2-57
夢すら浮かばぬ、ただ深く冷たい闇の中に、ベルは沈んでいた。
時間の感覚も、思考の輪郭も曖昧になり、ただ静かに眠り続けるだけ。けれど――
時折、ふと心がざわつく。
それは、遠く繋がるセラフの心が揺れているせいだと、ぼんやりと理解していた。
ベルは何度も、名も知らぬ“誰か”に呼ばれるような声を感じていた。
それはセラフの声ではない。けれど、その響きに胸が高鳴るたび、繋がる糸を通して、彼の心にもさざ波のような感情が走るのが分かる。
懐かしさ。哀しさ。
その奥に、にじむ焦りと――嫉妬。
それが何に向けられたものか、明白だった。
彼は知っている。ベルがその声に応じて揺れていることを。
ベルの心が、誰か“別の存在”にかき乱されていることを。
彼女は、また意識の底へと沈んでいく。
呼びかける声は遠のき、心のざわめきだけが余韻のように残る。
……何度、そんな夢のような循環を繰り返しただろう。
ある時、ふいに風が吹き抜けた。
澄み渡る空気のように清らかで、春の嵐のように鮮烈な、魔力を帯びた風。
それはベルの眠りの殻を撫でるようにして届き、内側から彼女をそっと揺り起こした。
ベル「……エラ、ヴィア?」
名が自然と漏れた。
忘れるはずもない。
この風は、ベルの古き友――エラヴィア・セリスフィアの魔法。
魂を目覚めさせる風。
瞼がゆっくりと開き、現が少しずつ色を取り戻していく。
目覚めと共に、ベルは再び“あの声”を感じた。
名前を呼ぶわけでもなく、言葉もない。ただ――確かに、自分を求めている声。
ベル「……誰、なの」
懐かしく、どこか悲しく、心の奥を優しく叩くような響き。
そして、それに呼応するようにセラフの心が揺れた。
その震えが、糸を伝って胸の奥へと届いてくる。
愛しさに似た熱を滲ませながらも、そこに混じるのは――焦燥。
そして、ほんの僅かに、抑えきれない嫉妬。
ベルの心が“誰か”に触れることへの、彼の強く、切実な想い。
それだけで、ベルが目覚めるには十分だった。
彼女はゆっくりと身体を起こし、固まった足に力を込める。
震える足取りのまま、それでも確かな意思を胸に、閉ざされた洞窟の外へと歩みを進めた。
風が、そっと彼女の背を押していた。
乾いた音がその場に響いた。
白い花を模した髪飾りが、岩の床に転がり落ちた音だった。
その一瞬、時が止まったかのように、セラフとカイルの動きが止まり、同時にそちらへと視線を向けた。
月明かりが差し込む洞窟の入り口――
その光の中に、ふらりと現れた少女の姿を見て、カイルは無意識に息を呑んだ。
ベル。
その名を呼ぶ前に、彼女の存在が空気を支配していた。
風に揺れる髪は、どこか神秘的な光を纏っているように見えた。
月明かりに照らされ、ラベンダーの髪が銀糸のように輝いている。
一瞬、見惚れそうになる――だが、その美しさには、微かな違和感が混じっていた。
彼女の纏う服は思いがけず整っていた。
清潔で、品のある布地。体にぴたりと合い、丁寧に仕立てられている。
襟元や袖口には控えめな装飾が施され、全体は穏やかな淡灰色でまとめられていた。
囚われていた者とは思えない、あまりに整いすぎた姿――
だからこそ、その“整い”が不穏だった。
カイル(……セラフが着せたのか)
ぞっとする。
見せかけの“丁寧さ”が、彼女を縛る鎖のように思えた。
美しく整えられたその姿は、まるで――感情を持たない「人形」のようだった。
永劫の時を感じさせる不死の魔女が纏っていた空気はそこにはなかった。
特徴的なあのベルの特徴的な魔力の匂いも。
カイル(……何かおかしい)
その場に立ち尽くす彼女の周囲に漂う空気が、異様に沈んでいる。 見れば、彼女の足元は不安定で、今にも崩れ落ちそうだった。 だがそれ以上に、カイルが感じ取ったのは、彼女の中に流れる“異物”だった。
カイル「……あの魔力」
鋭敏な魔力探知の感覚が告げる。 ベルの魔力の中に、別の力が混ざっている。 それは強く、重く、冷たい。 セラフ——先ほどまで敵対していた男の魔力だ。
カイル(急がなきゃ)
足に力を込める。
身体が軽い——癒しと強化を兼ねたエラヴィアの魔法が、彼の全身に残っていた。
通常では不可能な動きも、今の彼にはできる。
風が吹き荒れる中、音もなく駆け抜ける。
風はセラフの視界を乱し、音を掻き消す。
風はカイルの味方だった。
彼は風の隙間を縫い、まっすぐにベルへと向かった。
そして——先にたどり着いた。
カイル「ベル!」
その声に、ベルがかすかに顔を上げた。
意識はある――だが、その瞳には焦点がなく、彼女は酷く弱っていた。
カイルはすぐに駆け寄り、彼女の手を取る。
そして、触れた瞬間に気づいた。手首に冷たい感触――黒い環状の金属がはめられていた。
怒りと疑念が脳裏を駆け巡る。
だがそれを振り払うように、カイルは冷静さを取り戻し、魔力の流れを即座に探る。
……不自然な断絶。
これは“封印”というより、“支配”に近い。
視線を動かすと、ベルの両手首と足首に、同じ黒鉄の輪が嵌められていた。
カイル「魔道具か……魔力阻害用の」
それぞれに複雑な紋様が刻まれ、ベルの魔力の流れを確実に妨げている。
だが、それだけではない。
カイルの目が、さらにベルの左手へと移る。
その薬指には、ひときわ異質な漆黒の指輪が光っていた。
カイル(……これは)
ただの装飾ではない。
近づいただけで、肌に突き刺さるような呪気が漂ってくる。
だがカイルにはその異様な雰囲気を感じ取ることしかできない。
わかるのは彼女を“守る”ためのものではなく、最初から“壊す”ために設けられたものということ。
それでも、ベルは立っていた。
あんな状態で、まだ――。
怒りが燃え上がる。
この仕打ちを仕組んだ男の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
そして、その男の気配が、すぐ背後に迫る。
セラフ「ベルに、触れたな……名前を口にしたな」
ぞくりと背筋が凍る。
殺気を孕んだ声音は、空気を震わせるほど冷たかった。
振り返らずともわかる。
セラフ。
その存在が放つ気配は、これまでのどんな敵とも比べものにならないほど危険だった。
だが――次の瞬間。
静かに、しかし圧倒的に、空間が“染まった”。
黒。
深淵のように、音も光も、すべてを飲み込む漆黒の闇。
ベルの手に触れていたカイルの手が、燃えるような熱を感じた。
……いや、それはむしろ、凍てつくような冷たさだったのかもしれない。
熱と冷たさ、その区別すら曖昧になる感覚の中で、カイルは悟った。
それは――“死神の爪”。
自分を媒介にして、あの存在がベルに触れたのだと。
かすかに脈打つ命の奥深くに、静かに、確かに、それが届いたのだと。