2-48
翌朝。
カイルは旅の治癒師を装い、村へと足を踏み入れた。
朝の光はやわらかく、夜露を帯びた花々の上にそっと降り注いでいる。
村の入り口には一面の白い花畑が広がっていた。
まるで誰にも踏み荒らされていない雪原のようなその静謐さに、一瞬だけ現実の喧騒を忘れそうになる。
だが、彼の意識はすぐに戻った。耳を澄ませば、この村の空気に混じって、微かな噂の残響が確かに漂っている。
数日前、見慣れぬ旅人が村に現れたという。
一組の男女――
誰かは夫婦と呼び、誰かは恋人同士だと語る。
中には、上品な身なりの貴族の娘とその従者だったと話す者もいた。
語られる関係性や振る舞いはまちまちだが、奇妙なほど一致している点があった。
――少女の髪は、淡いラベンダー色だった、と。
その言葉を聞いた瞬間、カイルの胸に静かな熱が灯った。
稀有なその髪色は、彼の記憶に深く焼き付いている。
決して忘れられるはずのない色。
あれは、ベルのものだ。
この世界に、あの色を持つ者が何人いるだろう。
彼は花畑の前で立ち止まり、小さく息をついた。
確かに、彼女はここにいた。
そしてもう一人。
その少女と共にいたという、黒髪の長身の男――
黒い外套に身を包み、騎士のように背筋を伸ばしたその立ち居振る舞いを、村人たちは口々に語った。
その描写が、カイルの記憶の底に沈んでいた名を、ゆっくりと浮かび上がらせる。
――慟哭ノ従者、セラフ・イヴェール。
かつて「黒き観測者」に名を連ねていた男。
その名は、蛇の法衣を通じて得た断片的な情報の中にも、ベルの周囲に付きまとう影として、幾度か記されていた。
“不死の魔女を知る者を、静かに、着実に消していく”
そんな恐ろしい噂と共に。
さらに耳にしたのは、彼が組織から除名されたという報。
それは、ベルが姿を消した時期と奇妙なほど重なっていた。
理由もまた、正気を疑いたくなるようなものだった。
――彼は不死の少女に傾倒し、彼女を手に入れるために、自らの誓いも使命も投げ捨てた。
情報だけでなく、彼女の身体の一部すら求めて手段を選ばぬ、狂気に堕ちた男だと。
カイル「……本当に奴が、ベルと共にいるのか?」
呟いた声が、かえって不安を深くする。
もしそれが事実なら、彼女が自ら選んだ同行者とは到底思えない。
セラフが傍にいるというだけで、あらゆる危険の予兆が生まれる。
疑念が、じわりと胸の奥をざわめかせる。
心の奥で警鐘が鳴り響く。
だが――まだ、確証はない。
すべては断片だ。繋がっていない。ただ、恐ろしいほどに符合しているだけ。
それが、かえって不安だった。
その後、カイルは旅の治癒師を装い、村の者に声をかけた。
怪我や病の手当てを申し出る代わりに、さりげなく話を引き出していく。
少女と共にいたという黒髪の男について尋ねると、誰もが口を揃えてこう語った。
「……あの方はね、えらくあの子を大事にしてたよ」
「そう、まるで宝物を扱うみたいに、優しくて……」
「ほら、あんな目で誰かを見つめられたら、きっと誰でも好きになっちまうよ」
口ぶりに嘘はない。
むしろ羨ましさすら滲むような口調で、男の献身ぶりを称えていた。
村の片隅にある、小さな雑貨屋を営む老婆もまた、記憶を辿るようにゆっくりと語った。
「あの男の人はね、私が勧めた白い花の髪飾りを買ってくれたね」
老婆は微笑みながら目を細め、続ける。
「照れてたけど、嬉しそうだった。あたしも思わず笑っちまったよ」
美しい思い出のように語られるやり取り――
だが、それを聞くカイルの胸には、鈍い違和感が残った。
それはあまりにも――理想的すぎる。
あの慟哭ノ従者と呼ばれる男が、誰かを慈しむなどという姿が想像できなかった。
記録に残るのは冷酷と狂気、そしてベルの名とともに消された数々の痕跡。
カイル「本当に……奴が?」
信じたくない気持ちと、信じざるを得ない描写の狭間で、心が揺れる。
語られた言葉が真実だとすれば、ベルは確かにこの村にいた。
そして、その傍らにいたのは――かの男である可能性が、限りなく高い。
カイルは、白い花が風に揺れる畑を見つめた。
胸の奥で、警鐘が小さく、だが確かに鳴っていた。
真実は、もうすぐ手が届く場所にある――
だが、それを掴んだ先に何が待っているのかは、誰にも分からなかった。