2-52
暗い。
視界を覆い尽くすのは、底知れぬ闇。音もなく、光もない。
肌を刺すような冷気が、骨の奥深くまで染み込んでいく。
上下も方向も失われ、自分の身体が浮かんでいるのか、沈んでいるのかすら分からない。
まるで、存在そのものがぼやけていくような、恐ろしく静謐な空間だった。
カイル(ここは……夢か?)
そう思った刹那、何かが頭の中に滑り込んできた。
水の中で誰かが囁いたような、だがそれは“音”ではなかった。
それは“声”ではなく、ただの“意志”。直接、脳に触れるような感覚だった。
――ベルの気配を掴んだ。
――場所を捉えた。
――私を、そこへ連れて行け。
言葉のようで、言葉ではない。
その囁きに、カイルの身体は一瞬、強張った。
しかし次の瞬間には、深く息を吸い、意識を引き戻す。
異常な状況にもかかわらず、感情に呑まれることはなかった。
カイル(……冷静になれ。情報を整理しろ)
密偵として鍛え上げられた精神が、即座に機能を取り戻していた。
いや、これは、夢じゃない。
違う――これは、“何か”が、確かにこちらを見ている感覚。
その“何か”の正体に思い至った瞬間、カイルの意識は急激に現実へと引き戻された。
がばりと上体を起こすと、胸の奥が冷たく震えていた。口の中は乾き、呼吸が浅く速い。さっきまでの闇が幻だったとは到底思えない。
カイル「……今の……本当に……」
視線を落とす。床に広げたままの地図の上に、それはあった。
闇に溶けるような漆黒の爪。獣のような形をしていながら、人の手の輪郭をかすかに模している。
だが、それが“生きている”という確信が、皮膚の内側から沸き上がってきた。
それは小さく脈動しながら、地図の一点を明確に――強く、示していた。
カイルが幾重にも封じ、エラヴィアの封印を刻んだ箱に封じた“それ”が、今――目の前にある。
ベルの行方を追い求めるその“声”には、確かに焦燥が滲んでいた。
カイルは静かに、地図の上に置かれた黒い爪を握りしめた。
その感触は冷えた石のようでありながら、かすかに脈動している。
かつてこの爪を一目見ただけで、熱に浮かされたような渇望と衝動に突き動かされた。
だが今は違う。それは声となって、ベルのもとへと急げと囁いていた。
迷いはなかった。
小屋の中をざっと見渡し、必要最低限の荷物を掴むと、カイルはドアを乱暴に押し開けた。
外は夜。雲に覆われた空には、星も月もない。
だが、カイルの足取りは一切の迷いなく、地図が示した一点――死神が示したその場所を目指し、闇の中へと駆け出していた。
黒き死神の爪を、しっかりと手に握りしめて。