愛されていたはずでした
※痛快なざまぁも分かりやすい悪人も出てきません。
これは「愛されているのに苦しい」という、少し息苦しいすれ違いのお話です。
設定の甘い部分はご容赦いただきつつ、お楽しみいただければ幸いです
「婚約を、解消してください」
私は深く息を吐き、婚約者であるダミアン・フォン・ヴァルクに告げた。
ダミアンの青い瞳が、驚いたように見開かれる。けれど私は目を逸らさなかった。もう逃げないと決めたからだ。
ーーああ、やっと。
二年かかってやっと、ようやくここまで来た。
長かった。本当に。この一言を告げるのに、二年もかかってしまった。
私とダミアンが婚約したのは二年前。
ヴァルク子爵家嫡男であるダミアンと、リヒター子爵家長女である私、アンネリーゼ。社交界では特別珍しくもない、家同士が取り決めた婚約だった。
尤も、全く知らない相手ではなかった。私とダミアンは、同じ王立学園に通っていた。同学年だったこともあり、顔くらいは知っていたのだ。
真面目で成績優秀。けれど友人と賑やかに過ごしている姿は、ほとんど見たことがない。いつもどこか一人でいる印象だった。もちろん私自身、言葉を交わしたこともなかった。
だから、初めてヴァルク子爵家を訪れた日のことを、今でもよく覚えている。真面目で堅実な家風だと聞いていた私は、ひどく緊張していた。
けれど、婚約者となるダミアン・フォン・ヴァルクは、私の予想とは少し異なっていた。
「初めまして、アンネリーゼ嬢」
そう言って自信無さげに差し出された手は、私よりも震えていた。緊張していたのは、私だけではなかったらしい。思わず笑ってしまった私に、彼もぎこちなく笑い返す。
その笑顔を見て、人付き合いが少し苦手なだけなのだと知った。同時に、素敵な人だと思った。
「アンネと呼んでもいいかな」
照れたようにそう尋ねる彼に、胸が小さく跳ねた。
「もちろんです」
そう答えると、彼はほっとしたような微笑んだ。家族や親しい友人にしか呼ばれたことのない愛称を、この人が呼んでくれる。それだけのことなのに、胸の奥が擽ったくて、もどかしくて。
当時の私は、その事を心から嬉しく思った。
「後は若い二人で」
とダミアンの父が口にすると、その横でヴァルク子爵夫人が穏やかに微笑んだ。二人は自然に肩を寄せ合っていて、とても仲が良さそうだった。
「父は家族をとても大事にするんだ」
ヴァルク家の庭園を歩いていると、ダミアンが言う。
「特に母の事はね、何よりも大切にしているんだ。仕事より友人より、息子の私よりね」
どこか誇らしげな声だった。
私思わず微笑む。
「あなたのことも、大事にするよ」
不意に視線が交差する。
ダミアンの綺麗な青い瞳が、真っ直ぐ私を見つめていた。
頬が熱い。体温が上がっていくのを感じた。
どうしていいか分からなくて、慌てて視線を逸らした。
本当は、その言葉が嬉しかった。
だから私は、信じていた。この人となら、きっと幸せな未来を築いていけるのだと。
あの日の宣言通り、婚約が決まった翌週から、彼は毎朝リヒター家まで迎えに来るようになった。
「婚約者なのだから、当然だよ」
そう言って笑うダミアンに私は胸を高鳴らせた。学園へ向かう馬車の中で他愛もない話をする時間が好きだった。
帰りも同じだった。授業が終わる頃には迎えが来ていて、私たちは並んで帰宅する。
「初めは少し心配していたけど、アンネが幸せそうで安心したわ」
そう微笑んだのは、友人のリンネだった。隣にいたエマも羨ましそうに頷く。
「毎日送り迎えなんて、まるで物語の王子様みたい」
思わず頬が赤くなる。この頃の私は、エマの言う通り、彼のことを王子様のように思っていた。
