2-51
まるでそれは深い沼に沈むように。
ベルの意識は赤に染まった寝台に、静かに、沈んでいく。
――その瞬間。
魔道具が、異変を示した。
淡い光が突如として脈打ち、震えるように歪む。
まるで“何か”に触れられたかのように、空気が軋んだ。
視界の虚像が揺らぎ、男の姿がこちらを振り返る。
その瞳は霞んでいるのに――“見て”いる。
この瞬間の視線が、確かにカイルの方へと向けられていると、直感が告げる。
激しい敵意。
嘲るような笑み。
そして、凍てつくような威圧。
言葉もなく、魔力でもなく――ただその存在だけで、何かが圧し掛かってくる。
その時――
カイルの懐にしまわれた小さな包み。
封印していたはずの“小箱”が、かすかに震えた。
気配が漏れ出す。
冷たい怒り。濁った憎悪と断罪の衝動が、まるで意志を持つかのように魔道具へと滲み込んでいく。
カイル「……っ!」
魔力が逆流した。
魔道具の光が不規則に明滅し、映像が悲鳴のような軋みとともに砕け散る。
パキン、と乾いた破裂音。
透明な盤面に亀裂が走り、次の瞬間、魔道具が爆ぜた。
破片が音を立てて床に跳ね、焦げた金属の匂いが空気を濁す。
カイルは、無言で数歩後ずさる。
胸元に手をやり、小箱の感触を確かめる。
けれど、蓋には触れない。いや、触れられない。
それでも感じる。
ただ、その内側で渦巻く“怒り”だけが、確かにこちらを見つめていた。
カイルは壊れた魔道具の破片を拾い集めると、小屋の隅に腰を下ろし、持ち込んだ地図を丁寧に広げた。
周囲の地形、村の配置、街道、隠れ道――それらを幾重にも重ね合わせ、鋭い視線を走らせる。
隣には、湯気のもう立たなくなった金属製のカップ。
口をつけると、苦い薬草茶の残り香が舌に滲んだ。乾いた喉に、わずかな安堵。
カイル(ベルと……“あれ”の目的が読めないのは痛いが)
確信には至らずとも、密偵としての探査能力をもってすれば、断片的な痕跡の糸をたぐり寄せることはできる。
数日前までこの村にいたのなら、まだ遠くへは行っていないはずだ。
カイル「何かを……探している?」
ぽつりと呟き、地図の上に視線を落とす。
二人の足取りをなぞるように印をつけていく。
村から村へ、街道を避けるように、しかし確実に進んでいた。
彷徨っているように見えて、その軌跡には、かすかな意志の痕跡があった。
そして、カイルは気づいた。
背筋を氷でなぞられたような悪寒が走る。
点在する痕跡の軌道――それらがまるで、自分へ向かって“近づいて”きているように見えたのだ。
もちろん、カイル自身も絶えず移動している。偶然そう見えるだけかもしれない。
だが、それは希望的観測に過ぎない、この偶然はあまりにも不気味すぎた。
カイル(……そんなはずは、ない)
ぞわり、と全身の皮膚が総毛立つ。思考を整理しようと額に手をやった、そのとき――
カイル「……なんだ、これは……?」
唐突に、強烈な眠気が襲いかかった。
理性を根こそぎ薙ぎ倒すような、圧倒的な衝撃。魔術的な干渉か、それとも――もっと異質な何かか。
抵抗しようと立ち上がろうとするも、足がもつれ、カイルの身体は床へと崩れ落ちた。
手から滑り落ちた金属製のカップが、カラン、と乾いた音を立てて跳ねる。
視界の端から、じわじわと黒が染み込んでくる。
それは単なる眠気ではなかった。重く、ぬるりとした、深淵のような感触――
引きずり込まれる。何かに、確実に。
カイルの意識は、音もなくその闇へと沈んでいった。