたまま、フィアナは瞬きをした。
行ったことがない。
◇
国境の検問所で書類を渡すと、内容を確認した兵士がフィアナと背負っている鞄を何度か見比べていた。
「……お荷物は、それだけですか?」
「うん。これだけ」
着替えと日用品、それに財布。自分で持って歩くのだから、これだけあれば十分だ。
「本当に、それだけでよろしいのですか?」
「持てないほどあっても困るし」
兵士はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は聞かずに書類を返すと、国境門の先へ続く道を空けた。
「では、お通りください」
「ありがとう」
門を抜けたフィアナは、そのまま街道を歩き、少し進んだところで足を止めた。
国外に出た。
前世では何度も国境を越えたが、この世界では初めてだった。
目の前には街道が続き、その先に何があるのかは知らない。
「…………」
そういえば、行き先を決めていなかった。
国外へ出ることしか考えていなかったフィアナは、辺りを見回して少し先に道標を見つけると、そこまで歩いて書かれている地名を順番に確かめた。
東へ三日ほど進んだところに、カレムという町があるらしい。
「じゃあ、そこにしようかな」
どんな町かは知らない。
まあ、行けば分かる。
◇
初日は街道沿いの宿場で一泊し、翌朝もカレムを目指して東へ歩いていたフィアナは、昼前になると食堂の軒先に掛けられた『豆と鶏肉の煮込み』という文字を見つけ、ちょうどお腹も空いていたのでそのまま店へ入った。
空いている席へ座ると、大きな荷物を足元に置いた男と相席になった。
「旅か?」
「うん。昨日から」
「昨日?」
「初日です」
「そりゃまた、始めたばかりだな」
運ばれてきた煮込みには豆より鶏肉のほうが多く入っており、フィアナは匙ですくった肉を見て嬉しくなった。
「この辺って何かあります?」
「何かって何だ」
「見たほうがいいものとか、食べたほうがいいものとか」
男は匙を口へ運びながら考えた。
「カレムへ行くなら、途中から北へ入ったところにレーデン湖がある」
「湖?」
「朝に行け。風がなければ向こうの山が水に映る」
「へえ」
「まあ、わざわざ街道を外れて見るほどかは知らんが」
それを決めるのは自分だ。
食堂を出てしばらく進むと道が二つに分かれており、フィアナは東のカレムと北のレーデンを示す道標を見上げた。
このまま東へ進めば、昨日決めたカレム。
北へ曲がれば、朝の湖に山が映る。
「……北かな」
カレムへ行く予定は、二日目の昼に消えた。
◇
レーデン湖へ着いたのは夕方だった。
林の中を抜けたところで突然視界が開け、フィアナは思わず足を止めた。
夕日は山の端へ沈みかけ、湖の向こうには黒々とした山並みが続いており、その輪郭に沿って空が赤から紫へと変わっている。岸に打ち寄せる水は透き通り、足元には丸い石がいくつも見えた。
朝になれば、この水面に山が映るらしい。
しばらく眺めているうちに日が傾き、そろそろ宿を探さなければと思ったところで声をかけられた。
「お客さん、泊まるの?」
振り返ると、湖畔に建つ宿の入口から恰幅のいい女性がこちらを見ていた。
「泊まりたいです」
「夕飯は?」
「食べたいです」
「魚だけどいい?」
「むしろ食べたいです」
女主人が笑いながら中へ招いた。
夕食に出てきた魚は頭から尾までフィアナの手より長く、塩を振って焼いただけらしいが、箸を入れると皮がぱりっと割れて湯気と一緒に白い身が現れた。
一口食べたフィアナは、皿に残っている魚を見た。
「これ、もう一匹頼めます?」
「食べられるならね」
「たぶん」
「たぶんで頼むのかい」
結局、二匹食べた。
翌朝は日の出より早く目が覚めた。
昨日聞いた話を思い出して外へ出ると、風のない湖面には山が逆さに映り、空が明るくなるにつれて水の中の山にも少しずつ色が戻っていく。鳥が水面すれすれを横切ると、そこから広がった波紋に山の姿が崩れていった。