ダミアンと婚約してから、友人達と過ごす時間は少しずつ減っていったけど、それでも私は幸せだった。
最初に小さな違和感を覚えたのは、私が熱を出して学園を休んだ時だった。
いつも通り迎えに来てくれたダミアンに、体調不良で欠席する旨を伝えると、ダミアンは当然のように学園を休んだ。
「そこまでする必要はないわ」
慌ててそう伝えたけれど、彼は首を横に振った。
「既に学ぶべき内容は履修してるんだ。問題ないよ」
そう言われてしまえば、それ以上強くは言えなかった。
発熱は二日程続いたものの、内服薬で治る軽い風邪だった。侍女もいるし、医者も来ている。何より、私はもう風邪で心細くなって泣くような赤子ではない。だから本当に心配はいらなかった。けれどダミアンは、何度も私の部屋の前を訪れた。
「ご飯は食べられたか」
「薬は飲んだか」
「まだ熱はあるのか」
婚約者とはいえ、今の私の姿は、コルセットのないネグリジェにカーディガンを羽織っているだけだ。それを知ってか、ダミアンは部屋には入らず、何度も部屋の前で声をかける。その真面目さが、彼らしいと思った。
けれど、気にかけてくれていることへの感謝と同時に、私は少しだけ息苦しさを感じた。
ーー私を心配してくれているだけだ。
そう分かっているのに、彼が部屋を訪れる度、なぜだか私は少しだけ身構えてしまう。
その理由は、当時の私には分からなかった。
次に違和感を覚えたのは、服装だった。
婚約して間もない頃、ダミアンは私に言った。
「婚約者なのだから、アンネを着飾るものは私から送らせてくれないか」
最初は純粋に嬉しかった。休日に着るワンピースから社交用のドレス、揃いのイヤリング、彼は季節に併せて沢山の服や装飾品を送ってくれた。
「本当に大切にされているのね」
友人たちにそう言われる度、わたしも嬉しくなった。
けれど、私は元々、自分で服を選ぶのも好きだった。母や友人と出掛けて生地や色を選ぶ時間も、自ら選んだ物が形になり手元に届いた時の高揚感も、私を構成するもののひとつだった。
もちろん、ダミアンから送られた服はどれも素敵だった。けれど、お気に入りの服だってあったのだ。
ある日、婚約前から持っていたお気に入りのワンピースを着てダミアンと会った。すると彼は、わずかに目を開き、少しだけ寂しそうに笑った。
「…僕が先日贈った服は、気に入らなかったかな」
「そんなことないわ、ダミアン。とても素敵な服をありがとう。今日は久しぶりに、お気に入りの服を着てきたの」
「そうか。ありがとう。でもスカートの長さが数ミリ、僕が選んだものより短いね。アンネはとても可愛いからね、肌の露出は可能な限り避けてほしいんだ」
それは本当に、傷ついたような声だった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない、力のない声。けれど私は、その言葉に酷く胸を痛めた。まるで自分が彼を深く傷つけてしまったかのように。
それ以降、服を選ぶたびに、あの時の傷ついたダミアンの顔が浮かぶようになった。だから自然と、彼と会う日は、彼が贈ってくれた服を選んだ。その方が彼は喜ぶし、私も安心するから。
そうしているうちに、気付けば自分で買った服を着る機会はなくなっていった。
婚約してから家族や友人と過ごす時間もほとんどなくなり、クローゼットの奥には、お気に入りだったワンピースが静かに眠っていた。
「ねえ、週末久しぶりにヴァレンタイン家に遊びに来ない?リンネも誘って、三人で」
最近めっきり関わりが薄くなってしまったエマからの誘いに、私はパッと顔を輝かせた。婚約してからというもの、友人たちと過ごす時間は以前よりずっと少なくなっていた。だからこそ、その誘いが嬉しかった。
