3-1
――足元の感触が、ない。
闇。
どこまでも広がる漆黒の闇は、まるで宇宙の果ての虚空のように底知れず、静寂に満ちていた。
風も鼓動も、息遣いさえも吸い込まれていくような、音のない世界。まるで時間そのものが眠りについてしまったかのようだった。
遥か頭上、果ての見えない空には、漆黒の月がぽっかりと浮かんでいる。
光を放たぬそれは、まるで夜の闇が形を持ったようで、ただそこにあるというだけで、この空間の静けさをいっそう深く染め上げていた。
カイルはその闇の中に立っていた。
いや、立っているのではない。むしろ、空間に浮かされていると言うべきだろう。
彼の足元には床はなく、深い虚空の星の光が微かに瞬いているだけだ。
一歩でも気を抜けば、この果てしない闇に飲み込まれそうになる。
だが、その恐怖さえも、どこか遠くの幻のように霞んでゆく。
そのとき――闇が波打つようにゆらぎ、漆黒の世界から“彼”が、そっと姿を現した。
カイル「……貴方は」
その姿を認識した瞬間、カイルは無意識に膝をついていた。
否、本能が警鐘を鳴らしたのかもしれない。
直視すれば、狂う。壊れる。
それほどの存在――“死”そのものが、目の前にいた。
カイルが運んだあの爪の主。
その腕には、目を閉じたベルが静かに抱かれていた。
男は漆黒の衣を纏い、腰まで届く銀糸のような髪を揺らしている。
その瞳は深い赤紫――夕暮れの空に、滴る血を溶かしたような色。
整った顔立ちは神々しく、美しさと妖しさを併せ持ち、人ならぬ威厳を纏っていた。
ただの美ではない。
それは“概念”としての存在。
死という不可避の真理が、人の姿を借りて現れている――そんな感覚。
カイルは、初めて爪に触れたときのことを思い出していた。
あの時、胸に広がった飢えにも似た渇望。
狂おしいまでの憧れ。
それは今、目の前にある“死神”という存在に、形を与えて迫っていた。
「顔を上げなさい」
深淵のような声が、空間全体に静かに響いた。
命令とも、慈しみともつかぬその声音に導かれ、カイルは恐る恐る顔を上げる。
漆黒の衣を纏い、銀糸のように白く美しい髪をなびかせるその存在は、目を閉じたベルを優しく抱いていた。
深い赤紫の瞳が、ただそこにあるだけで空気を支配する。
あまりにも整ったその顔立ちは神々しく、同時に人ではないと直感させる妖艶さを孕んでいた。
その姿に、カイルの中で何かが確かに震えた。あの「爪」に初めて触れた時に感じた、理性を灼くような渇望が蘇る。
「我が名は、ルーヴェリス――死を司るもの」
名乗る声が、心の奥に直接届くように響く。
言葉に重ねられたのは、絶対的な存在の証。
カイルは言葉を失いながらも、その名を刻む。
ルーヴェリス「……前に、ベルが黒き観測者に襲われた時も、お前が彼女を救い、『死神の揺り籠』へと送り出した。
だが、今回は……」
ルーヴェリスは静かにベルの髪を撫でる。
ルーヴェリス「お前が『爪』を通して彼女に触れたことで、共にこの場へ引き寄せてしまった。
無断で連れ来たこと、まずは謝罪しよう」
その声に偽りはなく、確かに哀悼の色が滲んでいた。
カイルの胸に淡い戸惑いが広がる。
カイル「……あなたは、俺が『蛇の法衣』の者であることを知っていて……?」
カイルは自分が「蛇の法衣」の一員であることを思い返した。
禁術や禁呪の研究に没頭し、古代魔法文明の遺産を追い求め、世界の再構築を目論む彼ら。
その中で過去に彼らは、ベルの不死性に執着し、何度も彼女を捕らえては残酷な実験を繰り返してきた。
ルーヴェリス「ああ……、お前が長きにわたり彼女を追い、見つめ続けていたことも……だが、それでも彼女を守るために動いた。
