2-43
セラフは、朝の光に濡れたベルの頬をじっと見つめていた。
まだ眠る彼女のまつげはわずかに震え、頬には乾きかけた涙の跡が残っている。
悪夢か――あるいは、失われた記憶か。
どちらにせよ、彼女自身がその理由に気づいていないのなら、セラフには手の届きようがなかった。
彼らの精神は、呪いの糸で密接につながっている。
痛みも、温もりも、些細な思考の揺れすら共有されるほどに。
けれど、今朝の涙は――その結び目をすり抜けて、どこにも触れずに消えていった。
まるで、セラフの知らない誰かの手が、ベルの奥深くをかすめたように。
その不可解さが、苛立ちとなって胸に渦巻く。
彼女のすべてを手に入れたはずなのに、まだ触れられない場所がある。
それが、あの気配を感じたあの日から、ずっとだ。
セラフの中にひとつ、確かな確信がある。
――ベルはまだ、完全に自分のものではない。
この世界のどこかに、“何か”がいる。
彼女を呼び、あるいは手を伸ばしている存在。
名も形も掴めないそれが、確かにいる。
だからベルは、ときおり遠くを見つめる。
心のどこかで、知らない誰かを――待ち続けてしまう。
その“気配”を、かつて一度だけ感じた。
それきりだ。
手を伸ばせば届きそうで、指の隙間からすり抜けていく。
まるで最初から存在しなかったかのように、幻のように。
けれど、ベルがそれに影響されていることだけは、間違いない。
ならば――探すしかない。
見つけ出して、この手で引き裂き、跡形もなく消し去るまで。
セラフは静かに、けれど確かに決めていた。
ベルを連れて、この閉ざされた世界の外へ出ると。
あの“気配”の根を絶つために。
すべては、ベルを取り戻すために。
――いや、最初からずっと。
彼女を、“完全にする”ために。
「外に出ようか、ベル」
セラフはそう言って、穏やかに微笑んだ。
春の陽射しのように優しく、あたたかな笑み。
けれど、その奥に潜んでいるものを、ベルは知っている。
だから何も言わなかった。
肯定も、否定も。喜びも、拒絶も。
その瞳には、いかなる感情の色も映っていなかった。
セラフは気にした様子もなく、ベルの前にしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「探し物があるんだ。君の中にいる“何か”、それを見つけたい」
ベルはその言葉に、ほんの少しだけ首を傾げた。
「見つけて……どうするの?」
その声には温度がなかった。
まるで自分のことではないかのように。
まるで、自分の中に“何か”があることすら――どうでもいいと言わんばかりに。
セラフは、問われた言葉に静かに応じた。
「見つけて――引き剥がして、君のすべてを僕のものにする」
その声はあくまで穏やかで、まるで愛の告白のようだった。
ベルは視線を伏せ、ふと笑みを浮かべたようにも見えた。
それが諦めなのか、ただの神経の揺らぎなのか――本人にすら、わからなかった。
やがて、彼女は黙ったまま立ち上がる。
セラフが差し出した外套を、まるで儀式の一環のように、静かに肩へと掛けた。
小さな足音が、重い沈黙の中を扉へと向かっていく。
セラフはそれを追うように歩み、扉に手をかけた。
きしむ音とともに開いた扉の隙間から、冷たい外気が頬を撫でる。
目の前に広がるのは、どこまでも濁り、どこまでも広がる世界。
だがセラフの視線は、始終ベルだけを捉えていた。
「行こう、ベル」
ベルは何も言わず、ただ静かに、一歩を踏み出した。