「もちろんよ、エマ!楽しみにしているわ!」
久しぶりのお茶会。クローゼットに眠った服も出せる。リンネにも会える。私はその日が待ち遠しくて仕方なかった。
その日の放課後。
いつもの様に迎えに来たダミアンと馬車に乗り込み、何気なく週末の予定を伝えた。
「今週末ね、久しぶりにエマのお家にお邪魔するの。リンネも来るそうよ!」
すると、ダミアンはわずかに目を伏せた。ほんの一瞬だった。けれど、私はその一瞬を見逃さなかった。
(ああ。またその顔をさせてしまった)
また彼を傷つけてしまったのだと、浮かれていた心が瞬時に重くなるのを感じた。
「…そっか。楽しんできてね」
「ええ。ごめんなさい」
小さく微笑んだダミアンに、私はほぼ無意識に謝罪の言葉を口にしていた。
「どうして謝るんだ?」
「え?」
ダミアンは驚いたように目を瞬いていた。
自分でも、分からなかった。友人と約束をしていただけなのに、どうして私は謝ったのだろう。
「僕は大丈夫だから、楽しんでおいで。当日はヴァレンタイン嬢の家まで送るよ」
その言葉に、ほっとしたのと同時に、胸の奥には暗くて重たいものが残っているのを感じた。
週末。
久しぶりに訪れたエマの屋敷は、以前と変わらず賑やかだった。
「「アンネ!」」
「エマ、リンネ、久しぶり!」
「アンネったら、毎日顔を合わせてるじゃない」
エマが呆れたように笑う。たしかにその通りだ、私たちは毎日学園で顔を合わせている。
それなのに、こうして二人とゆっくり話すのは、ひどく久しぶりな気がした。
最近エマが凝っているという刺繍の話。
流行りのドレスの話。
この日のために隣国から取り寄せたという珍しいお菓子。
話題は次々と移り変わり、私は久しぶりに心から笑った。
そして、一通りの話題が落ち着いた頃だった。
「ところでアンネ。最近なにかあった?」
「え?」
不意に、リンネがそう尋ねた。
「なんだか元気がないように見えたの。それで私たち、久しぶりにアンネとゆっくり話したかったのよ。」
エマも心配そうに私を見た。私は慌てて笑顔をつくる。
ーーそんなことないわ。
そう言おうとして、言葉が止まった。この胸の奥にある違和感を、この言いようのない不安を、二人になら話せるだろうか。
「…ありがとう」
私は空になったティーカップを見つめながら呟く。
「自分でもよく分からないの。上手く言えないのだけれど、最近ダミアンと一緒にいると、息が苦しいの」
「まあ!」
「アンネ。それはきっと、ヴァルク様に恋をしているのよ!」
二人はぱっと顔を見合せると、嬉しそうにはしゃいだ。
けれど私は、首を横に振った。
「違うのよ。なんと言ったらいいかわからないけれど…」
私は唇を噛む。
「とにかくダミアンを前にすると、私が私でいられなくなっている気がするの」
「アンネ」
エマがくすりと笑う。
「それが恋というものよ!」
「そうそう!」
リンネも楽しそうに頷く。
「好きな人を前にするとね、誰しもそうなるわ」
だめだ。何を言っても伝わらない。私自身でも説明できないのだから、当然かもしれない。
「あら」
不意にエマが窓の外を見る。
「噂をすれば、王子様のお迎えよ」
「え?」
視線を向けると、見慣れたヴァルク家の馬車が、屋敷の前に止まっていた。
本当はもう少しだけ二人と話したかったけれど、ダミアンを待たせるのも申し訳ない。
私は席を立つ。
「今日はありがとう」
「こちらこそ!またゆっくり話しましょう」
「ヴァルク様と仲良くね!」
笑顔で手を振る二人に別れを告げながら、私は胸の奥に残る違和感から目を逸らした。
それからも、似たようなことは何度もあった。
