社長×秘書
目の前にある「社長室」と書かれたドアを三回ノックする。
「神谷です。入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
返事が聞こえたので、失礼しますと言いながらドアを開ける。
彼が座っているデスクの元まで行き、先ほどコピーしたばかりの書類を渡した。
「確認をお願いします」
「わかった、ありがとう」
渡した書類をすぐに確認すると、小さなため息が聞こえた。
その書類は、私も確認をしたから彼が何を見てため息を吐いたのかは知っている。
「何か温かいものでもお入れしましょうか?」
「ああ、頼む」
彼は大手会社の代表取締役、いわゆる社長だ。
年齢も若いため、世の中から注目されやすい。さっき私が渡した書類も、とある雑誌からの取材依頼について書かれた書類だ。あまり人前に出たがらない彼からすれば取材なんて断りたいだろうが、新事業について取材をしたい、という依頼であれば断るのも難しいだろう。新事業の宣伝にもなる取材を断れないからこそ、眉間に皺を寄せてため息をこぼしたのだろう。
もう夜なので、眠るのに影響がないお茶を入れてから部屋に戻ると、いまだに書類と睨めっこをしていた。
「熱いので気をつけてください」
「ありがとう」
マグカップを受け取ると、彼はすぐに口をつけた。
無意識の行為だったのだろうが、一口飲んだところですぐにカップから口を離した。思っていたより熱かったのだろう、猫舌のくせにすぐに飲むのが悪い。まぁ、ぼーっとしてしまうほど疲れも溜まっているのだろう。
「神谷、先に上がっていいぞ」
「いえ、その書類の返事を聞いてからでないと上がれません」
「……わかった」
「それが終わったら四宮社長も帰れますよね。待ってますから」
書類の返事が早く欲しいのは本当だが、今日こそは彼を早く帰さないとまずいだろう。
私も秘書の立場だからなかなかに忙しいけれど、彼の方がもっと忙しい。家に帰ってくるのは遅いし、朝も私より早く出ていっている。最近ではご飯すら一緒に食べられていない。
公私混同、ではない。一社員として彼の働きぶりが心配なのだ。
少し考えるそぶりをしたあと、小さな声で「受けると伝えておいてくれ……日程は神谷に任せるから」と言われた。
かしこまりました、と返事をし、秘書室に戻ってメールを作成する。カタカタと文字を打ち込み、この内容で送っても良いかを確認してもらってから送信の日時を設定した。明日の朝には送信が完了しているはずだ。
ぐっと体を伸ばし、何かやり残したことはないかを確認してからパソコンの電源を落とした。
「ほら! 帰りますよ!」
「わかった」
さっさと帰り支度をし、社長室のドアを開けた。もう私の業務は終了しているから、ノックなんてしない。
早く支度をするように目線で圧をかけると、少し呆れたように笑いながら鞄を持った。ビルの施錠は管理人や警備員がやってくれるので、社長室と秘書室の戸締りだけをしてからエレベーターへと向かった。
エレベーターのボタンを押し、到着するまで待つ。特に会話をしないままエレベーターに乗り込み、ロビーで降りれば警備員がいたので会釈をしてから会社のビルを出た。
夜風が吹いていて少しだけ涼しい。
「……帰るか」
「うん、帰ろ」
二人で駐車場まで向かう。
ビルを出たら、もうプライベートだ。社長と秘書ではなく、ただの人になる。
もう夜も遅いから、オフィスが並ぶこの辺りに人はほとんどいない。それを確認してから彼のスーツの裾を引っ張った。
「優斗、いい?」
意図が伝わったのか、彼の腕が静かに差し出された。遠慮なくその腕に自分の腕を巻き付けると、優斗が小さく笑った。
「仕事が終わると紗希は本当に別人だよな」
「当たり前でしょ。公私混同は絶対にしない」
私と優斗は付き合っている。
それは誰も知らないし、言うつもりもない。
社員にバレれば秘書としての体裁は無くなってしまう。仕事は好きだし、辞めたいとも思わない。それに、仕事中の優斗とは恋人というより仲間という意識が強い。
こうやって仕事とプライベートを分けているからこそ、それぞれに集中することができる。結局は、仕事で成果を出して公私混同をしなければいい。
「それよりお腹すいただろ。どこかで食べる?」
「あー……でも、今日金曜日だよ。この時間ならどこも混んでるんじゃないかな」
「なら、出前の配達でも頼むか。たまにならいいだろ」
「やった! そしたら届くまでの間にお風呂入ろ。明日は奇跡的に休みだし、のんびりしようね」
気分が一気に上がる。外で食べることも好きだけど、家でゆっくりと好きな格好で好きなように食べるのも好き。
しかも今日は金曜日だ。明日が休みだからこそ、家でゆっくりと食べられるのは嬉しい。
「嬉しそうだな」
「だって、家でのんびりとできるのっていいじゃん」
それに、この堅苦しいスーツを一刻も早く脱ぎたい。
仕事が終わるまでは気合いを入れる武装、という気持ちだけれど仕事が終わればスーツは少し堅苦しい。化粧だって早く落とせるのなら落としたい。
「そうだな。早く帰ろう」
駐車場に着き、車に乗り込む。
シートベルトを締めたことを確認すると、車はゆるやかに発車した。仕事の時は私が社用車を運転することも多いけど、帰り道は優斗の車で、優斗の運転で帰る。窓を見れば、いろんな人たちが楽しそうにしている。やはり金曜日だからどこのお店も賑わっている。
そんな光景を見ていくうちに私たちが住むマンションに到着した。駐車場に停め、車から降りる。そのままエレベーターホールまで行き、専用のボタンを押した。