フィアナは湖岸まで下りると、そのまましばらく眺めていた。
「来てよかったなあ」
昨日まで目指していたカレムのことは、もうほとんど頭になかった。
宿へ戻る途中、野菜を籠に詰めた女性とすれ違った。
「旅の人? 今日は市を見ていくのかい」
「市?」
「知らないの? 月に二度だけ、湖の周りの村から店が集まるんだよ」
月に二度。
それが今日。
フィアナはそのまま宿へ戻った。
「もう一泊お願いします」
女主人は理由も聞かなかった。
◇
南部神殿で初めて祈りを捧げたロザリアは、神官から教えられていた量の聖力を注いでも光が満ちない聖石を見て、首を傾げた。
「まだ足りないの?」
「はい。ですが、すでに通常の聖女が一日に使う量を超えております」
「初めてだからでしょう?」
「その可能性もございますが、残りは我々で補うこともできます」
「嫌よ。私が南の聖女なのに、最初から神官に手伝ってもらうなんて」
こんなところで躓いていては、フェリクス様にお会いする前から格好がつかない。南の聖女としてきちんと役目を果たしているところを見せたかった。
ロザリアは再び祈り始め、途中から身体の重さを感じながらも聖石を最後まで満たした。
「できたじゃない」
南の聖女が一日の結界維持に使う聖力は、自身が持つ聖力量のおよそ二割で、一晩に回復する量も同じであるため、本来なら毎日務めを果たしても翌朝には元の状態へ戻る。
しかし、ロザリアがその日に使ったのは四割近くだった。
翌朝になっても聖力がすべて戻っていないことに気づいたロザリアは、昨日は初めてだったから上手くできなかっただけだと考えた。
「今日はもっと少なくできるかもしれないでしょう?」
ところが、結界を満たすために必要な量は変わらず、その日も同じだけの聖力を使うことになった。
それでも一人で最後までできたのだから大丈夫だろうと、翌日もロザリアは祭壇へ向かった。残っている聖力はさらに減っていたが、結界を満たすだけの量はまだある。
その翌朝には、必要な量を使えば自分の聖力が尽きるところまで減っていた。
「今日も足りる?」
「本日分は」
「なら大丈夫ね」
ロザリアはその日も祈りを続け、聖石を満たしたところで残っていた聖力をすべて使い切った。
そして翌朝、回復した分だけを確かめたロザリアは、ようやく神官へ尋ねた。
「……これで足りるの?」
「足りません」
「どのくらい?」
「本日必要な量のおよそ半分です」
ロザリアはできるところまでやることにしたが、聖石の半分を満たしたところで聖力が尽きたため、残りは待機していた神官たちが交代で補うことになった。
一人、二人と祭壇へ座り、十人を超えてもまだ光は満ちない。
「まだ足りないの?」
「もう少しでございます」
十五人目の神官が聖力を使い切ったところで、ようやく聖石全体に光が満ちた。
「……十五人も必要なの?」
「はい」
「じゃあ、明日も十五人いれば大丈夫なのね?」
「いいえ」
ロザリアが神官を見る。
「どうして?」
「今日祈った者たちの聖力は、明日までには戻りません。一晩で回復する量も限られておりますので、同じ者を続けて使うことはできません」
祭壇の周囲には、聖力を使い切って休んでいる十五人の神官がいる。明日は別の十五人、その翌日もまた別の神官が必要になる。
「……神官って、何人いるの?」
「南部神殿だけで、この状態を続けられるほどはおりません」
「じゃあ、どうするの?」
「中央神殿へ報告いたします。ロザリア様の聖力量も、改めて測定する必要がございます」
「どうして? 私は南の聖女なのでしょう?」
「そのはずです。ですから、確かめる必要がございます」
◇
数日後、中央神殿から派遣された神官を前に、ロザリアはもう一度聖力量を測ることになった。
南部神殿へ来る前にも受けた測定だったため、言われるまま前回と同じ手順を済ませると、結果を確認していた神官が手元の記録へ目を落とした。
「……西方を任される聖女と同程度です」
「やっぱり西なの?」
神官が顔を上げた。