エマから贈られた誕生日の髪飾りを身につけていると、
「その髪飾りも素敵だけど、アンネには青が似合うよ」と寂しそうに言われた。
異性の学友から相談を受けた話をすると
「そうか」とダミアンは微笑みながら、数日元気がなくなった。
休日に出掛ける予定を伝えれば、必ず誰と行くのか聞かれた。
一人で出掛けると答えれば、
「それなら僕も一緒に行くよ」と当然のように言われた。
エマやリンネの名前を出せば反対はしないが、
「帰りは迎えに行く」と譲らなかった。
最初は優しいと思った。
女性一人で出歩くのは危険だからと、心配してくれているのだと。
けれど、友人たちとの時間が終わる頃には、いつもヴァルク家の馬車が待っている。少し寄り道をしたいと思ってもできない。
友人たちと話し足りなくても、ダミアンを待たせるわけにはいかなかった。だから私は、いつの間にか予定の後に別の予定を入れなくなっていた。
ダミアンの優しさは、ひとつずつ私の身体に絡まって、気付けば一人では身動きが取れないようになっていた。
一度、勇気をだして両親に相談したことがある。
ダミアンと一緒にいると、少し息苦しいこと。
上手く言葉にはできないけれど、最近、自分らしくいられない気がすること。
勇気を出して話した私に、両親は顔を見合わせた。
そして、優しく笑った。
「アンネ」
母はどこか安心したような声で言った。
「それはきっと恋をしているからよ」
「そうだな」
父も頷く。
「ヴァルク子爵令息は誠実な青年だ。お前を大切にしてくれている」
「少し過保護なくらいだけれど、それだけ愛されているということだわ」
二人に悪気はなかった。
私を心配してくれていた。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、私はもう誰にも相談できないと思った。
家族も友人も、それは恋だと笑う。
ダミアンは素敵な方だと。
愛されていて羨ましいと。
違和感を覚えているのが私だけなら、おかしいのはきっと私なのだ。
こんなにも愛されているのに、息苦しいなんて、そんなことを思う私は我儘なのだろう。
だから私は、この違和感を胸の奥へ押し込めた。
そうして私は、少しずつ自分の気持ちに蓋をした。
「アンネは友人といる時の方が、楽しく笑うね」
そう言って悲しそうに笑うダミアンを見るのが苦しくて、エマやリンネと会う回数をもっと減らした。
「アンネは可愛いから。君と話せば、みんなが君を好きになってしまうね」
そう言われるのが面倒で、異性の学友とは一切話さなくなった。
ダミアンが選んだ服以外、着なくなった。
そうしているうちに、流行りのドレスも、好きだった学問も、友人たちとのお喋りも、少しづつ興味を失っていった。気付けば私の世界には、ダミアンしかいなくなっていた。
けれど、ダミアン以外の全てを遠ざけたところで、何かが良くなることはなかった。
むしろ私は、ダミアンとの会話に困るようになった。
私にはもう、話せるようなことが何も残っていなかったのだ。
「最近、僕と話していても楽しそうじゃないね」
ある日の帰り道、ダミアンは寂しそうに笑った。
「ごめんなさい、そんなことないわ」
私は慌てて笑顔を作った。けれど、自分でも分かっていた。いつの日か私は、意識しなければ笑顔でいられなくなっていた。
その日もいつも通りだった。
ダミアンと別れ、リヒター家へ帰る。
「ただいま、お母様」
母の姿が見えたのでそう言って微笑むと、母はなぜかハッと息を呑んだ。
「アンネ」
慌てたような顔で私に歩み寄る。
「あなた、どうして泣いているの?」
「え?」
反射的に頬に手を当て、初めて気付く。頬が濡れている。
(どうして?)
