2-58
死神の爪が、カイルの手を媒介に、静かに、しかし確実にベルへと触れた。
それは一陣の風すら感じさせぬほど静謐で――だが確かに、世界がひとつ震えるような感覚だった。
直後、ベルの手足を縛る黒鉄の拘束具が微かに震え、軋み、そして砕けた。魔力の流れを強制的に阻害していた魔道具たちは、まるでその存在すら否定されたかのように、力を失って床に転がる。
その瞬間だった。
“それ”は、深く、静かにベルの体内へと侵入した。彼女の心核――魂の最奥部に触れ、セラフの魔力によって穢された“内側”へと食い込む。
それはまるで、異物を引きずり出す鉤爪。
まるで命そのものを削ぎ落とす鎌。
その一刹那に、ベルの全身を奔る魔力は、荒れ狂う奔流と化した。
カイルの眼には、その奔流がはっきりと見えた。
怒涛のように溢れ出す呪詛と、それに抗うようにねじれながら迸る“死”の力。
そして次の瞬間、
「あああああああっ……!」
ベルの喉から噴き出した叫びは、耳をつんざくほど鋭く、痛ましかった。
それは苦悶の声であり、絶望の叫びであり――なにより、彼女が今、生きている証そのものだった。
セラフがその声に顔色を変え、叫ぶ。
「やめろッ!!ベルに何を――!!」
怒号とともに駆け出すその姿は、いつになく焦りと恐怖に満ちていた。
だが――セラフの動きよりも、ほんのわずかに早く。
ベルの魔力が、静かに尽きた。
彼女の内に深く食い込んでいた死神の爪が、音もなく砕け、淡い煙のように空気へと溶けていく。
カイルは、その一瞬で悟った。
彼女の魔力は限界に達した。
そして、次に起きることも。
死神の呼び声――“揺り籠”が発動する。
誰も触れられない、完全なる不可侵の殻。
「……これでいい」
その呟きは、誰に向けられたものだったのか。
ベルか、自分自身か、それとも死神か。もう、カイル自身にも分からなかった。
ベルを救う方法など、最初から見えてはいなかった。ただ一つ、彼に課せられた目的。
“死神の爪を、彼女に届ける”――それだけだった。
セラフの魔力に侵された彼女の身体を見たとき、カイルは理解していた。
これが、癒せぬ傷になることを。
これが、救いにはなり得ないことを。
それでも。
彼女が魔力を使い果たせば、死神の力が発動し、世界のあらゆる干渉から彼女を隔離してくれる。
ただそれだけの“確信”が、彼を突き動かしていた。
だから、ベルが喉を裂くような悲鳴を上げても、
声を振り絞って泣き叫んでも――
カイルはその場を動かなかった。
心を無理やり切り離し、感情の奥に蓋をして、それでも信じるように自分に言い聞かせていた。
「これで、彼女は助かる」――と。
「……俺はもう、殺されても構わない」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと漏らした言葉は、
まるで遠ざかる世界に自らを委ねるようだった。
「ベルが、自由になるのなら……それで、いいんだ」
それは――あまりにも静かな、諦めに似た“勝利”だった。
全てを失ってなお、彼が選んだ、唯一の結末。
だが――その願いとは裏腹に、突如として世界が閉ざされた。
視界が、音が、感覚すらも闇に沈む。
空間ごと覆い尽くす、赤紫の光。
それは“死神の揺り籠”。すべての干渉を遮断する、絶対の不可侵。
そして、そこに巻き込まれていた。
ベルだけでなく――カイル自身までも。
「……なっ――」
言葉にならぬ声が、喉で途切れた。
意識が薄れていく中で、カイルはただ、呆然と外の景色を見ていた。
ゆらりと揺れる赤紫の殻越しに、セラフの姿が映る。
歪んだ表情。怒り、悲しみ、混乱――あらゆる感情が押し寄せた顔で、彼は剣を振り下ろしていた。
しかし、その刃は届かない。
殻に触れることすらなく、ただ虚しく、音もなく止まった。
かすかに聞こえた気がした。金属が軋むような、鈍い振動の残響。
それすらも幻だったのかもしれない。
静寂。
世界はまるで、深海に沈んだようだった。
その中で、カイルは目を閉じる――寸前、ふと目を見開いた。
赤紫の幕の向こうに見えたセラフの姿は、もう狂気に満ちた男ではなかった。
彼は膝をついていた。
床に落ちた白い花の髪飾りを拾い上げ、それをそっと胸に抱く。
そして、まるで神に縋るように、震える腕で――それを、祈るように抱きしめた。
剣では守れなかった何かを。
自分の手で壊してしまった誰かを。
月明かりが、揺り籠の外側を照らしていた。
その光に包まれたセラフの背は、どこまでも小さく、どこまでも寂しげだった。
――そして、カイルの意識は、ゆっくりと赤紫の闇に溶けていった。