2-39
最初は、まだ抗う力があった。
ベルは、心の奥底から拒んだ。
セラフの魔力が触れるたび、内側がひどく冷たくなっていく。
まるで凍える指先が意識の奥に差し込まれ、思考をひとつひとつなぞり――静かに、確実に、書き換えていく。
それは呪いだった。
けれど同時に、彼なりの「愛」でもあった。
自由のきかない身体のなかで、心は何度も叫んだ。
怒鳴って、睨みつけて、拒絶して――それでも何ひとつ届かない。
ここは彼の魔力で閉じられた空間。
外界との繋がりはなく、助けも来ない。
空気に満ちるのは彼の意志で、時間すらも従属している。
やがて、叫びは止んだ。
喉が潰れたからではない。
「無意味だ」と、理解してしまったから。
魔力に蝕まれた心は、少しずつ鈍くなっていく。
痛みも、怒りも、恐れも――打ち寄せては引いていく波のように、徐々に色を失っていった。
気づけば、何も感じなくなっていた。
思考の隙間に、セラフの声が染み込んでくる。
それは言葉ではなかった。
温もりに似た、けれど冷たく、優しさの仮面をかぶった命令。
――君は僕のものだ
――もう、何も考えなくていい
――ただ、そばにいてくれれば、それでいい
涙は流れなかった。
感情はもう、とっくに底を打っていた。
そして、ベルは諦めた。
自分の意思を。心のかたちを。世界とのつながりを。
呪いの糸がそのすべてを縛りつけ、セラフとベルは、決して離れることのない存在となった。
彼の腕に抱かれるたび、
自分の体温が、少しずつ彼のものに染まっていくのを、
何も言わずに、ただ――受け入れていた。
彼女はもう、“ベル”ではなかった。
けれど、生きているふりをした。
セラフが望む通りに。愛されるように。微笑んで。
――そうして、偽りの蜜月が始まった。
朝、目を覚ますと、すでに陽の光が差し込んでいた。
けれどそれが“本物の朝”ではないことを、ベルは知っている。
この部屋には、窓も空も存在しない。
あるのはただ、セラフの魔力によって精密に再現された、完璧な幻想。
シーツはいつも心地よく温かく、
衣服は肌に優しい絹地でできている。
食事もまた、彼女の好みに合わせて用意される――
香り高いハーブのスープ、ふんわりとしたパン、
そして甘すぎない果実のジャム。
セラフは毎朝、穏やかに「おはよう」と囁き、ベルの額にキスを落とす。
その指先で髪を撫でながら、どこか遠くを見るような目で、静かに言う。
セラフ「君がここにいるだけで、僕は本当に幸せだよ」
セラフは微笑む。まるで子どもが宝物を抱きしめるように、無垢で無邪気な笑みだった。
ベルは笑わない。けれど、頷く。
笑う理由はなかった。否定する理由も、もう失われていた。
言葉は少ない。
けれど、セラフはよく語った。
嬉しそうに、心から楽しげに。
ベルと出会う前のこと、失ったもの、手にしたもの。
そしていつか、神なき世界で二人だけの場所を探す夢を、何度も繰り返し語った。
ベルは黙って耳を傾ける。
時折求められる返事に、「ええ」「そうね」「それが、あなたの望みなら」と静かに応じる。
セラフはそのたびに満足そうに微笑み、嬉しそうに目を細めた。
本が並ぶ棚。
絶えず咲き続ける庭園。
音を失ったままのピアノ。
それらすべてが、セラフの魔力によって保たれた完璧な空間。
何ひとつ欠けていない――ただ、ベルだけが壊れていた。
彼の優しさは、甘く、息が詰まるほどに完璧だった。
その言葉は、微笑と共にベルを包み、彼女の輪郭をゆっくりと削っていく。
夜になると、セラフは笑いながら彼女の髪にキスを落とし、腕の中へと抱きしめる。
セラフ「君が僕を受け入れてくれて、嬉しいよ。……夢みたいだ」
ときに瞳を細め、くすくすと喉を鳴らして笑う。
まるで誰かと秘密を分かち合うように。
ベルは目を閉じる。
答えはしない。
もう、自分の意思で答えを選ぶという感覚が残っていなかった。
“ここに在る”――それだけが、彼女に残された唯一の真実だった。