私は泣いていた。自分でも気付かないうちに、ぽろぽろと涙が零れる。そうして意識したのをきっかけに、次から次へと涙が溢れた。
大丈夫だと、母に言わなければならないのに、息が上手く吸えない。胸が、苦しい。苦しくて、苦しくて堪らない。
家族にも友人にも恵まれて、優しい婚約者がいて、私は幸せなはずなのに。何も問題はないはずなのに。
「ご、ごめんなさい……」
気付けば私は謝っていた。
母の服を掴む、子供みたいにみっともなく。声を上げて泣きながら。
「ごめんなさい」
何に謝っているのか、自分でも分からなかった。ただ、ずっと胸の奥に押し込めていた言葉が、涙と一緒に零れ落ちた。
「ダミアンとの婚約を、解消させてくれませんか」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
母は何も言わずに、強く私を抱きしめる。
そうしてどのくらい経っただろうか。
私の髪を撫でながら、震える声で呟いた。
「ごめんなさい、アンネ」
涙に濡れた顔を上げると、母も泣いていた。
「何も見えていなかったわ」
私は首を横に振って、その言葉を否定した。母に謝らせたかったわけではない。それでも母は、真っ直ぐ私の瞳を見て、言った。
「もう頑張らなくていいのよ」
その瞬間。
私はさらに声を上げて泣いた。
私が泣き疲れて眠ってしまったあと、母がお父様に全てを話してくれたらしい。
お父様は最初、まるで理解できなかったという。
「ヴァルク子爵令息は、誠実な青年だ」
「アンネを大切にしている」
「なにか誤解やすれ違いがあるのではないか」
そう言ったのだ。けれど母は譲らなかった。
私がどれほど追い詰められていて、どれだけ心が壊れる寸前なのか。
「私たちがアンネを助けてあげられる、最後の機会よ」
ゆっくりと丁寧に伝えてくれたらしい。
最終的には、お父様も婚約解消を認めてくれた。
幸い、この婚約は解消に困難を極めるものではなかった。少なくとも、家同士の政治的な意味合いでは。
リヒター家とヴァルク家は共に子爵家同士であるものの、婚約を前提とした大規模な事業や領地運営の取り決めを行っていたわけではない。
もちろん家同士が結んだ正式な婚約であり、軽々しく解消できるものではない。
けれど、この婚約は政治的な利益を目的としたものではなく、年頃になった子供たちの相性が良ければ、という意味合いが強かった。
だから家同士の問題だけを考えるなら、解消は不可能ではない。少なくとも、どちらかの家が致命的な損失を被るような話ではなかった。
それでも私は二年間、婚約解消を口にできなかった。家のためではない。世間体のためでもない。
ただ私自身が、言えなかったのだ。
お父様はすぐにリヒター家当主としてヴァルク家へ連絡を取ろうとした。
けれど私は、それを止めた。
「待ってください、お父様」
泣き腫らした目でそう告げると、お父様は眉を寄せる。
「婚約解消の話は、まず私からダミアンに伝えます」
静かな沈黙が落ちた。お父様も母も何も言わない。私は膝の上で拳を握る。本当は、今すぐ全てを投げ出してしまいたかった。
けれど。
「これは私なりのけじめです」
二年間、向き合うことを避けてきた。
傷つけたくなくて。何より傷つけたくなくて。
だから最後くらいは、自分の言葉でケジメをつけなくてはいけなかった。
数日後。
学園へ向かう馬車の中で、私はその言葉を口にした。
「お時間をいただけませんか?」
婚約解消を決めてから、何度も話そうとした。けれど言葉は喉の奥で止まり、結局いつもの他愛もない会話に逃げてしまう。そうして数日掛けて、ようやく絞り出した言葉だった。
「もちろんだよ」
ダミアンは少しも嫌な顔をせずに頷いた。いつたってそうだ、彼は優しい。だからこそ、これから口にする言葉に、選択に、胸が痛んだ。