「やはり、とは?」
「最初に中央神殿で測ったときも西だったの。でも、そのあとお父様から南の聖女だと聞いたから、最初のほうが間違っていたんだと思っていたわ」
「最初の測定でも、西だったのですか?」
「そうよ」
神官は中央神殿から持参した記録を開いたが、そこに記されているのは南方を任せるに足る聖力量だった。
「もう一度、測定させていただいてもよろしいでしょうか」
「いいけど、たぶんまた西よ?」
二度目も同じ値を示したため、今度は測定に使う器具そのものを替えることになったが、それでも結果は変わらなかった。
「やっぱり西じゃない」
三度の結果を記録した神官は返事をせず、中央神殿から持参した記録と見比べている。
「じゃあ、どうして私は南の聖女になったの?」
「そのとき測定を担当した神官を覚えていらっしゃいますか?」
「顔なら覚えているわ」
「分かりました」
神官は記録を閉じた。
◇
◇
数日後、中央神殿から派遣された神官を前に、ロザリアはもう一度聖力量を測ることになった。
南部神殿へ来る前にも受けた測定だったため、言われるまま同じ手順を済ませると、結果を確認していた神官が手元の記録へ目を落とした。
「……西方を任される聖女と同程度です」
「やっぱり西なの?」
神官が顔を上げた。
「やはり、とは?」
「最初に中央神殿で測ったときも西だったの。でも、そのあとお父様から南の聖女だと聞いたから、最初のほうが間違っていたんだと思っていたわ」
「最初の測定でも、西だったのですか?」
「そうよ」
神官は中央神殿から持参した記録を開いたが、そこにはロザリアの聖力量が南方を任せるに足るものとして記されていた。
「もう一度、測定させていただいてもよろしいでしょうか」
「いいけど、たぶんまた西よ?」
二度目も同じ値を示したため、今度は測定に使う器具そのものを替えて確かめることになったが、それでも結果は変わらなかった。
「やっぱり西じゃない」
西の聖女となれば、当然赴任するのも西部になる。せっかく南へ来て、これからフェリクス様にお近づきになれると思っていたのに、ここで西へ行くことになっては何のために南まで来たのか分からない。
「じゃあ、どうして私は南の聖女になったの?」
神官は答えず、三度の測定結果と中央神殿から持参した記録を見比べた。
「最初の測定を担当した神官を覚えていらっしゃいますか?」
「顔なら覚えているわ」
「分かりました」
神官は記録を閉じた。
◇
中央神殿へ戻った神官は、ロザリアの最初の測定を担当した神官を呼び出し、南部神殿で行った三度の測定結果を机の上へ並べた。
「いずれも西方です。器具を替えても結果は変わりませんでした」
「ですが、私が測定したときには――」
「ロザリア様ご本人が、最初の測定でも西方と告げられたと話されています」
神官の言葉が止まった。
「さらに、ロザリア様の測定結果が変更されたのと同じ頃、フィアナ様の入殿時の記録にも修正された形跡が見つかりました」
「……何のことでしょう」
「聖女の証についてです」
現在残されている記録には、フィアナに聖女の証があったとの記載はない。しかし、十五年前に作成された記録を改めて調べたところ、当時フィアナを診た神官の名が残っていた。
すでに中央神殿を離れていたその神官の所在を調べ、話を聞くために使者が送られた。
数日後、中央神殿へ呼ばれた老神官は、フィアナの記録へ目を通すとすぐに首を横に振った。
「これは、私が書いた内容とは違います」
「覚えているのですか?」
「ええ。証の場所が珍しかったので」
「どこにあったのです?」
「背中です。腰より少し上だったかと。ご両親が見つけて、この子を連れてこられました」
老神官は記録に残されたフィアナの名を指した。
「聖女の証を確認したことも、その場所も記録しました。なぜ消えているのかは私には分かりません」
ロザリアの聖力量は西方だった。
フィアナには聖女の証があった。
現在残されている二つの記録は、どちらも事実と異なっている。
