2-59
それは、喪失と呼ぶにはあまりにも生ぬるかった。
世界の色が抜け落ち、音が消え、時間すら形を失う――ベルを喪ったその日から、セラフは眠ることをやめた。否、眠るという行為そのものを拒絶したのだ。
彼の部屋には、まるで遺品のように整えられた空間が広がっていた。
ベルが読んでいた本、羽織っていた外套、口をつけたままの空のカップ。
一つとして手を加えられることなく、彼女がふと戻ってくるかのように丁寧に保たれていた。
窓辺の小さな台の上に置かれていたのは、白い花を模した髪飾り。
最後までベルの髪に寄り添っていたもの。
柔らかな花弁のような細工が、差し込む光に微かに揺れている。まるで今も彼女の面影を宿しているかのように――。
だが、そこにベルはいない。
彼女の本当の姿は、あの洞窟の前にあった。
死神の揺り籠――赤紫の、忌ましいほど美しく冷たい殻。
その中でベルは眠っていた。まるで人形のように、静かに。
そして、同じ殻の中には、あの男――カイルが、生きたまま共にいた。
セラフはその殻を、何度も叩いた。
拳で、魔法で、ありとあらゆる手段で打ち据えた。
だが、ひびひとつ入らない。
絶対不可侵の殻は、彼の存在そのものを拒むかのように、冷たく沈黙を保っていた。
やがて彼は、自らの頭を殻に打ちつけ始めた。
額が割れ、血が流れようと止まらなかった。
殻が拒むたびに、怒りと焦燥が理性を削り取り、狂気の海が全身を蝕んでいく。
なぜ、ベルがあの男と共に閉じ込められている?
なぜ、自分ではなく、カイルなのだ?
セラフ「……カイル。お前さえ……お前さえ、いなければ……!」
ベルの隣に“いる”という、それだけの理由で、セラフはあらゆる憎しみを彼にぶつけていた。
生きたままベルの隣にいるその存在が、赦せなかった。
しかし、セラフは知っていた。
死神の揺り籠は、数時間で解けることもあれば、数十年に及ぶ眠りをもたらすこともある。
その時を予測する術はない。
それでも彼は、その場から動かなかった。
飢えも、疲労も、痛みさえも、とうに通り過ぎていた。
ただ殻の向こうにいるベルを、息をするように見つめ続ける。
セラフ「……目を覚ましてくれ、ベル。君の隣にいるべきなのは、僕だろう、僕だけのはずなんだ……」
低く甘やかな囁きが、空気に滲んで溶けていく。
その声には優しさがあった。だがその奥底には、澱のように沈む執着と、狂気の熱が確かに揺らめいていた。
セラフは、あの日ベルに心を奪われて以来、ただ彼女を捕らえ、自分のものにすることだけを生きる意味としてきた。
それは恋ではなかった。崇拝、あるいは狂信。 神への祈りさえ霞むほどの、彼女への渇望だった。
彼はもともと、神に仕える聖騎士だった。
祝福を受けた剣を掲げ、人々に誓った正義と信仰。
だが、ベルに出会った日から、その誓いは音を立てて崩れ始めた。
神を捨てた。誇りを捨てた。仲間を裏切り、聖堂を去り、罪と知りながら禁術に手を染めた。
綿密に練り上げられた計画、集められた魔道具、獣のような執念で身につけた魔法と呪術。
誰かの命すら、その祭壇に捧げてきた。
――すべては、ベルを檻に閉じ込め、自分だけのものにするために。
彼女が纏っていた外套は、今もセラフの手元にある。
抱きしめ、かつて二人が共に横たわった天蓋付きのベッドに身を埋める。
そこには、彼女の香りがまだ残っていた。
彼女を寝かせ、腕に抱き、愛を確かめ合った記憶――それは確かにあったはずだった。
けれど、セラフの中で何かが静かに壊れていく。 彼の魔力が、まるで底から抜けるように失われていく。
背中に刻まれた、聖なる紋章。
それはかつて、神への信仰によって力を宿した。
弱き者を守るため、正義の刃を振るうための紋章。
けれど今、それは「書き換えられていた」。
『ベルを愛し、ベルを守るために、ベルを撃ち堕とす』
信仰が、狂信へと変わったその時から、彼はベルを神に見立て、自らの力を再構築していた。
本来ならば咎とされるはずの異端の魔力――それが、彼を支えていた。
だが、今やその紋章は色褪せ、ひび割れ、崩れ始めていた。
死神の爪が彼の支配を剥ぎ取っていくたびに、紋章の力もまた消えていった。
まるで、信仰そのものが断たれたかのように。
セラフは知っていた。
いや、ようやく理解し始めたのだ。
彼女の身体を手に入れても、心を閉じ込めても、どうしても手の届かない場所があった。
言葉にできない、誰にも触れられない領域――
彼女の中に、ひとつだけ、どうしても侵せない何かがあった。
かつてセラフは、それを許さなかった。
「全てが欲しい」と願った。
だから、その深奥にある何かにさえ、手を伸ばしてしまったのだ。
暴こうとした。壊そうとした。
それが何であろうと、自分のものでなければ気が済まなかった。
だが、それは――
ベルの魂に刻まれた死神の影だった。
彼女が生きながらにして“死”に囚われた、その証。
触れてはいけなかった。
覗いてはならなかった。
それは彼女の核であり、彼女自身すら知り得ぬ“祝福”という名の呪いだったのだ。
セラフ「……ああ……僕は……」
声が、震えた。
ようやく、取り返しのつかない後悔が胸を焼いた。
それは信仰ではなかった。
それは愛ですらなかった。
自分が抱いていたものが、ただの支配欲であったことを――彼はようやく、知った。
セラフは、幻影として浮かぶ死神の爪に手を伸ばした。
だがそれは掴めず、ただ自分の指先から血が滲むだけだった。
セラフ「……ああ、そうか。僕は……あれに触れてはいけなかったんだ」
天啓のように訪れた理解は、あまりに遅すぎた。
それでも、彼女を手放すことなどできなかった。
もう愛ですらない。
ただ、奪い返せないものを前にして、引き裂かれる心が暴れ狂っているだけ。
ふと、手の中にある感触に気づいた。 それは、白い花を模した小さな髪飾り――ベルが最後まで身につけていたものだった。
彼女の微笑みとともにあった、かつての愛の証。
セラフはそれをそっと見つめた。
だが次の瞬間、彼の指先がわずかに震え、髪飾りはするりと手から滑り落ちた。
カラン――。
乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。
床に転がった髪飾りは、まるで小さな命が潰えるように、儚く砕け散った。
セラフは膝をつき、崩れた髪飾りの欠片を、一つひとつ震える手でかき集めた。
その動きは必死で、幼子のように拙く、無様だった。
崩れかけた髪飾りを胸に抱きしめると、喉の奥から押し殺すような声が漏れる。
セラフ「……ベル……」
その名を呼びながら、彼は目を見開いたまま立ち尽くす。
ひと呼吸のあと、震えながら、再びその名を呟いた。
セラフ「……ベル……ごめん、ごめん……離さない……もう、誰にも渡さないから……」
その姿は祈る者のようでもあり、 赦されぬ罪を抱いた、ただの男の末路でもあった。
第二章はおしまいです。