2-55
そして――その時だった。
彼は気づく。否、なぜ今まで気づかなかったのかと、自らを嗤うほどに明白な“それ”の存在に。
カイルの左手。
黒革の手袋越しに握られた“何か”が、異様な気配を放っている。
それはセラフの目には見えなかった。
だが、その気配は隠しようもないほどに大きく、重い。
まるで森の空気そのものが怯え、ざわめくように、濁った死の気がじわりと辺りを蝕んでいく。
それはただの魔力ではない。毒でも呪いでもない。
もっと根源的で、もっと禍々しい――“世界の摂理”そのものに爪を立てるような、忌まわしい存在感。
セラフ「――それを、なぜお前が持っている」
セラフの声が低く沈んだ。
しかしその声音には怒りがなかった。静かすぎるその一言に込められていたのは、警戒。畏れ。そして、抗えぬ渇望――。
凝縮した闇。
この世のすべての死の匂い。
そして、限りなく魅惑的で、どこかベルと同じ色をしている。
気づけば、指先がわずかに震えていた。
視線を逸らせない。呼吸が浅くなり、心が奥底から熱を帯びていく。
触れたい。奪いたい。壊してでも、確かめたい――その正体を。
欲望が、衝動が、理性を蝕んでいく。
抑え込もうとするたびに、その気配はより濃く、甘く、耳元で囁くように誘惑してくる。
それは、間違いなかった。
ベルに祝福を与えた“死神”――その本質に繋がる、忌まわしくも美しい断片。
セラフの中で何かが軋む。
セラフ(違う。あれは――ベルの一部などではない。あんなものを、彼女に触れさせてはいけない)
渇望が胸の奥でざわめいた。
その存在に惹かれてしまう自分自身を、セラフは内心で激しく否定する。
冷たく輝くそれは、まるで闇の宝石のように美しく、絶対的な力を秘めている。
だが、それに触れた瞬間、何かが“揃ってしまう”。
そう――本能が警鐘を鳴らしていた。
神の遺骸。
この世に顕現した、死神の断片。
そんなもの、たとえ“蛇の法衣”といえど、容易に隠し持てる代物ではない。
……それを、目の前の密偵風情がなぜ。
疑問が浮かぶ。しかし、今は追求している暇などない。
今、何よりも優先すべきは――それを、ベルから遠ざけること。
セラフは深く息を吐く。渇望を、焦燥を、心の奥底に押し込み、静かに閉じ込めた。
冷たい光を宿す瞳が、決意と共に鋭く細められる。
無言で、セラフの剣がカイルに向けられる。
それはただの威嚇ではない。
それは、「奪うな」と、「近づくな」と――
誰にも渡さぬという、絶対の意志だった。
セラフ「我が名は、セラフ・イヴェール。かつて神に仕えし騎士……今はただ、彼女――不死の魔女ベルのために在る者だ」
その声は、いつものものではなかった。
彼がベルに話すときの、穏やかで、祈るような声音とはまるで違う。
滲んでいたのは、狂気。
歪んで、焼けただれたような、執着の熱に満ちた声。
セラフ「彼女の力も、魂も、永遠も――すべて、すべて……この手に抱きしめると決めた。
誰にも渡さぬ……誰にも……! たとえ神であろうと、死であろうと、彼女を奪うというのなら、世界ごと引き裂いてやる……ッ」
ゆっくりの大地を踏みしめながら、セラフは夢見るように前へ進む。
片手には剣。もう一方の手は空を掴むように震え――いや、何かを撫でるように、幻を慈しむように震えていた。
セラフ「……さて、蛇の者よ」
その声は、笑っていた。
喉の奥でくぐもり、狂った蜜のようにねっとりとした声だった。
セラフ「名を聞こう……せめてその名を、この耳に――いや、この喉の奥まで刻んでやる。
お前がどれだけ醜く死のうと、彼女のために戦ったことだけは、記憶の屑にしてやる……ふふ……ふふふふ……!」
瞳孔は開ききり、焦点すら合っていない。
恍惚とした笑みを浮かべながら、セラフは問いかける。
カイルは静かに一歩前に出た。
その異様な気配に一歩も退かず、ただ一言――
カイル「名前は、カイル」
その声音に、恐れはなかった。
あったのは、己の覚悟と、背負うべき者への確かな誓い。
一瞬の静寂が訪れた。
風がざわめき、白煙が弾けるように吹き上がる。
――戦いが、始まった。