3-6
ルーヴェリスがベルの“修復”を続ける日々――
死神の部屋に、異質な気配が静かに滲み落ちた。
空間の織り目がゆっくりと裂け、淡い金の輝きが流れ込む。
花も風も存在せず、ただ沈黙だけが支配するその場所に、羽を持つ使者が姿を現す。
「……お久しぶりです、ルーヴェリス様」
白銀の衣をまとい、背に光の羽を浮かべた存在――
秩序と輪廻、生と死の均衡を司る女神に仕える使者、シエル=グラディア。
琥珀の瞳に宿る感情は薄く、その声は澄みきり、落ち着いていた。
ルーヴェリスは、眠るベルの傍らに静かに座し、魂に絡んだ呪いの糸を解き続けていた。
その手はシエルの出現にも揺らがず、視線さえ向けない。
ルーヴェリス「訪問者とは……珍しいな」
応じた声は低く、深く――夜そのもののように静まり返っていた。
関心も、驚きも、そこにはない。ただ、ベルを修復する手だけが確かに動いていた。
シエル「イストリィア様は、警告を発しておられます」
シエルは無駄のない所作で姿勢を正し、淡々と続ける。
シエル「あなた様の御意志に異を唱える意図はありません。
ただ、現在の状況が継続することに対し、女神は一定の懸念を抱いておられます」
ルーヴェリス「私がベル……この少女と過ごすことが、気に入らないのか」
ルーヴェリスの声は感情の揺らぎを含まず、深く、冷ややかに響いた。
その瞳はベルの顔から逸れることなく、まるで他の存在に意味を見出していないかのようだった。
シエル「いいえ。そのような意味ではありません」
シエルは即座に応じる。
シエル「あなた方がこの場で共に在ることは、永劫の罰における一時の赦し――
しかし、“彼”がこの空間に在ること、それがもたらす余波は、秩序と均衡にわずかな揺らぎを生む可能性があります。
女神は、それを看過すべきでないと判断されました。
よって、事前にご意向を確認するよう命じられております」
彼とはカイルのことだろう。
それでも、ルーヴェリスの手は止まらなかった。
静寂の中、彼はただ、ベルの魂に絡む呪いの糸を淡々と解き続けていた。
ルーヴェリス「ベルは……この子はまだ元の世界に戻れる状態ではない。そのために、“彼”にはここにいてもらっているだけだ」
シエル「はい。それは理解しています。
ベル様が辿ってきた歩み、そしてあなた様のご判断も」
短い沈黙が落ちる。
シエルの声は変わらず穏やかで、しかしその内には、淡々とした警鐘の響きがあった。
シエル「私たちも、強制的にお二人を引き離す意図はありません。
けれど、このままの状態が続けば……いずれ、他の神々が動く可能性があります。
その時、彼女が再び“秩序を乱す存在”と認識されれば、事態はあなた様のお望みとは異なる形で動くことになるかもしれません」
シエルはそこで言葉を切り、改めて静かに頭を下げた。
シエル「どうか、ご理解を。これは、あくまで前もっての確認に過ぎません」
ルーヴェリス「……あの男の時間は、こちらでは止まっているようなものだ」
ルーヴェリスがふと呟くように言った。
ルーヴェリス「この空間は、あらゆる時間の流れから切り離されている。
彼にとっては数日でも、我々にとっては――そうだな、百年でも千年でも同じだ」
シエル「だからと言って、輪廻の輪の外に人の子を捕らえてよい理由にはなりません」
シエルの声はどこまでも穏やかだったが、揺るぎなかった。
その姿はまさに秩序の神の使者であり、イストリィアの“均衡”を体現しているかのようだった。
シエル「彼は、あなた様の祝福を受けた“愛し子”などではなく、ただの人間です」
ルーヴェリスは答えず、ベルの魂からほどいた糸を指先でじっと見つめると、それを燃やすように消していった。
火はない。ただ、形だけが静かに消えていく。
その瞬間、二人の間に深い静寂が降りた。
やがて、ルーヴェリスはゆっくりとシエルへ視線を向けた。
ルーヴェリス「……イストリィアには、“愛し子”がいるのか?」
その問いに、シエルの琥珀色の瞳がわずかに揺れた。
だがすぐに、また元の静かな色に戻る。
シエル「……おそらく、いたとしても――今はもう存在していないのでしょう。
イストリィア様は、すべてを記録し、秩序の中へ流すだけの存在です。
特別な感情を抱くことは、矛盾を生むから」
ルーヴェリス「つまり、それは“持てなかった”ということか」
シエル「……そう解釈されても、否定はしません」
ルーヴェリスはふっと微笑んだように見えた。
しかしそれは冷笑でも優しさでもなく、虚無の闇に差し込むかすかな月明かりのようなものだった。
ルーヴェリス「私は――この子を失いたくない。
それが秩序を乱すというのなら、ずっとこの“外れ”に居ればいい」
シエル「……それでは、あなた様もまた孤独を深めるだけでは」
ルーヴェリス「それでも構わない。彼女が笑ってくれるなら……それでいい」
シエルは一瞬言葉を呑み込み、代わりに一歩だけルーヴェリスに近づき、眠るベルの顔をそっと見下ろした。
シエル「……そこまで人を愛せるとは。
あなた様が神であることを、忘れてしまいそうです。
神とは、もっと冷たく、遠いものだと思っていましたのに」
シエルはしばしその場に佇んだ後、静かに背を向けた。
淡い光を纏った羽がひらりと揺れ、空間の裂け目に向かってゆっくりと歩み去っていく。
その姿が完全に消えるまで、部屋には静寂が満ちていた。