改めて問いただされた神官が口を開いたのは、その日の夕方だった。
「……オルデン伯爵から、金を受け取りました」
神官長は黙って続きを待った。
「ロザリア様の測定結果を南方へ書き換えることと、フィアナ様の記録から聖女の証についての記載を消すよう命じられました」
「ロザリア様は、このことを?」
「ご存じないはずです。伯爵と二人で話をしていた時は、ロザリア様は馬車でお待ちでした。その後のことは、私には分かりかねます」
「受け取った金は?」
「自宅にございます」
神官長は隣にいた神官へ目を向けた。
「確認を。それが済み次第、王城へ報告する」
「はい」
神官が部屋を出ていくと、神官長は机の上に並べられた記録へ目を落とした。
◇
数日後、グレゴールとロザリアは王宮へ呼び出された。
案内された部屋には国王と神官長のほか、調査にあたった神官たちが揃っていた。
二人が礼を取ると、国王はグレゴールへ目を向けた。
「オルデン伯爵。ロザリアの聖力量を南方相当とするよう、測定結果を書き換えさせたことを認めるか」
グレゴールは答えなかった。
「フィアナの入殿時の記録から、聖女の証に関する記述を消させたことも同じだ」
「お父様?」
ロザリアが隣に立つ父親を見た。
「どういうことですの?」
「ロザリア、黙っていなさい」
「でも、最初に測ったときは西だと言われたのよ。お父様から南の聖女だと聞いたから、最初の測定が間違っていたのだと思っていたのに」
ロザリアは父親の顔を見たまま眉を寄せた。
「フェリクス様にお近づきになるきっかけができて、嬉しかったですけれど……」
国王はロザリアへ目を向けた。
「そなたは、父親が測定結果を書き換えさせたことを知っていたか?」
「知りませんわ」
「フィアナの記録については?」
「それも今初めて聞きました」
「父親から、南の聖女となった経緯について何か聞いているか」
「いいえ。お父様からは、私が本来の南の聖女だったとしか聞いておりません」
国王は神官長へ目を向けた。
「調査の結果は?」
「測定を担当した神官は、オルデン伯爵と二人で話をした際、ロザリア様は馬車で待っておられたと証言しております。その後、伯爵からロザリア様へ事情を話したかどうかまでは分からないとのことでした。また、現時点までにロザリア様が改ざんに関与したことを示すものは見つかっておりません」
国王は頷くと、再びグレゴールを見た。
「では、そなた自身に聞こう。なぜ、このようなことをした」
しばらく黙っていたグレゴールは、やがて口を開いた。
「ロザリアをディルガード辺境伯家へ嫁がせるためです」
ロザリアが目を瞬いた。
「南部を守る聖女となれば、ディルガード辺境伯家との縁を結ぶ機会も生まれます。ロザリアがフェリクス殿と婚姻すれば、南部を守る聖女と南部を治める辺境伯家が一つになる。オルデン家にとってだけではなく、国にとっても益となる縁です」
「ディルガード辺境伯家との間で、婚姻について何らかの取り決めがあったのか」
「……ございません」
「フェリクス本人から婚姻を望まれていたわけでもないのだな」
「ございません」
国王はしばらくグレゴールを見た。
「何の約束もない婚姻のために聖女の測定結果を改ざんし、フィアナが聖女の証を持っていたという記録まで消した。それを国のためでもあると申すのか」
「婚姻が成立すれば、南部の安定にもつながります。聖女と辺境伯家が強く結びつくことは――」
「その結果、南部はどうなった」
グレゴールが口を閉じた。
「そなたが偽者に仕立てたフィアナ一人の代わりに、南部では百五十人もの神官を割かねば結界を維持できなくなった」
グレゴールの表情が強張った。
「そして余は、そなたが作った偽りを信じ、十三年間南部を守ってきたフィアナを国外へ追放した」
国王は手元に置かれた報告書を閉じた。
「随分と国のためになったものだな」
誰も言葉を挟まなかった。