一緒に暮らし始めてから数ヶ月経ってようやく慣れたけど、最初はどのエレベーターに乗ればいいのかわからなかったし、鍵の開け方も戸惑うばかりだった。
同棲をしようと言い出したのは優斗で、家に帰ってからも一緒にいたいと言われた。ちょうど自分が住んでいたマンションの更新時期だったこともあり、私も優斗と一緒に暮らしたいと思っていたので二つ返事でOKした。何より、あんな顔で寂しそうに言われてしまえば断れるわけがない。
周りから見れば完璧な社長だろうけど、実際は違う。責任感はあるし、仕事も完璧だがプレッシャーには弱い。社長として前に出なければならないとき、彼はいつも顔面蒼白で手は冷え切っている。緊張で今にでも倒れてしまうのではないかと思うほど青白い顔をしながら覚悟を決め、前に出る頃には完璧な社長になりきっている。
社員を思う気持ちや仕事に対する熱意は誰よりも強く、信頼もされている。でも、実際はとても弱い。そんな彼を、仕事仲間としても恋人としても支えられていたらいいなと思う。
「ただいまー」
「ただいま」
玄関に入れば電気が自動でついた。
廊下やリビングなどは自分たちで電気をつけて、荷物を置いたら手を洗うために洗面所へと向かった。
手を洗い終わったタイミングでお風呂をわかすためのスイッチを押し、お湯を溜め始める。シャワーだけより湯船でしっかりと体を温めたほうが健康にいいし、何より疲れの取れ方が違う気がする。
「何を頼むか決めるか」
「はーい」
二人でソファに並んで座る。
優斗のスマホから注文をするので画面を見るためにも覗き込む。ズラリと店名とメニューが並んでおり、つい目移りしてしまう。イタリアンもいいけど、海鮮丼も捨てがたい。いや、ガッツリとお肉系もいいな……。
どれにするか悩んでいると、隣にいる優斗が笑った。
「なに?」
「いや、表情がよく変わるなと思って」
「……私じゃなくて、メニュー見てよ」
「ごめんごめん」
悪びれもなくサラッと言うから、少し照れてしまった。
よく友人たちに「社長が彼氏だと、大変じゃない?」とか「浮気の心配とかしないの?」と聞かれる。私も不安に思う時期はあったが、仕事中は一緒にいることが多いし、一緒に暮らし始める前は連絡もマメにくれていたし、お泊まりすることも多かった。何より、優斗の溺愛っぷりは異常の類だと思う。時間を見つければすぐに連絡をくれるし、出先で良さそうと思ったから、と言いながら頻繁にプレゼントも贈ってくれた。流石にそれはやめさせたけど。
他にも、一緒に出かけた先では私に財布を出させてくれないし、洋服を買うときに「どっちがいいかな」と聞けば「紗希にはどっちも似合うよ。俺がどっちも買ってあげる」なんて言いながらレジに行くから優斗との買い物は避けるようにしている。
他にも、家で過ごせば私にべったりだし、頻繁に好きとも言ってくれる。
こんなに愛されるなんて告白された時は思ってもいなかったし、予想もしていなかった。いや、嬉しいけれどなんでここまで? と思う時もある。でも、彼から愛されるのが嫌ではない時点で同じとまでいかなくても、私も優斗のことを愛しているんだろうな、って思う。
ようやく決まったメニューを注文した頃にはお風呂も沸いたので、順番で入ることにした。
「一緒に入る?」
「やだ!」
「ダメか」
残念、とちょっとわざとらしく言いながらお風呂場に向かっていった背中を見届ける。
優斗がお風呂に入っている間に荷物の整理をし、スーツをハンガーにかける。クリーニングに出したいと言っていたから、明日あたりにでも出しに行けばいいだろう。
できる家事を済ませておこう、と思いながら動いていると優斗がお風呂から上がってきた。どこかぼんやりとしている姿に違和感を覚える。
「……俺さ、本当に大丈夫かな」
「え、急にどうしたの?」
どうしたの、なんて言ってみるけど理由はなんとなくわかっている。
おそらく、お風呂に入っている間に不安があれこれ浮かんでしまったのだろう。疲れているし、明日が休みだから気が抜けてしまったのかもしれない。
「新しい事業が不安?」
「うん……俺の決定で全てが決まるって考えただけで怖いし、成功するかなんて誰にもわからないのにこんなに期待されているから失敗したらって考えると怖い」
この姿を社員たちがみたらどうなるのだろうか。私しか見られない彼の姿にどうしようもないくらいの加護欲が湧いてくる。
実際、新事業についての期待は大きくされている。そのおかげで取材の依頼も来ていて、それが宣伝にもなるから良いが、大きな期待が優斗にとっては重いのだろう。
「簡単に大丈夫って言いたくないし、成功するかどうかは誰にもわからないけど、これだけ注目されるのは成功するってたくさんの人が思っているからっていうのもあると思うよ。結果が出るのはまだ先だから不安はあると思うけど、今まで通り優斗らしく動けばきっといい方向に動くよ」
なんの慰めにもならないかもしれないけど、軽く抱きしめると優斗の腕が背中にゆっくりと回ってきた。
私の言葉がどこまで響くかはわからないけど、私には私にできることをするだけ。これが少しでも彼の支えになっていたらいいなと思う。
「……ありがとう」
「ううん。じゃあ私もお風呂に入ってくるね」
顔を見ると、さっきよりも強張りがなくなっていた。それに安心し、自分もお風呂に入ることにした。
お風呂から出る頃には注文した食べ物が到着するだろう。こういう時はたくさん食べて、何も考えずに寝るのが一番いい。
明日は休みだから、優斗の大好物でも作って英気を養ってもらおう。
そしたら二人で、おいしいねって言い合いたいな。