そして放課後、私はヴァルク家へ向かった。
案内されたのは、かつて二人で歩いた庭園だった。季節は巡り、あの日とは違う花が咲いている。けれど景色だけは、不思議なほど変わらなかった。
「なんだか懐かしいね」
庭園を見渡しながら、ダミアンが小さく笑う。
「ここで初めて、二人で話したんだ」
「ええ」
私は頷いた。覚えている。ぎこちなく差し出された震える手も。照れたような笑顔も。大事にすると、真っ直ぐ伝えてくれた真面目な声色も。
だから私は、ゆっくりと息を吸った。
「婚約を、解消してください」
ダミアンの青い瞳が、驚いたように見開かれる。けれど私は目を逸らさなかった。もう逃げないと決めたからだ。
ーーああ、やっと。
長かった。本当に。この一言を告げるのに、二年もかかってしまった。
「……どうして?」
掠れた声で、ダミアンはそう尋ねた。
責めるような口調ではなかった。怒っているわけでもない。ただ、本当に分からないのだと、その顔が語っていた。
胸が痛んだ。
その問いに、すぐには答えられなかった。
ダミアンが静かに私の言葉を待つ。
重い沈黙だった。
「ねえ、ダミアン」
私は膝の上で手を握りしめる。
「私が最後に自分で服を選んだのは、いつだったと思う?」
ダミアンが目を瞬く。
「……分からない」
「私も分からないの」
小さく笑う。笑ったはずなのに、声は震えていた。
「お気に入りの服があったの。友人たちとのお茶会も好きだったし、学園で新しいことを学ぶのも好きだった」
ひと呼吸置く。
「でも気付いたら、全部どうでもよくなっていたの」
ダミアンは何も言わない。
ただ静かに聞いていた。
「友人と会うことも。好きだった学問も。何を着たいのかも。何をしたいのかも」
私は視線を落とした。
「気付いたら、何も分からなくなっていたの」
長い沈黙が落ちる。
やがてダミアンが口を開いた。
「……分からない」
私は顔を上げる。
「私は君に何かを禁止しただろうか」
静かな声だった。
けれど、その奥に揺れる感情が見えた。
「友人と会うなと言ったことはない。
学問をやめろとも言っていない。
出掛けるなとも言っていない」
ダミアンは苦しそうに眉を寄せる。
「君が嫌だと言ったことを、私は無理にやらせたことがあったか」
答えられなかった。ダミアンは私を怒鳴ったこともない。命令したこともない。
ただ彼が悲しそうに目を伏せる度に、私が悪いことをしたような気持ちになった。彼を傷つけたくなくて。失望させたくなくて。気付けば私は、自分の気持ちより先に、ダミアンがどう思うかを考えるようになっていた。
だからこそ、私もずっと苦しんだ。
「僕はただ、君を大切にしたかっただけなんだ」
ダミアンの声が震える。
「君が好きそうなものを贈りたかった。君に喜んでほしかった。誰よりも傍にいたかった」
握り締めた拳が白くなっている。
「それの何がいけなかったんだ」
私は唇を噛んだ。
「ダミアン」
「愛する人を大切にしたいと思うことの、何が悪いんだ」
初めてだった。
ダミアンがこんな風に感情を露わにしたのは。私は静かに首を振る。
ダミアンが悪人だったら、どれほど楽だっただろう。怒れたかもしれない。憎めたかもしれない。けれど、できなかった。
「でも私は苦しかったの」
「だから分からない」
ダミアンは掠れた声で言った。
「僕はどうすればよかったんだ」
私は答えられなかった。
きっとダミアンが欲しかった答えは、私も持っていない。ただ一つだけ、分かっていることがあった。私はゆっくりと顔を上げる。
「気付いたら、私は私じゃなくなっていたの」
声は震えていた。それでも、今度こそ最後まで言い切った。
「だから、もう続けられない」
ダミアンは何も言わなかった。ただ、酷く傷付いた顔で私を見ていた。
