2-53
夜の森。
月光が葉の隙間から静かに降り注ぎ、岩肌をなぞるように、洞窟の口を淡く照らしていた。
そこに、二つの影。
重なり合い、絡み合い、まるで一つの輪郭のように寄り添っている。
ベルはセラフの腕の中にいた。
ぬるい息を吐きながら、ただ、黙ってその身を預けている。何も語らず、何も拒まない。
その沈黙を、セラフは愛おしげに見つめた。
言葉を交わさぬことを、彼は拒絶とは受け取らない。むしろ、歓びとして受け止めている。
――沈黙すらも、支配の証。言葉なくとも、彼女のすべてが自分のものだという確信。
セラフ「……君の体には、僕の魔力が染み込んでる。
中から壊れるように、優しく、深く、満たしてあげた。
外側はこの腕で包んで……魂には、僕の呪いの糸を編んだ」
その声は、呪いを愛と呼ぶにはあまりにも優しく、耳に溶けるほど甘美だった。
囁くたびに、まるで祈りのように、悦びのように、彼は言葉を紡いでいく。
セラフ「君はもう、逃げられない。
だって、君の“全て”は――僕のためにあるから」
ベルは何も言わない。
抗いもせず、ただ静かにその言葉を受け止めている。
その沈黙が、かえって彼女の意思を曖昧にし、セラフの狂信にさらに深い陶酔を与えていた。
けれど、セラフは知っていた。
彼女の奥底に、まだ触れられない何かがあることを。
ベルに指輪を嵌めたあの日から、ずっと、感じ続けていた支配の及ばない「空白」。
だからこそ、この旅に意味があった。
彼女の心の奥に隠されたその“なにか”を、暴いて、抉り出して、呑み込むために。
そのとき――
ベルはふと、気配を感じた。
それは森の匂いでも、セラフの魔力でもない。
もっと深い、もっと懐かしい。
心の奥の奥、ずっと閉ざされていた扉の向こうから、ふと流れ込んできた微かな気配。
冷たくて、温かい。
鈍く疼くような、けれど拒絶ではない、何かの名残。
名前のない“痛み”のようでいて――どこか、懐かしかった。
セラフ「……ああ、気づいたんだね」
耳元で囁く。
その声には歓喜が滲んでいた。
セラフ「ようやく顔を出したんだ。君の最後の欠片が。
ずっと見つからなかった。ずっと触れられなかった、君の“核”。
でも、やっとだ。これで全部、僕のものになる」
ベルは何も言わない。
けれど、その目の奥がわずかに揺れた。
気配を感じ取ったその瞬間――彼女の中に存在する“何か”が、確かに応じていた。
セラフの支配が届かない場所。
彼の魔力も、呪いも、決して触れられなかった空白。
その気配と同じものが、外から、確かに近づいてきていた。
そして、セラフはそれを見逃さなかった。
彼の視線が、月光を背に冷たく光る。
狂気と歓喜の入り混じった瞳で、ベルを見下ろす。
セラフ「君の中にあるもの、君自身も知らなかったそれを……僕は欲しい。
魔力でも、肉でも、魂でも足りない。
全部手に入れても、それだけじゃ足りないんだよ。
だって、そこに“まだ”があるなら――それも僕のものじゃなきゃ、おかしいだろ?」
その執着は、祈りに似ていた。
だがそれは、神へ捧げるものではない。
ベルという存在を、自分という器の内側に閉じ込めるための、狂信に満ちた祈り。
セラフ「さあ……隠さなくていい。もう、逃げられないんだよ。
僕が見つけたんだ。
もうすぐ、君の全部を――全部を僕の中に閉じ込めてあげるから」
ベルは静かに、目を伏せた。
それが拒絶なのか、諦めなのか。
もはや誰にも分からない。
ただ、胸の奥――その空白が、確かに疼いた。
その痛みに気づいたセラフは、嬉しそうに微笑み――
さらに深く、ベルを抱きしめた。
それは、遠く森の奥から忍び寄ってきていた。
気配は異様で、暗く、冷たい――なのに、ひどく魅惑的だった。
その不穏な震えが、空気を伝って肌を撫で、精神の底に直接届く。
セラフは目を細める。
喉の奥で、ぞくりと甘い興奮が蠢いた。
どこかベルに似ている。
否、正確には――彼女の“影”のような。
剥き出しの死性、沈黙の渇き、そして……抗い難い魔の魅力。
まるで、彼女の深層に巣食う“もうひとつの存在”が、外と呼応しているかのようだった。
セラフはベルを包んでいた腕を、そっとほどく。
彼女の身体がふわりと揺れ、倒れそうになるのをやさしく抱きとめると、静かに洞窟の奥へと運んだ。
粗末な寝具。布と魔力で温度だけを保った、簡素な眠りの場所。
セラフ「少しだけ待っていて」
囁く声は、まるで子守歌のように優しかった。
その声だけを聞けば、誰も彼の狂気に気づけないだろう。
セラフは、精神に繋いだ“糸”へと指先を添える。
それは魔力でも言葉でもない、深層を伝うための仕掛け。
彼女の夢の淵にそっと触れ、静かに――まるで祈るように――眠りを落としていく。
ベルの睫毛がわずかに震えたが、次の瞬間には、静かな寝息が空気に溶けていた。
その安らかな呼吸を乱さぬように、セラフは洞窟の出入り口に幾重もの結界を張る。
彼は、魔力を抑え込むように掌をかざし、息をひとつ吐き――静かに、低く、祈るような声で詠じた。
セラフ「――沈黙はここに満ち、月の帳はすべてを隠す。
響きよ眠れ、風さえも鎮まれ……。
夜の盾よ、完全なる封印を」
すると、彼の足元から淡い青白い光が波紋のように広がっていく。
まるで水面を逆さにしたような、静かで澄んだ光の幕が、洞窟の入り口を幾重にも覆っていった。
音が一切、外界と断たれる――世界が、まるごとひとつ封じられたかのような沈黙。
その魔術は、視覚すらも僅かに歪める。光が反射せず、色彩が褪せ、時間すら凍りついたかのような錯覚を覚える結界。
そして彼は、最後にもう一度だけベルを見やり、静かに洞窟を出た。
月明かり。
冷たく、澄んだ光の中に、セラフはひとり、剣を携えて立つ。
蒼銀の刃が、月を受けて仄かに煌めいた。
風が静かに木々を揺らし、草原を撫でるように流れていく。
その中で、セラフの瞳は森の闇をじっと見据えていた。
胸の内に満ちるのは、ただひとつ――
歓喜。
異質で、不穏な気配を前にしながら、彼の唇にはうっすらと微笑が浮かんでいた。
セラフ「どこから来た……何を“知っている”?」
その声は挑むようでいて、どこか期待に満ちていた。
まるで、物語の続きを心待ちにする子供のように。
そして――
ただその姿を見れば、それは確かに“騎士”だった。
愛する姫を眠りの館に残し、夜の魔を迎え撃つ。
執着と狂気に染まった、聖なる剣の担い手。
その刃は、誰のために振るわれるのか。
その魂は、誰のために焦がれているのか。