2-46
村の片隅、忘れられかけた空き家。
その扉を閉めると同時に、セラフはひとつ息を吐いた。
それは、安堵であり、陶酔でもあった。
――ベルが、すぐ傍にいる。
たった今、自分の指先と声と魔力で、何度も何度も震わせたその存在が。
セラフは、いつものようにベルを愛した。
穢すように、壊すように、奪い尽くすように。
けれど、それだけでは、もはや足りなかった。
──昼間のことだ。
老婆が「奥様にどうか」と、笑って白い花の髪飾りを手渡した。
若い男が声をかけ、視線を、指を這わせるように動かした。
その些細な一瞬一瞬が、セラフの内で毒となって澱のように積もり、
快楽の底に隠れていた嫉妬を、じくじくと熟成させていく。
魔法で塵を払い、結界を張ったこの部屋は――
音も、匂いも、気配すらも殺し尽くして、誰にも触れられない、
ふたりだけの世界になっていた。
その内にある執念が、肉に染みこむほどの重さで膨れあがっていた。
ベルの中に確かにある“何か”──それは外の空気に触れたことで、以前よりも強く、色濃くなっている。
セラフはそれを、肌で、血で、魂で確認した。触れるたびに、底知れぬ悦びが胸の奥から熱をともなって噴き上がる。
この身を焦がすような嫉妬さえ、ベルと共にあるための甘いスパイスに過ぎない。
むしろその熱こそが、ベルという存在をより鮮やかに際立たせるのだ。
幾度目かの終わりの果てに、ベルは紅の海に沈むように気を失った。
その髪にそっと手を差し入れ、絡める指先は、慈しみと狂気をないまぜにして震える。
紫。神秘。呪い。美。無垢で、無防備で、息の音すら愛しい。
セラフ「やはり……君は、どうしようもなく美しい」
吐息が熱を帯び、声は喉奥でとろけるように濁る。
そして白い髪飾りを、そっとベルの髪に添えてやる。
それは、血塗れの花の中に咲いた一輪の雪。
その異様なほどの対比すらも、セラフにとっては陶酔の果て――完璧な美だった。
やがて、セラフは立ち上がる。
けれどその動きは鈍く、何かを手放すことに抗うような、名残の重さを背負っていた。
足音を忍ばせながらも、視線だけは何度もベルの姿へと絡みつく。
白い肌。乱れた髪。微かに動く胸元。
──このまま、誰の目にも触れない深い底に閉じ込めてしまえたなら。
そんな甘やかな妄執が、喉の奥で熱を持って疼いていた。
けれど、それは今ではない。
セラフは深く、冷たく息を吐く。
狂気を押し込み、面に仮面を貼りつけるように。
──そのとき、感じ取った。
空気がわずかに震え、音が湿る。
薄皮一枚越しに、こちらを覗き見るような気配。
欲望の、愚かしい残り香。
昼間──
ベルに軽薄な言葉を投げかけ、下卑た視線を這わせた、あの男。
セラフの口元が、まるで慈悲でも与えるように柔らかく歪んだ。
──滑稽だ。
どれほど手を伸ばそうと、どれほど想いを募らせようと、彼には何一つ届かない。
この空間の熱も、甘さも、狂気すらも──
ベルの中に宿る“何か”すらも、彼の世界には存在しない。
セラフは静かに振り返り、扉に手をかける。
その瞳は冷たい光を宿しながらも、底には淡く赤く燃える熱を潜ませていた。
──あとは、ただ掃除をするだけだ。
静寂の中、扉が音もなく開かれた。
セラフの足音は、まるで夜そのものだった。
音もなく、冷えた空気を切り裂くように男へと忍び寄る。
男が気づく暇もなく、その喉元を鋼のような手で鷲掴みにした。
セラフ「……美しいと思ったか?」
低く、焼けた蜜のように濃密で、耳にまとわりつく声。
その響きは、鋭い針のように鼓膜を貫き、脳の奥へとねじ込まれる。
セラフ「触れたかったか? 欲しかったか?──君はベルを、どう見た?」
指先に力を込めた瞬間、骨が軋む音が微かに鳴った。
森の奥へとずるずると引きずられながら、男は死の気配に包まれ、口元を震わせる。
言葉にならない。喉が焼けつく。ただ、怯えの滲む目だけが必死に懇願を伝えていた。
「……ただ……美しいと……思った……だけ……」
その一言が、何かの堰を切った。
セラフの目が細まり、喉の奥から笑みが滲む。
それは歓喜か、激昂か──区別もつかない、歪んだ感情の坩堝。
セラフ「……それだけか。それなら、褒美をやらねばな」
言葉と同時に、男の身体を大きな岩へと叩きつけた。
衝撃に肺から息が抜け、呻きすら洩らせぬまま、剣がゆっくりと胸元を裂く。
血が、地に花を咲かせるように広がった。
だがセラフの目は冷ややかで、どこまでも静かだった。
ただ一つの感情──「ベルに触れた」という罪に対する、冷酷な裁き。
刃が皮膚を割き、筋を裂き、血が噴き出す。
だが──心臓は外さず、肺も潰さぬ。
ただ、呼吸のたびに胸を貫くような激痛が走るように、
男が意識を手放せぬように、丁寧に、慎重に施された一閃だった。
地に崩れ落ちた男は、血に咽びながら、かすかに目を見開く。
痛みに叫ぶことすら許されず、喉は塞がれ、声も出ない。
ただ、嗚咽のような息が喉奥で掠れ、命の残滓を必死に繋ぎとめる。
セラフ「ベルの美しさを讃えた礼だ」
セラフは静かに囁く。まるで愛を語るように、穏やかに。
セラフ「──朝日を見るまで、生かしてやる」
その言葉は、慈悲ではない。
徹底的な嗜虐の香りを纏った、冷酷な断罪だった。
霞んでいく視界の中、男はセラフの背を見た。
静かに、優美に立ち去るその姿に、理性を超えた恐怖が宿る。
セラフ「……だが、二度と目にすることはない」
足を止めず、背を向けたまま、セラフは続ける。
セラフ「お前の見る朝は、もう世界には存在しない」
その背には、狂気と陶酔の香りが立ちこめていた。
──そして、セラフはふたたびベルの眠る部屋へと還っていく。
愛するものの元へ。
世界のすべてを切り落としても、ただ守り、閉じ込め、愛でるために。