3-3
場所は封印の間――永劫の静寂が支配し、時の流れすら忘れられた空間。
そこにただ一つ、確かに存在するものがあった。
ルーヴェリスは、彼女をその腕に抱いていた。
その体は氷のように冷たく、けれど呼吸は微かに続いている。
彼女――ベルは、深い眠りの底に沈んでいた。
死神の揺り籠が、彼女をこの場所へと運び込むのは初めてではない。
永遠の時の流れの中で、幾度となく繰り返されてきたことだった。
魔力を失い、疲弊しきった魂をその殻に包み、すべての干渉から守るために。
魔力を枯渇させるほどの危機――それはたいてい、戦火のさなかに訪れた。
彼女の放つ大魔法は、時に大地を塗り替え、魔物はもとより、神聖な結界すらも焼き尽くす。
だが時に彼女は、自らの意思とは無関係に力を奪われることもあった。
“蛇の法衣”――そう呼ばれる者たちによる、実験と呼ぶにはあまりに非情な搾取。
彼女の魔力と、永遠の命を手に入れようとする者たちの渇望が、無慈悲にそれを強いた。
皮肉なことに前回、彼女をこの場所に運び救ったのは―― その非道な研究から生まれた魔導具、そしてそれを扱い、知識を持ち合わせていた、蛇の法衣の“密偵”カイルだった。
ルーヴェリスは静かに俯き、腕の中のベルを見つめていた。
永遠の時を生きるがゆえに、彼女は幾度となくその身を引き裂かれ、心を削られてきた。
痛みも、絶望も、ひとときの癒しすら――すべてが繰り返される、果てのない円環。
ルーヴェリス「……幾千の季節が巡っても、彼女の痛みは消えぬままだ」
その声は静かで、どこまでも深く沈んでいた。
それは祈りにも似た響きであり、罪を背負う者の慟哭にも似ていた。
ベルの周囲に、幾重にも重なる魔法陣が幽玄に浮かび上がる。
深紅はまるで凝縮された血の滴のように鮮烈で、漆黒は静寂そのものを映し出す闇のヴェール。
魔力の奔流は柔らかな霧となって彼女の身体を包み込み、傷ついた精魂をそっと撫で、癒しの光を灯し始めた。
ルーヴェリスは静かに手を伸ばし、その頬に触れる。
肌には温もりはない。
だがそれこそが、彼女であるという揺るぎない証だった。
ルーヴェリス「また……戻ってきたのだな、ベル」
呟いた声に、応答はない。だが、その静寂こそが、何よりも深い“再会”の合図であった。
彼は腕の中のベルを見下ろす。
その眠る顔は、穏やかで、安らぎに満ちている――だが彼は知っている。
この静かな眠りの裏側に、どれほど深い疲弊と痛みが隠されているのかを。
ルーヴェリス「……また、こんなにも傷ついて」
囁く声は封印の間の虚空に吸い込まれ、波紋ひとつ立てることはなかった。
ゆっくりと手をかざし、魔力の流れに意識を沈める。
ベルの魔力回路の奥底、根源の深淵に触れたその瞬間、彼はようやく求めていたものを見つけた。
埋め込まれたままの、自身の爪。
かつて彼女を強引に「此処」へ連れ戻すため、深く干渉した証だった。
彼女の魔力回路に、痛みと共に無理やり繋ぎ留めた、自らの一部。
ルーヴェリス「……すまなかった」
囁くようにそう呟き、ルーヴェリスは爪をそっと引き抜いた。
掌の上で淡く光を弾ませたそれは、やがて静かに彼の体へと戻っていく。
あの時、彼女の声は確かに震えていた。
叫びにも似た悲鳴――魔力の根源を弄られる痛みは、魂そのものを裂くに等しい。
それを躊躇なく行った自分。
そして――彼女の回路に異なる魔力をねじ込んだ“あの男”。
ルーヴェリスの瞳に、微かに怒りが灯る。
ルーヴェリス「貴様の魔など……この子の魂に触れてよいものではない」
彼の指がベルの額に触れた瞬間、波のように過去の記憶が流れ込んできた。
何が起きたのか。どれほどの痛みだったのか――
彼はそれを知るため、敢えてその記憶を受け入れたのだった。
ルーヴェリスが読み取った記憶の舞台は、廃れ果てた古びた教会。
風に軋む扉の音すら遠ざかり、時が止まったかのようなその空間で、ベルはセラフと対峙していた。
男は静かに言葉を紡ぎながら、蜘蛛が巣を編むかのように、詩の一節ごとに結界を張り巡らせていく。
魔力と歪んだ意図を混ぜた言の葉が、空間そのものをじわりと染め変えてゆく。