長い沈黙が流れる。
ダミアンは何度も口を開いて、閉じてを繰り返す。
「…僕は」
そうして絞り出した声は、酷く疲れて聞こえた。
「僕は」
握りしめた拳が、震えている。
「君を幸せにしたかっただけなんだ」
何度も繰り返される言葉は、きっとダミアンの本心なのだろう。
「ごめんなさい」
私がそう言うと、ダミアンは小さく首を振った。
「君はいつも謝るね」
そして悲しそうに笑った。
「もう、僕のことを好きじゃないのか」
息が止まる。
家族にも友人にも、『それが恋だ』と言われた。ダミアンと過ごす時間は、たしかに楽しかった。たしかに愛を、感じていた。
けれど、私はその問いに答えられなかった。
「…分からない」
ダミアンの肩が小さく揺れた。
「好きか嫌いかも、分からなくなってしまったの」
ダミアンの声を呑む音が、聞こえた気がした。何も言わない、ただ静かに俯いた。
そしてしばらくしてから、静かに顔を上げた。
「…そうか。
婚約解消の件は、僕から父上に伝えるよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。けれどその穏やかさが、かえって痛々しかった。
「ありがとう」
そう言うと、ダミアンは小さく首を振る。
「こちらこそありがとう」
ダミアンは少しだけ笑った。
泣きそうな顔だった。
婚約解消は、その後リヒター家とヴァルク家の正式な話し合いを経て成立した。
リヒター家は詫びとして持参金の一部をヴァルク家へ渡そうとしたが、ヴァルク家はそれを受け取らなかった。
「これは誰かが責任を負うような話ではない」
ヴァルク子爵はそう言ったらしい。その言葉に、父は深く頭を下げたという。
婚約解消から数ヶ月後。
私は久しぶりにリヒター家でお茶会を開き、エマとリンネを招待していた。
庭園には柔らかな陽射しが降り注ぎ、色とりどりの花が咲いている。こんな穏やかな午後を過ごすのは、いつ以来だろう。
「それにしても、本当に残念だったわ」
エマが紅茶を口にしながらため息を吐く。
「ええ。ヴァルク様、とても素敵な方だったもの」
リンネも頷いた。二人とも、婚約解消そのものについては今でも惜しく思っているらしい。
私は苦笑した。
「そうね」
否定はできなかった。ダミアンは、いつだって私を大切にしようとしてくれていた。その方向性が、噛み合わなかっただけで。
だからこそ、あれほど苦しかったのだ。
「でも」
不意にエマが言う。
「今のアンネの方が好きよ」
私は目を瞬いた。
「え?」
「だって最近、よく笑うもの」
リンネも嬉しそうに頷く。
「そうそう。婚約していた頃のアンネ、いつも少し疲れて見えたの」
思わず言葉を失った。そんなこと、一度も言われたことがなかった。
「今は昔みたいに楽しそう」
「流行りのドレスの話をしても反応がいいし」
「この前なんて学園の先生と学問の話で盛り上がっていたじゃない」
二人が笑う。
つられて私も笑った。
その瞬間、ふと気付く。
無理に作った笑顔ではなかった。
胸の奥から自然に零れた笑みだった。
「……そうかもしれないわね」
紅茶の向こうで、花々が風に揺れている。
婚約していた頃なら、その美しさにも気付かなかったかもしれない。
私は静かに息を吸った。
花の香りがする。
空は青い。
友人たちの笑い声が心地いい。
ただ、それだけのことが嬉しかった。
最後までお読み頂きありがとうございました!
ダミアンは最後まで、本気でアンネを幸せにしたいと思っていました。
ただ、彼にとっての「大切にする」は、管理や支配と隣り合わせだったのかもしれません。
ダミアンについては人によって受け取り方がかなり変わるのではと思っています。
もしよろしければ、皆さまがダミアンに何を感じたのか感想で教えていただけると嬉しいです。




