表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/316

2-37

夕方急に降り始めた雨が上がり、夜の街に湿った静けさが降りていた。


灯りの落ちた教会の裏手、濡れた石畳の上で、カイルはひとり、手の中の短剣を見つめていた。


それは、彼女が残していったもの――


姿を消したまま、戻らぬベル。どれほど探しても、気配すら掴めない。


けれど、この刃だけは確かに告げていた。彼女が“そこにいた”という証を、今も脈打つように微かな光で示しながら。


その震えるような輝きが、カイルの指先を通じて、言葉にならない何かを訴えかけてくる。


ベルの痕跡を追い求め、彼は風の街へと戻っていた。わずかな噂話でも構わない。

どこかに、彼女と繋がる手がかりがあると信じて。


カイル「……ベル。」


名を呼ぶ声は、冷えた夜気に溶けていった。

返事などあるはずもない。

それでも、確かめずにはいられなかった。


この刃に、彼女の“意思”がまだ残っている気がして。


後悔か、執着か、それとも贖罪か――。

自分が何を求め、何を守ろうとしているのか。

その輪郭は、いつの間にか曖昧になりつつあった。


そして、風が吹いた。

どこか懐かしい香りが頬をかすめ、次の瞬間、耳元に静かな囁きが落ちてくる。


エラヴィ(……来なさい。旧塔の裏庭で待っている。)


思考が、ぴたりと止まった。

その声を、忘れるはずがなかった。


――エラヴィア・セリスフィア。


かつて教えを受け、その背中を追い続けた日々。

自分がまだ「まっすぐだった」と言える、数少ない記憶のひとつ。


古びた魔術塔の裏庭は、かつてと変わらぬ静けさに包まれていた。

風も音も、時間さえも止まってしまったような、凛とした空気。

そこに足を踏み入れたとき、カイルの胸にはひとつの疑念が渦巻いていた。


――なぜ今、彼女は自分を呼んだのか。


苔むした石段を一歩ずつ下りるたびに、胸の奥に眠っていた記憶が静かに目を覚ます。

失ったもの、手放したはずの想い。

そして、抗いがたい憧憬が、呼吸を詰まらせる。


そして――彼女はそこにいた。


青銀の法衣をまとい、月明かりを受けて銀白の髪が柔らかく揺れている。

その佇まいは、変わらず気高く、どこか儚げで、

まるで触れれば壊れてしまいそうな、静謐な美しさをたたえていた。


だが、視線が交わった瞬間――カイルははっきりと感じた。

あの頃とは違う、名状しがたい距離が、ふたりの間に横たわっていることを。


カイル「……先生。」


喉の奥から絞り出すように、そう呼んだ。


その呼び方は、カイルにとって祈りのようなものだった。

裏切りと選択の果てに歩んできた日々のなかで、たったひとつ、穢してはならない記憶。


灰色の空が塔の石壁を鈍く照らし、風が裏庭の草花を静かに揺らしている。

遠くで鳥が一声鳴き、再び沈黙が満ちた。

その中に、優しい声が落ちる。


エラヴィア「……久しぶりね、カイル。」


淡い光に照らされた彼女の姿は、まるで夢の中の幻のようだった。

銀白の髪が風に揺れ、青銀のローブが静かに波打つ。

表情は柔らかい。けれど、その声には、隠しきれない痛みが滲んでいた。


胸の奥で、かつての教えが音もなく蘇る。

それが、自分にとって何だったのか――

言葉にならない思いが、喉の奥に詰まり、息さえ苦しくなる。


エラヴィア「あなたが“蛇の法衣”に身を落としたと聞いたとき……私の教えが、あなたに何の意味も持たなかったのかと……正直、そう思ったわ。」


その言葉は、まるで冷たい刃のようだった。

過去を暴かれたような痛みが走る。

けれど、それは嘘ではなかった。むしろ、真実だからこそ、心に深く刺さる。


カイル「……後悔はしていません。」


絞り出すような声だった。だが、その意思は揺るがない。

エラヴィアは小さく息をつき、どこか懐かしむように微笑んだ。


エラヴィア「ええ。あなたがそういう子だったのは、知ってる。」


古びた石段の上で、彼女は変わらぬ姿で佇んでいた。

まるで時間だけが彼らを追い越していったかのように。


“蛇の法衣”――禁忌とされる知を求め、あらゆる常識を踏みにじる組織。

そこへ自ら足を踏み入れたのは、すべてを知りたいという衝動の果てだった。


だが、エラヴィアはその選択を責めるでもなく、否定するでもなく。

ただ、変わらぬ眼差しで彼を見つめていた。


やがて、彼女は静かに本題を切り出した。


エラヴィア「これを彼女に渡して。私も……“彼女を守る者”に託されたの。」


エラヴィアは胸元から小さな箱を取り出す。

それは彼女の“風の印”によって厳重に封じられており、ただの物ではないことがひと目でわかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