2-56
カイルが地を蹴った瞬間、爆ぜるような魔力の波が周囲を焼いた。
“慟哭ノ従者”がこちらの動きに気づいた――それだけで、空気が鋭利に軋む。殺意に満ちた魔の奔流が、森の闇を裂くように迫る。
だが、カイルは止まらなかった。
カイル「正面からじゃ、持たない……ならば」
マントの裏から小瓶を投げる。
着弾と同時に白煙が舞い、視界を覆った。
続けざま、手のひらサイズの魔術具を地に滑らせる。
淡い音波が静かに波打ち、周囲の空間を歪ませる。
音と気配を攪乱する、密偵専用の錯覚装置――相手の認識すら揺らがせる精密な術式だ。
セラフが一歩踏み出す。呪いのこもった靴音が地を砕き、錯乱した幻影を次々に吹き飛ばしていく。
まるで、霞の中を歩く怪物。幻影も、錯覚も、ただの塵のように踏み潰されていく。
それでも、カイルは動じなかった。
彼が賭けるのは、力ではない。知識と技術、そして“ほんのわずかな機会”だ。
それでも、カイルは動じなかった。
彼が賭けるのは、力ではない。知識と技術、そして“ほんのわずかな機会”だ。
カイル「……来いよ、化け物」
呟いた瞬間、左へ飛び退く。
刹那、セラフの剣が通った場所が、風圧だけでえぐれた。巨木の幹が、触れもしていないのに真っ二つに裂けて倒れる。
反応速度が異常だ。
幻影を見切り、煙の中でも躊躇なく動く。
あれはもはや戦士ではない。
“狩る者”の直感――いや、それ以上に、狂気と執着で磨かれた殺意の化身。
カイルは短剣を抜かない。
意味がない。
代わりに、地に伏せ、指先で草と土の感触を確かめる。
先ほど仕込んでおいた小さな魔術罠が、起動の時を待っていた。
カイル「……今だ」
足元で光が跳ねた。
封じていた風の結界が解放され、爆風がセラフの視界と感覚を一瞬だけ乱す。
その隙にカイルは反転し、森の奥へ滑り込むように移動した。
――けれど、すぐに気づく。
音が、しない。風も、奴の気配も。
すべてが止まった。
カイル「……やられたか」
空間そのものが、セラフの魔力に“封じられた”のだ。
逃げ道など、最初からない。
ここは獣が逃げ惑う森ではなく、捕食者の檻の中だった。
それでも、カイルの目に諦めはない。
逃げられなくてもいい。
カイル(距離が縮まらない……けど、ベルはこの先にいる。この爪が、そう教えている)
胸の内の恐怖は消えない。
むしろ、全身を締めつけていた。だが、それよりも大きかったのは、ベルの下へとたどり着くという強い意志。
この爪の持ち主の願いを叶えねばならないという悲願だった。
森の奥、隠された結界の向こう――ベルの気配が微かに揺れた。
カイルは何度も洞窟へと歩を進める。だがその度に、鋼のような一撃が進路を阻む。
セラフの剣圧。間合いの読み、技量、膂力――すべてが一級品だった。
カイル「……クソッ!」
魔道具を展開し、幻惑の魔術で視界を奪い、地を這うようにして接近するも、セラフの反応は人間の域を超えていた。
足音ひとつ、呼吸のわずかな乱れすら読み取り、斬撃は寸分違わずカイルを狙う。
だが、逃げるわけにはいかない。
ここで奴を越えなければ、ベルの眠る洞窟に手が届くはずもない。
カイル「ッ……!」
剣をかわし、土煙の中で炎を放つ。
一瞬でも、前に進むための隙を作る――だが。
セラフ「遅い」
低く呟かれたその声は、これまでのどの言葉よりも冷たかった。
次の瞬間、鋼のような拳が胸を打ち抜く。
カイル「ぐッ――ああ……ッ!」
肋骨が軋み、肺が悲鳴を上げる。
時間が止まったような感覚の中、カイルの身体は弾き飛ばされ、宙を舞った。
背中を打ち、岩に叩きつけられる。
カイル「……っが、ぁ……!」
視界が揺れ、空気が喉をすり抜けていく。
呼吸を求めて、喉がかすれる。
セラフが、ゆっくりと歩み寄る。
セラフ「蛇の密偵にしては、良く頑張った」
その言葉には労いの色など一欠片もなく、口元には冷ややかな嘲笑が浮かんでいた。
カイル「だが、終わりだ」
鋼の剣が無慈悲に振り上げられ、切っ先がカイルの喉元へと迫る――
その瞬間だった。
風が、吹き抜けた。
まるで時の流れすら断ち切るように、鋭く、澄んだ風が戦場を駆け抜けた。
空間ごと浄化するような清浄な力が、セラフの剣を逸らし、傷ついたカイルの身体を柔らかく包み込む。
カイル「……ッ、ぐあ……は……っ」
空気が、肺に戻る。命が、鼓動を取り戻す。
絶望に沈みかけていた意識に、一筋の光が射し込む。
エラヴィア(よく頑張ったわね。もう少しよ)
それは、優しい声だった。
耳に残って離れなかった、懐かしく、どこまでも温かい――
まるで風そのものが、言葉を紡いでいるかのような囁き。
風の街からここまで、この距離で、これほど精緻な風の精霊魔法を遠隔で操れる者など、他にいるはずがない。
この領域において、彼女の右に出る者は存在しない。
カイル「……先生……」
カイルの唇が、震えながら名前を呼ぶ。
その目には、光が戻っていた。
風はただカイルへ癒しを与えるだけでなく、視界を奪うことで、一瞬セラフの動きを止めた。
セラフは見失ったカイルを探し周囲を見渡す。
そこで彼はカイルを見つけるよりも早く、気がついた。
剣の動きが止まり、目が険しくなる。
セラフ「まさか……」
その時、かすかな音がした。
乾いた石の上に、何かが転がるような音。耳を澄ませていなければ聞き逃してしまいそうなほど微かな――けれど確かに、存在を告げる音。
セラフが振り向いた。
そこには、ひとひらの白い花の髪飾りが落ちていた。
それが、ラベンダーの髪の束から滑り落ちたものであることに、彼は直感で気づいた。
気づけば、彼は背中で守っていたはずの洞窟の入り口から離れすぎていた。
それは、エラヴィアの魔法が届く位置。そして――
洞窟の封印が、解けていた。
彼女の風は折り重ねるように閉ざされていた結界を破り、洞窟の中へと道を開いた。
そして、
静かに砕け落ちるように現れたのは、淡く輝くラベンダーの色。
その色が、月の下でゆっくりと動く。