3-4
未だベルを縛る呪いの残滓の合間に、ほのかな光が走る。
呪いの糸から解き放たれたその隙間に、ルーヴェリスの爪がそっと触れると、音もなく魔力回路が修復されていった。
それは、精神をすり減らすほどに繊細で、しかし確かな手業。
まるで崩れかけた刺繍を一針ずつ縫い直すような、果てしなく気の遠くなる作業だった。
侵蝕されていた魔力の通路が、わずかずつ再構築されていく。
圧迫され、閉ざされていた精神は、時折微かに震えながら、ゆっくりと、静かにほどけてゆく。
ルーヴェリスは、少女の魂の最奥へと手を伸ばす。
そこは、あまりにも静謐で――そして深く、長い歳月をかけて沈殿した、痛みと哀しみに満ちていた。
彼の思念が、そっとベルの内側に寄り添う。
その冷たい指先が触れた先から、氷のように凍てついた絶望が、じわりと解けてゆく。
そこに、ほんのわずかだが、確かな温もりが戻りはじめる。
――そして、その瞬間は、あまりにも唐突に訪れた。
ベル「……ん……」
固く閉じられていた瞳が、微かに震え、そっと開かれる。ベルが、目を覚ました。
薄く開いた唇から息が漏れ、淡い光に包まれた静寂の空間を見渡す。
その視線の先にいたのは、静かに膝を折り、彼女の魂に寄り添っていた存在――
ベル「……ルーヴェリス……」
その名を、かすれた声で呼ぶ。
目覚めたベルの瞳には、確かな光が宿っていた。恐れも、苦しみも、迷いもない。
その瞬間の彼女は、まるで――純粋無垢な、ただの少女だった。
ベル「また会えたね……会いたかった」
微かに笑みを浮かべながら、そう告げる。
それは、幾千の時を生き、あらゆる感情を飲み込み、諦めることを覚えていた“ベル”には似つかぬ表情だった。
いつものように醒めた瞳で遠くを見つめるのではなく、今はただ、目の前の存在をまっすぐに見つめている。
声も、仕草も、どこか幼く、柔らかい。
まるで、長い間さまよい続けた迷子の少女が、ようやく大切な人に巡り逢えたかのようだった。
だが――その次の瞬間、ベルの表情が翳った。
潤んだ瞳が揺れ、震える睫毛の下で、唇がかすかに開いては閉じる。
ベル「……ルーヴェリス……私……、あの人に……」
言葉の先が、どうしても続かない。
脳裏に蘇るのは、セラフによって刻まれた、狂気に満ちた“愛”の記憶。
穢された肌。押し付けられた執着。壊れた、ねじれた言葉。
それらすべてが、少女の心を蝕み続けた呪いのようだった。
優しく笑いながら触れてくるセラフの唇。無理やり額や頬へと這い寄り、
独占欲に飲まれ、彼女を壊す。
そして、不死の肉体が癒えるたび、懺悔の言葉を繰り返す。
それは――愛と呼ぶには、あまりに歪んだものだった。
ベル「――もう、やだ……あんなの、……っ」
ベルの声はかすれ、喉の奥から嗚咽が漏れる。
今にも崩れ落ちそうな身体で、彼女はルーヴェリスに縋りついた。
ベル「怖かったの……お願い……ルーヴェリス、傍にいて……ずっと、ここにいさせて……っ」
泣きながら、縋るようにしがみつく。
その手はあまりにも小さく、そして震えていた。
まるで――壊れてしまった人形のように。
ルーヴェリスは、何も言わず、そっとその額に唇を寄せた。
その口づけは欲でも衝動でもない――ただ、限りない慈愛と赦しに満ちていた。
ルーヴェリス「……もう、苦しまなくていい、眠りなさい」
彼の声は、まるで深い泉のように、ベルの心の奥底にまで染み渡っていく。
静かに、確かに、彼女を包み込む。
ベルの瞼がゆっくりと閉じられ、やがて再び深い眠りの底へと落ちていった。
その頬にはまだ涙の跡が残りながらも、微かに安堵の影が浮かんでいた。
――静かな闇が、再び彼女をやさしく包み込む。
ルーヴェリスはその姿を見下ろし、静かに目を伏せた。
ルーヴェリス「……私は、お前の痛みを憶えている。忘れることなど、決してない」
その声には、深い哀しみと静かな誓いが滲んでいた。
彼が落とした口づけは、決して過去を癒すものではない。
魂に刻まれ、消すことさえできぬ記憶――
だからこそ彼は、それを思い出させぬよう、封印することを選んだ。
せめて、この眠りの中では、何も思い出さずにいられるようにと。
癒えぬ記憶。消すことのできない傷。
それでも、彼の瞳には、確かに一人の少女と結んだ絆の記憶が宿っていた。
それは、神である前に、“ひとりの存在”として、彼が心に抱いた祈りの証だった。