3-8
ある日、本を開く気にもなれず、カイルはベッドに仰向けになって、天井をぼんやりと見つめていた。
この空間の天井は、まるで水面のように、淡く、静かに揺れていた。
たゆたう光のさざめきを目で追いながら、彼の思考は、いつしか遠い記憶へと沈んでいく。
――永遠を生きる、不死の少女。
その存在を初めて知ったのは、かつて蛇の法衣に記された記録の中だった。
死の神に祝福され、死すらも拒む肉体を持ち、あらゆる理を踏み越える者。
禁じられた術にも干渉し、理論では説明のつかない存在。
人が畏れ、遠ざけようとする異端の象徴――それが、書の中で語られていた“彼女”だった。
だが、実際に目の前に現れたその少女は、記録のどれにも当てはまらなかった。
凍てつくような魔力に包まれながら、なおも内側に深く沈む静謐さ。
静かに微笑み、黙して語らぬまなざしの奥に、息が詰まるほどの悲しみと諦念を湛えていた。
それは魔でも神でもなく――傷ついた、ひとりの人間の瞳だった。
その瞬間、カイルの胸に走ったのは恐れではなかった。
名状しがたい焦がれにも似た感情。
その存在を知ってしまったことへの畏敬と、二度と忘れられぬ痛み。
気づけば、心は彼女の影に囚われていた。
次に彼女と出会ったのは、逃げるように走るその姿だった。
黒き観測者の影が迫る中で、なお彼女は、気高く、美しかった。
風に揺れる淡い紫の髪。荒く刻まれる足音。
追い詰められているはずなのに――その瞳には、一片の濁りもなかった。
どうしてだろう。
命の危機にあるというのに、カイルの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
その笑みに気づいたのか、彼女の視線がわずかに揺れた――
ほんの一瞬。その些細な隙が、致命的な運命を呼び込んだ。
穢れた手が、黒い刃となって伸びる。
それが彼女の背へと迫った瞬間、
カイルの体は、思考よりも先に動いていた。
無意識のまま手を伸ばし、魔力を断ち切る魔道具を発動する。
彼女の内に流れる魔力を、瞬間的に“ゼロ”へと還す。
それは、命の火をわずかに静める行為――
そして、その瞬間だった。
空間が、音もなく、裂けた。
そこに現れたのは、禍々しいまでに美しい異界の産声。
死神の揺り籠。
まるで泡のように膨らむ、硬質で透明な殻が、
柔らかく、けれど決定的に、少女の身を包み込む。
その光景を、カイルはただ、呆然と見つめていた。
触れられぬ神秘が、目の前で確かに形を持って現れたのだ。
書物に記された通り――いや、それ以上だった。
それは、拒絶の結界。侵すな。触れるな。
空間そのものが、無言の絶叫を放っていた。
その中心で、彼女は目を閉じていた。
穏やかに、まるで深い眠りに落ちたように――
いや、それは、死にも似た沈黙だった。
追手たちは声を上げる間もなく、
その異様な魔力を恐れ、散り散りに去っていった。
やがて、“揺り籠”に淡いひびが入り、
それは静かに、ひとひらの花弁が散るように砕けた。
中から現れた少女の体が、そっと地面に横たわる。
まるで、何事もなかったかのように。
だがカイルにはわかっていた。
“死神の揺り籠”は、彼女の魔力が尽きたときのみ発現する――
そして、周囲の安全が確保されるまで、決して解かれることはないということを。
彼女は、ここに残った。
彼の前に、姿を現したままで。
その事実に、カイルの胸はわずかに熱を帯びた。
自分は、彼女にとって危険ではなかったのだ。
拒絶されなかった。ただ、それだけのことが――
どうしようもないほど、嬉しかった。
まるで選ばれたかのように思えた。
彼女の沈黙が、それを肯定しているようにさえ感じた。
あの冷たい魔力の海の奥に、
ほんのわずかな、温度が宿った気がして――
カイルは、言いようのない悦びに、しばし身を委ねていた。
だが。
その後に彼は、蛇の法衣にベルの髪を渡した。
助けた礼として差し出された、ベルの髪の一房。
それを、報告と共に自らの立場を守るために、差し出したのだ。
髪を渡したことで、カイルは処罰を免れ、褒美さえ与えられた。
禁書への接触、本部の塔への出入り――様々な許可が与えられた。
その瞬間、彼は理解した。
――守られたのは、自分だったのだ。
彼女が言っていた通りに。