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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
風の街エルセリオ。
いつもこの街を包む風は、どこか懐かしさを含んで頬を撫でていた。けれど今は、違っていた。
その風が、唐突に息を潜めたのだ。
草は揺れず、木々の葉も囁きをやめ、鳥たちの声すら遠ざかる。まるで音そのものが、世界から失われたかのようだった。
異様な静寂に、ベルは窓辺へ歩み寄り、空を仰ぐ。
雲ひとつない、澄んだ青空。
けれど、そのはずなのに――重い。言葉にできない圧迫感が、空気そのものを押し潰していた。
エラヴィア「……風が、澱んでいる」
背後から、かすれた声が落ちる。
振り返ると、エラヴィアが額に手を当てて立っていた。
端整な青銀の法衣に乱れはなかったが、その顔色は悪く、目には焦点がなく霞んでいた。
ベル「エラヴィア……?」
ベルが声をかけた瞬間、彼女の膝が崩れ落ちた。
そのまま静かに、床へと倒れ込む。
エラヴィア「……風の精霊の囁きが……聞こえないの」
息も絶え絶えに、エラヴィアは呟いた。
エラヴィア「何かが……この街の風を閉じ込めている」
その声は、千年の知を宿す高位魔術師のものとは思えないほど、か細く苦しげだった。
エラヴィアは、風の精霊と深く通じ合う、稀有な魔導師。
精霊たちは風となって彼女に囁き、街の異変や気配を伝えてくれていた。
だが今、風が沈黙している。
それはつまり、街を巡る魔力の流れが断たれ、理そのものが何者かによって封じられつつある証。
空には影ひとつない。だが、そこに“何か”が確かに潜んでいる。
ベルの瞳に、鋭い光が宿った。
ベル「……私のせい」
それは呟きにも似た、静かな確信だった。
ベル「“黒き観測者”が……動き出したのね」
その名を口にした瞬間、空気が微かにざわめいたように感じられる。
音のない波紋が広がり、目に見えぬ“何か”が、街の内側に満ちていく。
精霊の声が掠れるほどの干渉。
それほど大規模な魔術装置を起動するために、彼らは街の各所に、少しずつ準備を進めていたのだろう。
エラヴィア「あなたをこの街に呼んだのは、私よ」
エラヴィアはふと、力のない笑みを浮かべた。
エラヴィア「責任を感じる必要なんて、ないわ」
その言葉に強さはなかった。
その眼差しの奥には、自らの無力さを噛み締めるような痛みが滲んでいた。
エラヴィア「……でも、あなたがここにいる限り、あの者たちは動き続ける。
今の私は……貴女を守る風の盾になる力もない」
エラヴィアの肩がかすかに揺れる。
彼女にとって、風は魔力の源であると同時に、命と感覚を結ぶ“呼吸”そのもの。
それが途絶えた今、彼女は心身ともに限界に達していた。
ベルはそっと、彼女の手を取った。
ベル「……私は、いくら傷ついても構わない」
ベルの声は低く、けれどはっきりしていた。
ベル「痛みも、命も――やがて元に戻る。でも……あなたが私のせいで傷つくのは、耐えられないの」
それは、不死者の口から発せられるにはあまりにも人間らしい言葉だった。
決して涙は流さない。けれどその声には、深い悲しみが宿っていた。
長い孤独の中で眠っていた感情が、ようやく目を覚ましたかのように。
エラヴィア「……ベル」
エラヴィアは静かに目を細め、慈しむような眼差しを向けた。
それはまるで、母が娘に微笑むときのような、優しく穏やかな光。
エラヴィア「私は……あなたには、少しでも穏やかに過ごしてほしいの。
たとえそれが、ほんのひとときだったとしても……。
だから、この街を離れて」
囁くような声が消えた瞬間。
繋いでいた手から、力が抜けていくのがわかった。
膝をついたままの身体が、静かに傾き、ベルの腕の中に崩れ落ちていく。
風の止んだ室内で、彼女の銀の髪だけが、微かに揺れていた。