舞うようなその所作は、優雅で儚い。だが確かな殺意と拘束の意志が宿り、神官の祈りを思わせた。
――かつてルーヴェリスを神と崇めた者たちが捧げた、狂気の儀式のように。
だが、それは祈りなどでは決してなかった。
ひとつ残らず、ベルを捕らえ、魂を縛るための、冷酷な罠であったのだ。
詩は呪いと化し、舞は鎖となり、結界は重厚な檻へと変わった。
セラフの魔力はゆっくりと、確実に、まるで遅効性の毒のようにベルの内側から侵食し、深く染み渡っていく。
それは外側からの攻撃ではない。
彼女の魔力の流れを内側から犯し、意識の最も深い奥底へと、ひそやかにその存在を滲ませた。
そして、ベルの自由を静かに奪い去った。
だが、それだけでは終わらない。
彼はなおも糸を紡ぎ続けた。今度は、魂へと――。
呪いの結び目が幾重にも絡まり、見えざる枷が、ベルの本質を重く縛り上げていくのだった。
その様子を見つめるルーヴェリスは、静かに瞳を細めた。
セラフという男の執着と狂気――その強烈な渦に、一瞬だけ心を奪われる。
これまでにもベルを捕らえようとする者はいた。
だがそれらは、国の命令であり、組織の指示であり、ベルの力を利用するための計算された行動だった。
しかし、セラフだけは違った。
彼が成し遂げたのは、ただ一途なベルへの愛執のみ。
ルーヴェリスはそんな男に、ほんのわずかな興味を抱いた。
だがすぐに、その視線を目の前の少女――傷つき、魂まで縛られたベルへと戻すと、
その興味はやがて、静かな怒りと深い哀しみへと変わっていった。
ルーヴェリスは静かに膝を折り、深く長い眠りに沈むベルの左手をそっと持ち上げた。
冷たく繊細な指先に触れながら、彼の鋭い瞳は薬指に絡みついた呪いの指輪を厳しく見据える。
ルーヴェリス「愚かな男だ。君は彼女を愛したのではない。
ただ、自らの欲望に彼女を閉じ込めただけに過ぎない」
指輪を伝う呪いの糸は、ベルの精神を蝕むだけでなく、魂の奥深くにまで侵入し、複雑に絡みついている。
その呪縛のせいで指輪はびくともしない。
むしろ、彼女の魔力回路に刻まれた傷さえ、糸が邪魔をして修復の手立てすら許さないのだ。
ルーヴェリスの表情には、冷徹な怒りと哀惜が交錯していた。
ただの守護者である以上に、長き時を見守ってきた者の、深い痛みと覚悟がそこに宿っている。
ルーヴェリスの眼差しが、淡く不穏な光を帯びた。
美しいラベンダーの髪を撫でる指先に、鋭くひそむ魔の気配がわずかに揺れる。
彼の怒りが最も激しく燃え上がるのは――
セラフがベルの体を抱くたびに、気まぐれに呪いの糸を増やしていったことだった。
悦楽に紛れて増殖するその呪いは、快楽の仮面を被った重い軛となり、
ベルの自由を、知らぬ間に一層深く締めつけていったのだ。
ルーヴェリス「“永縁の糸”か……皮肉な名だな。
永遠に、彼女だけを閉じ込めておきたかったのだろう」
ルーヴェリスが吐き出すのは、古の呪術の名。
それは歪み狂った愛と執着の結晶であり、
命も、精神も、心も、そして肉体までも――
彼女のすべてを巧妙に縛り上げる、多層の呪縛だった。
ルーヴェリスは息を潜め、そっと目を閉じた。
彼の指先は、ベルの精神の深淵にそっと降り立つ。
絡み合った糸を、魂の奥底から、魔力回路の複雑な経路を辿りながら、
ひとつひとつ丁寧に引き抜いていった。
そのたびに、ベルの眉がかすかに震える。
苦痛にゆがむその表情を、ルーヴェリスはただ静かに見守った。
ルーヴェリス「大丈夫だ、ベル。これは痛みではない——
君が君で在り続けるために、必要な儀式だ」
死神の爪は鋭く、体温は死者のように冷たい。
それでも、彼の手は何よりも温かかった。
ベルの髪をそっと撫で、その額に柔らかな口づけを落とす。
彼女はかすかな安堵の吐息を漏らし、静かに寝息を立て始めた。
ルーヴェリス「君を縛る糸は、私が全て解こう。君を自由にするために。
だけど、それが終われば――
君はこの場所を離れて、現世に戻る」
ルーヴェリスの瞳に、薄く切ない光が差し込む。
それは、どこか哀しみと祈りを秘めた輝きだった。