2-45
旅の途中、その日ひと晩の宿を求めて――
セラフとベルは、小さな村へ立ち寄った。
村には一軒きりの古びた雑貨店があり、セラフはそこで食糧や日用品を選んでいた。
店内は木の香りと乾いた麻袋の匂いが混ざり合い、軋む床板が足元で小さく鳴いていた。
一方のベルは、店の外に出ていた。
セラフの視界の端にかろうじて届く距離――小道の先に広がる、白い花々が風に揺れる丘。
その中に静かに立ち、淡い陽射しを浴びながら、花と同じようにただそこに在った。
ふたりの魂は、いくつもの呪いの糸で結ばれている。
その糸は、感情や異変を即座に伝え合い、もしベルに何かがあれば、セラフはたとえ遠く離れていても必ず気づく。
――けれど。
たとえ、それがたった数秒でも。
視界から彼女の姿が消える、その一瞬すら惜しい。
セラフはそんな未練がましさを胸に抱えながら、最後の品を袋に詰めていた。
指先は動いていても、意識はずっと、花の中のベルに向けられていた。
そんな折、年老いた店主の老婆が、ふと優しく微笑みながら口を開いた。
「奥様にどうかね。村のまわりに咲く花を模した髪飾りなんだよ」
差し出されたのは、白い小花をかたどった可憐な飾り。
薄絹のように繊細なつくりで、揺れ動く花弁は風を孕んで踊るようだった。
それがベルの、ラベンダー色の髪に差された姿を思い浮かべた瞬間――セラフの中に、ひどく甘美な感情が湧き上がった。
セラフ「……ありがとう、いただくよ」
セラフは柔らかな笑みを浮かべたまま、それを丁寧に買い取った。
一切の動揺も、昂ぶりも見せず。あくまで物腰は穏やかに。
けれど胸の奥底では、鮮やかな色をした熱情が激しく泡立っていた。
この老婆の目に、ベルが“自分の妻”として映ったこと――
そのささやかな一言に、セラフは喜びを抑えきれなかった。
赤の他人の言葉でさえ、世界の肯定として響いてしまう。まるでこの関係が祝福され、正当化されたような錯覚。
狂気にも似た恍惚が、静かに心の深淵を満たしていく。
買い物を終え、木の扉をくぐり、日差しの中へ出る。
セラフは迷うことなく顔を向ける。
――ベルは、まだそこにいた。
白い花々の揺れる丘の前。
風に髪を遊ばせながら、どこか遠くを見つめて立っていた。
だが――その瞬間。
セラフの視界に、一人の若い男の姿が映った。
畑の縁を歩き、ベルの傍へと近づいていく。
そして、何かを言葉にして彼女へ声をかけた。笑みを浮かべ、親しげに。
その光景が、セラフの胸を一気に冷やした。
声をかけた。
ベルに向けられた視線。
わずか一瞬の、欲。
――その全てが、鋭く尖った棘となって、セラフの心を抉る。
ベルの髪に、肌に、瞳に、一瞬でも触れようとしたその意志。
それが、許せなかった。全身が焼けるような嫉妬と怒りに満たされる。
だが、表には出さない。出すわけにはいかない。
セラフはいつもの穏やかな表情を崩さず、ゆっくりと歩き出す。
その足取りは冷静に見えて、内側では荒ぶる嵐のように激しく煮えたぎっていた。
そして、何の不自然さもなく、男とベルの間に滑り込む。まるで最初からそこにいるべきだったかのように。
セラフの「――妻に、何か?」
声は優しく、丁寧で、礼節すら帯びていた。
しかしその響きの奥底にあるものは、紛れもない――明確な境界。
越えてはならぬ一線を、静かに、だが確実に突きつけるような、狂気の輪郭。
若者は、その目を見て悟ったのだろう。
落胆を隠しもせず、気まずげに一礼し、逃げるように立ち去っていった。
セラフは、去っていく男の後ろ姿には一瞥もくれず、ただベルへと視線を戻す。
その髪に、先ほどの白い髪飾りをそっと重ねて想像する。
ラベンダー色の髪に映えるその姿を思い描くだけで、胸の奥が熱を帯びる。
渦巻くのは、狂おしいほどの嫉妬。
だがその最中、ふと気づいた。
――あの男に声をかけられても、ベルの心は微塵も揺れなかった。
繋がる糸を通して伝わるのは、驚きも、戸惑いも、関心すらもない静寂。
その事実が、セラフの内に歓喜を呼び起こす。
彼女の心を動かせるのは、もはや自分だけ――
それが、確かな真実として胸に刻まれる。
嫉妬と歓喜。
刃のように鋭く、紙一重で裏返る感情。
その狭間で震えるような喜びに身を委ねながら、セラフは静かにベルの隣に立った。
――この場所は、自分のものだと確信しながら。