その行いに、感謝している」
ルーヴェリスの言葉に、カイルははっと息を呑んだ。
そこにあったのは怒りでも咎めでもなく、静かな敬意と深い情だった。
その言葉に、カイルは思わず息を呑んだ。
そこにあるのは、怒りでも非難でもなく、揺るぎない静謐な敬意と、揺るがぬ深い情愛だった。
ルーヴェリスは、ベルの細く冷たい身体を優しく包み込み、その重みを確かめるように抱き締めている。
その姿はまるで、世界そのものを守ろうとするかのような深い祈りを秘めていた。
カイルは心の奥底で確信した。
ルーヴェリスの言葉が語るのは、ベルへの揺るぎない想い、そして彼女を失うことなど到底許されぬ運命の絆であると。
その重みを胸の奥で噛み締めながら、カイルは静かに言葉を紡いだ。
声は震え、でも覚悟に満ちていた。
カイル「……『死神の揺り籠』のこと、少しだけ……知っています」
ルーヴェリスはゆっくりと頷く。
その瞳には、幾千もの時を経て積み重ねられた哀しみと決意が宿っていた。
静寂が二人の間を満たす。
やがてルーヴェリスは、重く沈んだ声で語り始めた。
ルーヴェリス「揺り籠の殻は、決して割れることはない。彼女が安らかに戻るその日まで、誰も干渉を許されぬのだ」
冷たくも厳粛な響きの言葉が、空気を震わせる。
ルーヴェリス「そして……お前も、共に囚われた身として、外の世界には出られぬ」
その一言には、深い哀惜が滲んでいた。
カイルは胸の奥にずしりと響く現実に、わずかに体を強ばらせた。
拳を握りしめ、苦しげに声を絞り出す。
カイル「俺よりも、……彼女の容体は、どうなっているんですか?」
ルーヴェリスは視線を落とし、短く息を吐いた。
言葉にできぬ痛みが、彼の姿勢からあふれていた。
ルーヴェリス「今のベルは……ただ魔力が枯れただけじゃない」
その声は囁くように、しかし断固として響く。
ルーヴェリス「縛られた魂は深く裂かれ、魔力の回路は崩れ去った。癒やすには、時間が必要だ」
カイルの胸が締めつけられ、唇を震わせて呟く。
カイル「……そんなことが……」
ルーヴェリスはじっとカイルを見据え、静かな確信を込めて言った。
ルーヴェリス「無念だろう、今は……どうかここで、じっと待っていてくれ」
その言葉は約束のように響き、決して揺らがなかった。
そう告げた刹那、ルーヴェリスの瞳が静かに淡い光を宿した。
その輝きはまるで、長い時の闇の中で灯された希望の灯火のように、揺らぎながらも確かにそこにあった。
ルーヴェリス「この塔の中、お前を客人として迎えよう。しばしの間、どうか安らかに過ごせ」
その言葉が空間に溶け込むと、次の瞬間、視界が大きく揺らいだ。
世界の輪郭がゆがみ、まるで溶ける氷のように空間が崩れ落ちる。
カイルの身体は重力を失い、ふわりと宙に浮いたかと思うと、知らぬ場所へと運ばれていた。
そこは、先ほどの虚無とは明らかに異なる空間だった。
素材は異質で、どこか冷たく硬質な光沢を放つが、床も壁も確かな手触りがあり、存在感をもった“部屋”としてそこにあった。
カイルはようやく肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
膝をつき、重く沈み込む思考の渦に必死に抗いながらも、目まぐるしく変わる現実に心が押しつぶされそうになる。
カイル「……いったい、何なんだ……」
その声は、戸惑いと苛立ち、そしてわずかな恐怖が混じっていた。
ベルを抱える“神”の存在、その重み。
彼女の真実と、自分の無力さが胸を締めつける。
カイル「……ベル、お前は、一体……」
その問いかけは虚空に消え、まだ誰の答えも届かなかった。