「オルデン伯爵グレゴール。聖女の選定に関わる記録を改ざんし、本来の聖女をその地位から退け、国の結界を危険にさらした罪は重い。爵位および領地を没収する」
「お待ちください、陛下。私は――」
「極刑とする」
グレゴールの言葉が途切れた。
「また、改ざんに加担した神官についても神官としての身分を剥奪し、法に従って処罰する」
国王はロザリアへ目を向けた。
「ロザリア・オルデン」
「……はい」
「そなたが改ざんに関与した証拠はなく、本人も知らなかったと申している。ゆえに父親と同じ罪を問うことはない」
ロザリアは黙って国王を見た。
「ただし、そなたが南の聖女ではないことも明らかとなった。今後は中央神殿で必要な教育を受けたのち、西の聖女として赴任してもらう」
「西……」
ロザリアは俯いた。
かつて南の聖女からディルガード辺境伯家へ嫁いだ者がいることは、ロザリアも知っていた。だから自分も南の聖女となれば、フェリクスに近づく機会が増え、いつか同じように辺境伯家へ嫁げるかもしれないと思っていた。
西へ行ってしまえば、それも難しくなる。
「では、フェリクス様との結婚は?」
「婚約の取り決めがあるのか?」
「……ありませんけれど」
「ならば、今回の裁定とは何の関係もない」
ロザリアは何か言いたそうに父親を見たが、結局口を閉じた。
国王はフィアナへ下した裁定書を手に取った。
「フィアナへの国外追放は、改ざんされた記録と虚偽の測定結果をもとに下されたものだ。直ちに撤回し、南の聖女としての地位と名誉を回復する」
「御意」
神官長が頭を下げた。
「本人にも直接詫びねばならぬ。すぐに連れ戻せ」
神官長は頭を上げたものの、返事をしなかった。
「どうした」
「フィアナ様は、すでに国外へ出ております」
「分かっている。追放したのだから当然だろう」
「その……行き先を、誰も把握しておりません」
◇
フィアナは乗合馬車に揺られながら、レーデン湖へ来るまで名前も知らなかった町へ向かっていた。
レーデン湖で開かれた市を見て回っているうちに、北東にあるラーディアという町へ向かう乗合馬車が翌朝出ることを知った。町の中に古い水路が張り巡らされ、いくつもの橋が架かっていると聞けば見てみたくなり、カレムへ向かうはずだった予定はその場でまた変わった。
「ラーディアまで行くの?」
向かいに座っていた女性に尋ねられ、フィアナは窓の外へ向けていた顔を戻した。
「そのつもりです」
「そのつもり?」
「途中で気になるところを見つけたら、降りるかもしれないので」
女性は少し驚いたようだったが、やがて笑った。
「ずいぶん自由な旅ね」
「行くところを決めてないから、どこに行ってもいいんです」
そう答えてから、フィアナは改めて窓の外へ目を向けた。
馬車が小さな村を通り過ぎたところで、フィアナは道沿いに並ぶ木々の向こうへ目を留めた。
赤い花が一面に咲いている。
「すみません。あれ、何ですか?」
「ああ、ラナの花よ。この辺りでは染料に使うの」
「染料?」
「煮出すと綺麗な赤になるのよ。もう少し先に工房もあるわ」
フィアナは窓から後ろを振り返った。花畑はすでに遠ざかり始めている。
「工房って見られます?」
「頼めば見せてくれると思うけど……」
女性は答えたあと、何かに気づいたようにフィアナを見た。
「まさか降りるの?」
フィアナは少し考えた。
ラーディアへ向かう馬車は、明日もあるらしい。
「降ります」
御者に声をかけ、次の停車場所で馬車を降りたフィアナは、教えてもらった道を戻り始めた。
ラーディアへ着く予定は、一日延びた。
◇
ラナの花畑まで戻ったフィアナは、畑の脇に続く道を進み、教えてもらった染色工房を訪ねた。
作業場では大きな鍋から湯気が立ち上り、その中で煮出された花から鮮やかな赤い色が広がっていた。傍らでは染め上がった布が何枚も干されており、同じ花を使っているはずなのに、薄い桃色から深い赤まで色合いが違っている。
「これ、全部あの花で染めたんですか?」
「ああ。使う花の量や染める回数で色が変わるんだよ」
