2-38
“彼女を守る者”――その言葉に、カイルの脳裏には、ベルに死神の祝福を授けたという存在が浮かぶ。
ただ思い描くだけで、空気が僅かに冷えた気がした。
エラヴィアは、彼の沈黙の中にある思考を見抜いたように、ゆるやかに頷く。
エラヴィア「ベルは今、隠されている。でも、きっと導いてくれるはず。」
“ベル”――その名が発せられた瞬間、カイルの心がかすかに波打つ。
長く閉じていた感情が、音もなく軋む。
カイル「……先生は、なぜ彼女を……?」
問いかけながら、自分の声がほんの少し震えていることに気づく。
エラヴィア「彼女は……古き友人。とても大切なの。」
その短い言葉に、年経た大魔導士の静かな祈りが込められていた。
揺るがぬまなざしと、微かに滲む寂しさ。
それ以上、カイルは何も尋ねられなかった。
誰かを“守りたい”と願うその想いの深さに、言葉が失われていく。
エラヴィア「……どうか、彼女を。」
カイル「……わかりました。」
短い返事。
その言葉の奥には、確かに決意と迷いが混ざり合っていた。
自分はベルをどうしたいのか――助けたいのか、それとも試したいのか。
カイル「先生。」
エラヴィア「ええ、カイル?」
カイル「……俺は、今も、あなたの教えを捨てていません。」
それは告白ではなかった。
過去を否定していないという証明。
今の自分が、すべて過ちではないという、ささやかな誓い。
エラヴィアの瞳が、わずかに細められる。
それは、教え子の魂が今も失われていないことを知った師の、静かな誇りの微笑みだった。
月はない。
けれど、風は確かに吹いていた。
塔の裏庭を一歩出た瞬間、世界の空気が変わった。
気づかぬうちに、エラヴィアの風の結界に守られていたのだろう。
風のざわめきが耳に戻り、魔力の流れが肌をかすめる。
だが、それらをすべてかき消すような“気配”が、カイルの内側をじわじわと熱く撫でていた。
小箱。
エラヴィアから託されたそれを、ゆっくりと懐から取り出す。
封印されているはずなのに、箱からは微かに軋むような圧が漏れ出していた。
空間が揺らぎ、空気が緊張する。
ベルの魔力に似ている――けれど、決定的に異なる。
もっと深く、もっと冷たい。
人でも、魔物でも、精霊でもない。
根源的で、抗いがたい甘美を纏った“死”の気配。
それが、確かにこの中にあった。
カイルの喉が、乾いた音を立てる。
未知だ。
この感覚、この法則、この魔力――どこにも記録のない“何か”。
全てを暴きたい。構造を、原理を、根源を。
それがどれほど危険であろうと、知りたい。
知識の先に待つ“理解”こそが、彼の欲望であり、存在の証明だった。
カイルの理性が、封印を止めようとする。
だが、知の渇望がそれをねじ伏せる。
カイルはそっと、箱の蓋に指をかけた。
エラヴィアの風の印が、かすかに鳴動した。
それに呼応するように、封じられていた“それ”――黒ずみながらも滑らかな曲線を描く、一本の爪がゆっくりと姿を現す。
その瞬間、意識がふっと遠のきかけた。
頭の奥が痺れ、視界の色が淡く変調する。まるで世界そのものが、その存在を中心に塗り替えられていくかのようだった。
それは、美しかった。
言葉や理屈を拒む、美。
冷たく、静かで、それでいて圧倒的な存在感。
誰が否定しようとも、それはこの世に在るべき形だった。
カイルの指が、無意識にその爪へと伸びかけ――はっとして、止まる。
カイル「……欲しい」
漏れた言葉に、自分でも驚いた。
だが、それは疑いようもない本心だった。
手に入れたい。
この異物を、自分のものとして抱き締めたい。
触れたい。砕きたい。分解したい。そして、組み込んでしまいたい。
自分という存在の一部に、完全に融合させてしまいたい。
その欲望は、渇きよりも熱に近かい。
それは、ベルを初めて見たときと――同じだった。
守りたい。壊したい。知りたい。奪いたい。
矛盾に満ちた感情が、彼女を理解したいという強烈な欲求に収束していく。
その想いが、いつの間にか、この爪にも向けられていた。
カイルは深く息を吐き、静かに爪を箱へ戻す。
懐から取り出した“偽装印”を施した布を取り出し、慎重に、丁寧に包み込む。
自身の魔力の気配すら一切漏れぬよう、二重、三重と結界を重ねながら。
カイル「……こうでもしないと、取り込まれる」
呟いた声はかすかに震え、冷えた夜気に吸い込まれていった。
爪は、静かに眠りについた。
だが、カイルの内側に芽吹いた渇望は――まだ、醒めていなかった。