繪の魔
〈紅葉の中に蛾のゐる風景よ 涙次〉
【ⅰ】
此井です。昨夜の話を。
夢にある女性が出て來た。震へ、目にはうつすらと涙を浮かべてゐる。これは... 誰だらうと思つたら、* web画家のN✳✳✳さんだつた。彼女のやうな大人の、然も藝術家の女性が泣く夢を見るとは、思ひ出す劃り、私には初の體驗である事で、胡乱な事だ。胸騒ぎがした。カンテラに連絡を取るにも、彼はスマホを持つてゐない。えい畜生め、と寢間着の儘、クルマ(トヨタ・コロナ2000GT改)を駆り、カンテラ一燈齋事務所迄やつて來た。
* 当該シリーズ第11・44話參照。
【ⅱ】
カンテラは起きてゐた。彼は、* 彼の外殻に籠る前の時間を持て余してゐた。
「カンさん、俺に『シュー・シャイン』を貸してくれないか」私には、魔界を隈々まで探る方法は、他に思ひ付かなかつたのだ。
「魔界に用かい?」と、カンテラ、不審さうなので、斯く斯く然々、過ぎて行く時間の重みを感じながら、彼に用件を説明、カンテラの承諾を得た。カンテラは、夜は眠らない「シュー・シャイン」を呼び、彼を直ぐ様魔界へと派遣してくれた。
* 当該シリーズ第129話參照。
【ⅲ】
「シュー・シャイン」は1時間もせず帰つて來た。とは云へ、私は少し苛ついてゐたと思ふ。
彼が云ふに、N✳✳✳さんは確かに魔界にゐる、との事。これは彼女、明らかに、【魔】に誘拐された、と云ふしかない。私には理由が分かつた。彼女の繪である。
※※※※
〈窓開けりや落葉の如く蛾の落ちる嗚呼冬に向け秋の曲折 平手みき〉
【ⅳ】
彼女の作品が余りに神秘的なので、其処から新たに強力な【魔】を抽き出さうと、魔界の誰かゞ發案したのだ。然し理由はだうでも良い。理由がだうであらうと、彼女が【魔】に拐かされた事に變はりはない。
私は「シュー・シャイン」に云つた。「ご足勞だが、俺を彼女のゐるところ迄連れて行つて慾しい」。着替へは一式、事務所に置いてあつた。靴下がないのは已むを得ない。私は裸足に靴を履いた。そして私逹は手近な「思念上」のトンネルへ行き、其処から魔界へと下つた。
【ⅴ】
N✳✳✳さんは、慣れぬ油彩の繪筆とパレットを持たされ、カンヴァスの前で、困惑してゐた。彼女が何時もはPCに直接、ツールで繪を描き込んでゐる事を【魔】は理解してゐなかつたのだ。私は彼女に「さあ、私が來たからには大丈夫」と云ひ、彼女の肩を抱いた。
【ⅵ】
ところが私は思ひ違ひをしてゐた。彼女を魔界に連れて來た【魔】の存在が、私の眼中になかつた事である。
「此井先生よ、俺らの邪魔はしないくれ」-わらわらと【魔】が何処からか湧いて來る。カンテラ拔きで奴らを下すのは、ちと骨が折れた。「此井殺法・ドミノ倒し!!」私は「古式拳法」の中から、最も合氣道に影響を受けてゐる技を繰り出した。【魔】の連中は數珠繋ぎになつた儘、奴ら自身の「氣」を返されて総倒れになつた...
【ⅶ】
致命傷を負はせる事は出來なかつたものゝ、だうにか追手を防ぐ事は出來た。私とN✳✳✳さん、そして「シュー・シャイン」は人間界に戻つて來た- 後ろで【魔】逹が地團駄踏んでゐるのは、明らかだつた。
【ⅷ】
N✳✳✳さんに事情を問ふのは、已めにした。怖い經驗を繰り返し體驗させたくなかつたのである。増してや彼女の画業に影響を及ぼすとあつては、この此井功二郎、不覺と云ふしかない。
だが、彼女の繪はそれ以降、より神秘の帷が張り巡らせられてゐる。魔界での出來事は、結局彼女にとつてプラスに轉じたのである。藝術家を舐めたらいけないな、私は(自分も藝術を愛する者の端くれとして)、さう思つた。
※※※※
〈髪の毛の顔に貼りつく秋の汗 涙次〉
【ⅸ】
彼女には惡いが、仕事の料金の出どころは、彼女しかない。きつい財政の中、申し譯なく思つた。
と云ふ譯で、今回は終はるが、因みにこのN✳✳✳さんと、現實の彼女との関はりはない、と申して置かう。ぢや、また。