工房の主人から説明を聞いたフィアナは、鍋の中と干された布を見比べた。
「じゃあ、この濃いのは何回も?」
「これは三回だな。一度染めて乾かして、また染める」
「へえ。時間かかるんですね」
少し見せてもらうだけのつもりだったが、花を煮出すところから布を染めるまでを順番に見ているうちに時間が過ぎ、工房を出ようとした頃には外が暗くなり始めていた。
「今からどこへ行くつもりだ?」
「近くの宿を探そうかなって」
「宿なら街道まで戻らないとないぞ。暗くなる前には着かん」
フィアナが窓の外を見ると、来たときにはまだ高かった日はすでに山の向こうへ沈みかけていた。
「じゃあ、どうしよう」
「うちに泊まっていけばいい。空いてる部屋があるから」
「いいんですか?」
「構わんよ。その代わり、夕飯は俺たちと同じものだ」
「食べられるなら何でもいいです」
主人は笑い、フィアナはその言葉に甘えることにした。
その夜、フィアナは工房の家族と同じ食卓を囲み、翌朝には染め上がったばかりの赤い布を一枚買ってから工房を出た。
◇
工房を出たフィアナは街道へ戻り、昨日乗っていたものと同じラーディア行きの乗合馬車を待つつもりだった。
ところが、道を尋ねるために立ち寄った農家で、ラナの花から作られた染料の一部がさらに北の村へ運ばれ、そこで織られる布に使われていると聞いた。
「ここで染めて終わりじゃないんですか?」
「もちろんここでも染めるけどね。北のアデル村じゃ、細い糸を何色にも染めて模様を織るんだよ。この辺じゃ昔から有名さ」
昨日見た赤い布とは違うものらしい。
フィアナは街道の先と、北へ延びる細い道を見比べた。
「アデル村って遠いですか?」
「歩けば半日くらいだね」
それなら今日中に着ける。
「行ってみます」
◇
西の国境を越えた神官たちは、検問所に残されていた記録をもとにフィアナの足取りを追い、最初に泊まった宿場から東へ向かったことを突き止めていた。
街道沿いの宿をいくつか回り、フィアナが昼食を取ったという食堂へたどり着くと、店主は尋ねられた特徴を聞いてすぐに頷いた。
「若い女の一人旅なら、あの子だろう。昼飯を食べていったよ」
「その後はどちらへ?」
「カレムへ行くって言ってたな。ただ、相席していた商人とレーデン湖の話をしていた。店を出るときには、湖へ行くって言ってたよ」
「レーデン湖ですか」
神官たちは予定を変え、北へ向かった。
湖畔の宿を訪ねると、女主人はフィアナのことをよく覚えていた。
「二泊していったよ。朝は湖を見に出て、戻ってきてから市にも行ってたね」
「その後は?」
「ラーディアへ行くって言ってた。乗合馬車に乗るつもりだったと思うよ」
神官たちは翌朝の乗合馬車を調べ、ラーディアへ向かった。
ところが、町の宿を回ってもフィアナの宿泊記録は見つからない。
「この女性を乗せませんでしたか?」
御者に尋ねると、男はしばらく考えてから首を傾げた。
「乗せたよ。けど、途中で降りたな」
「どこでです?」
「ラナの花畑の近くだ。染色工房があるって教えたら、見てみたいって言ってた」
神官たちは花畑の近くにある工房を訪ねた。
主人は話を聞くと、すぐにフィアナのことを思い出した。
「ああ、来たよ。染めるところを見たいって、しばらく見学していった」
「その日のうちに出ましたか?」
「いや、暗くなったから泊めたよ。翌朝には出ていったけどな」
「どちらへ?」
「ラーディアへ行くって言ってた」
神官たちは再びラーディアへ戻った。
しかし、何軒の宿を回ってもフィアナの名前はない。
「工房を出たあと、見かけた者はいませんか?」
街道沿いで聞き込みを続けていると、畑仕事をしていた女性が思い当たったように手を止めた。
「旅の女の子なら、昨日ここで道を聞いていったよ」
「どちらへ向かう道を?」
「ラーディア。最初はそう言ってたね」
「最初は?」
「アデル村の織物の話をしたら、そっちを見てみたいって。北への道を教えたよ」
