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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
風の街に、異変が訪れた。
それを、エラヴィアは「風が匂いを変えた」と語った。
空気はひっそりと息を潜め、日々の喧騒はどこか沈み込んでいく。
街角を流れる噂だけが、静かに、しかし確実に人々の心へと染みわたり始めていた。
「……また神殿の神官が、一人消息を絶ったらしい」
「いや、遺体は見つかったらしいが、目も舌も喰われてたとか」
誰が言い出したとも知れぬ言葉は、まるで毒のように耳へ染み込み、見えない不安となって街を覆っていく。
ベルは静かに通りを歩いていた。
深くフードを被り、すれ違う者たちの視線を気にする様子もなく、ただ風の匂いに意識を傾けている。
――血と、焦げた油の匂い。
神の名を唱える者が、ひとり、またひとりと消えていく。
けれどこの街では、その異臭すらも、すでに日常へと溶け込んでいた。
ベルは塔へと向かい、静かに執務室の扉を押し開けた。
ラベンダー色の髪が、フードを取った瞬間にふわりと揺れる。
ベル「エラヴィア……街に、嫌な気配が満ちているわね」
書類に目を落としていたエラヴィアは、手を止めて顔を上げ、まっすぐにベルを見つめた。
エラヴィア「ギルドに出入りする声や、風の精霊も伝えている。
“黒き観測者”が、この街の空気を濁らせようとしているわ」
その声は低く静かで、風のように鋭い。
エラヴィア「彼らは、表向きには新任の司祭や旅の修道士を装っている。
でも正体は、神を否定する刃。
そしてこの街の異変の先に、狙いを定めているのは……あなたよ」
ベルはわずかに頷き、目を伏せて小さく応じた。
ベル「……平穏を望んだ分だけ、代償が来るのよね」
その声は穏やかだったが、深い諦念と覚悟が滲んでいた。
その声音だけで、彼女がどれほどの道を歩いてきたかが伝わってくる。
エラヴィアは窓辺に視線を向けながら、さらに言葉を重ねた。
エラヴィア「この街に漂う黒い気配は、ひとむひとつは大きな力じゃない。
でも、あまりに数が多すぎて……精霊たちの囁きさえ追いつかないのよ」
彼女は両手を軽く組み、少し眉をひそめる。
エラヴィア「さらに……数匹の“蛇”がこの街に入り込んでいる」
ベル「……《蛇の法衣》」
エラヴィアは頷き、その目がベルを見据え、警戒と覚悟の色を宿す。
エラヴィア「彼らはまだ、様子をうかがっている段階。獲物を見定め、狙いを定めてから動くはず」
ベルは視線を落とし、静かに呟いた。
ベル「エラヴィア……貴女とこの街に迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないわ」
その言葉には、街の平穏を自分が汚してしまったことへの、深い悔いと悲しみが宿っていた。
その想いを受け止めながら、エラヴィアはやるせない表情を浮かべる。
エラヴィア「私もベルのためにもっと大きく動きたいのだけど、このギルドの長という立場がそれを許さない。
だからもどかしいのよ」
ベルは顔を上げて、ゆっくりと微笑んだ。
ベル「……あなたには、もう十分助けられているわ。あの燃え落ちた村での消耗も癒えたし、だから――近いうちに旅立とうと思ってる」
エラヴィアは静かに頷き、やわらかく微笑んだ。
エラヴィア「そう……あなたの行く道に、少しでも優しい風が吹くことを願っているわ」
そうして、静かな部屋に決意と優しさが満ちていった。
そのとき、外から鐘の音が響いてきた。
それは祈りを告げる鐘ではない。
死者を弔うための、冷たく重い音だった。