2-47
カイルは焚き火の前に静かに腰を下ろし、冷え込む夜気を肺の奥まで吸い込んだ。
しんと静まり返った森に、焚き火のぱちぱちと爆ぜる音だけが規則正しく響いている。
カイルは小さくため息をつくと、腰に結わえた革袋から携帯食を取り出す。
干し肉と固焼きの黒パンを引きちぎり、ゆっくりと口に運んだ。
味気なく、冷えきったそれでも、胃に何かを入れるだけで幾分か心が落ち着く気がする。
ベルを追う任務に就いて、もうどれほどの時が経っただろうか。
蛇の法衣としての密命。そして、かつての師――エラヴィア・セリスフィアの懇願。
その二重の理由が、彼をこの辺境の地へと導いていた。
だが、導かれたというよりは、選んだのだ。
あの日、任を受け入れたのは他ならぬ自分自身だ。
噛むたびに、乾いた音が口の中に響く。
そのわずかな音さえも、この夜の静寂には重たく感じられた。
焚き火の明かりが揺らめき、影が彼の表情を曖昧にする。
カイル「……ベル」
その名を、小さく呟いた。
その声音には、祈りにも似た熱と、どうしようもない迷いが滲んでいた。
数日前から、途絶えていた噂が再び流れ始めた。
ラベンダーの髪を持つ少女。神か、魔か。
誰にも正体の知れぬ、夢とも幻ともつかぬ存在。
痕跡を辿り、散らばる目撃情報を拾い集めて――
カイルはとある村の外れに辿り着いた。
夜更けにその地に足を踏み入れた彼は、村への訪問を翌朝に回すことにしていた。
焚き火の灯がゆらりと揺れるたび、影が揺れ、過去の記憶が呼び起こされる。
その明滅のなか、カイルは静かに目を閉じ、眠りの訪れを待った。
――そして、夢と覚醒の境に、"それ"は現れる。
いつからだろう。
あの声が、夢に差し込むようになったのは。
闇よりも深く、氷よりも艶やかで、
魂の縁をなぞるように現れる冷たい気配。
男とも女ともつかぬ、
けれど何処か甘やかで、血の温度を忘れさせる声音が囁く。
(あの子が現れた。……そこへ連れて行け)
それが誰の声なのかは分からない。
だが、確かに死を纏っていた。
名も知らぬその存在に、カイルはひとつだけ名を与えている。
――死神の気配、と。
その囁きを聞いた朝は、決まって異変が起きる。
荷の奥深くにしまい込んだ、小さな木箱。
結界布を三重に巻き、封を施したその中にあるのは――“死神の爪”。
忌まわしくも神聖な、ひと欠片の死の証。
厳重に封じたはずのその布が、朝には決まって、わずかに緩んでいる。
まるで、何かが内側から布を押し広げ、こちらへと手を伸ばしてきたかのように。
カイル(……まさか。死神の声が、届いているのか?)
思考の奥底で芽生えた仮説を、カイルはすぐに否定する。
自分は選ばれし聖者ではない。
神の声に触れる器でも、魔導の極みにある至高の術士でもない。
――エラヴィア・セリスフィア。
かつて彼が仕え、学んだ師。
人を超えてなお人を見限らぬ、異質なまなざしを持った者。
彼女ならば、確かに死神の声をも捉えるだろう。
だが、カイルは――違う。
自分はただの傍流の術士。錬金と補助術に偏った、小さな技術の積み重ねでしか歩んでこなかった。
カイル「ありえない」
吐き出すように呟いても、胸のざわめきは消えなかった。
それは恐れなのか、敬意なのか――わからない。
ただ、確かに“それ”は、此岸に近づいていた。
死神。
名を持たぬ気配。
死と共にありながら、恐ろしくも美しいその存在は、踏み入ってはならぬ静謐の領域に棲む。
とその時、カイル不安を和らげるように、優しい風が顔をそっと撫でた。
――カイル、ベルの気配が戻ったわ。
それは、風そのものが言葉を紡いだかのようだった。
澄んだ夜気に混じり、どこか遠くから流れ込んでくる、優しい声。
エラヴィア――誰よりも慈悲深かった師の声音。
その響きには抗いがたい確かさがあった。
まるで、魂の奥底に直接触れてくるような、真実の重みがあった。
夢。声。風。噂。
そして、死神の爪が訴えかけるように揺らめく小さな異変。
それら全てが、ひとつの方向を指し示している。
――ベルが現れた。
確信は、もはや疑いようもなかった。
そして彼女に再び出会う日は、もう、すぐそこまで迫っている。
カイルは静かに目を閉じた。
焚き火の火の粉が、ぱちりと弾けて宙に舞い、星明かりの中で消えていく。
その軌跡すら、運命の一部のように思えた。