神官たちは顔を見合わせた。
「アデル村へは、ここから?」
「半日くらいだよ」
◇
アデル村の織物工房では、フィアナのことを知っている女性がいた。
「昨日来たよ。染めた糸を使って織るところを見たいって」
「その後はどちらへ?」
「山の話をしたら、そっちにも興味を持ってたね」
「山へ向かったのですか?」
「そこまでは知らないよ。ただ、次はどこへ行こうかなって笑ってた」
神官はしばらく黙っていた。
「行き先は決めていなかった、と?」
「そう言ってたね」
神官は手にしていた地図を開いた。
「ほかに何か覚えていることは?」
「荷物が増えたって言ってたよ。旅に出たばかりなのに、もう色々買っちゃったって」
「……そうですか」
神官は地図へ目を落としたまま、しばらく考えていた。
◇
フィアナは山道を歩いていた。
アデル村で教えてもらった山は、村から見えていたよりもずっと大きく、麓まで来ると木々に囲まれた細い道が続いていた。
途中で見つけた小さな茶屋で休んでいると、店の主人から、この先に古い展望台があると教えてもらった。
「山を見に来たなら、あそこまで行ってみるといい。天気がよければ向こうの町まで見えるよ」
「町も見えるんですか?」
「晴れてればな」
フィアナは残っていたお茶を飲み干した。
「行ってみます」
「今日はもう遅いぞ」
「じゃあ、途中で泊まれるところを探します」
「この先に山小屋がある。誰かいるかもしれん」
礼を言って茶屋を出たところで、後ろから声が聞こえた。
「すみません!」
振り返ると、街道の先から神官服を着た男たちがこちらへ向かって走ってくる。
フィアナは足を止めた。
「……神官?」
先頭の男が息を切らしながら近づいてくる。
「フィアナ様!」
「はい?」
「お探ししておりました」
「私を?」
「はい。王宮から、フィアナ様をお迎えするよう命を受けております」
「王宮から?」
フィアナは首を傾げた。
「南の聖女として戻っていただきたいのです」
その言葉を聞いたフィアナは、しばらく黙って神官たちを見た。
「……今、南の結界はどうなっていますか?」
「ロザリア様では維持が難しく、現在は神官たちが交代で補っております」
「何人くらい?」
「一日に三十人ほど必要になります」
フィアナは目を丸くした。
「三十人?」
「はい」
「そんなに……」
しばらく考えたあと、フィアナは山の向こうへ目を向けた。
「分かりました。一度、戻ります」
◇
南部神殿へ戻ったフィアナを迎えた神官たちは、誰もが言葉を失った。
十三年間、この場所で結界を守っていた聖女が戻ってきたのだ。
フィアナは祭壇の前に座ると、久しぶりに聖石へ手をかざした。
「懐かしいなあ」
以前と変わらない祭壇へ聖力を注ぐ。
欠けていた光はすぐに戻り、やがて聖石全体が眩しいほどの光に包まれた。
周囲で見守っていた神官たちから、安堵の息が漏れる。
「これで大丈夫です」
「フィアナ様……」
神官の一人が目を伏せた。
「本当に、申し訳ございませんでした」
フィアナは少し困ったように笑った。
「もういいですよ。私も戻ってきましたし」
「では、このまま南の聖女として――」
「それはしません」
即答すると、神官たちは顔を上げた。
「まだ行ってみたいところがたくさんあるんです」
「でも、結界はこのままじゃ困りますよね」
「はい……」
「じゃあ、気が向いたらまた補充しに来ます」
神官たちは互いに顔を見合わせた。
「……気が向いたら、ですか」
「はい」
フィアナは笑った。
「旅の途中で、また来たくなるかもしれませんから」
それ以上、神官たちは引き止めなかった。
数日後。
中央神殿へ一通の報告書が届いた。
『フィアナ様は西方へ向かわれました』
そのさらに二日後、別の知らせが入る。
『途中の村で春祭りがあると聞き、北へ進路を変更された模様です』
報告書を受け取った神官は、しばらく文字を見つめたあと、そっと机へ置いた。
もう追いかける必要はない。
それだけが救いだった。




