2-37
夕方急に降り始めた雨が上がり、夜の街に湿った静けさが降りていた。
灯りの落ちた教会の裏手、濡れた石畳の上で、カイルはひとり、手の中の短剣を見つめていた。
それは、彼女が残していったもの――
姿を消したまま、戻らぬベル。どれほど探しても、気配すら掴めない。
けれど、この刃だけは確かに告げていた。彼女が“そこにいた”という証を、今も脈打つように微かな光で示しながら。
その震えるような輝きが、カイルの指先を通じて、言葉にならない何かを訴えかけてくる。
ベルの痕跡を追い求め、彼は風の街へと戻っていた。わずかな噂話でも構わない。
どこかに、彼女と繋がる手がかりがあると信じて。
カイル「……ベル。」
名を呼ぶ声は、冷えた夜気に溶けていった。
返事などあるはずもない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
この刃に、彼女の“意思”がまだ残っている気がして。
後悔か、執着か、それとも贖罪か――。
自分が何を求め、何を守ろうとしているのか。
その輪郭は、いつの間にか曖昧になりつつあった。
そして、風が吹いた。
どこか懐かしい香りが頬をかすめ、次の瞬間、耳元に静かな囁きが落ちてくる。
エラヴィ(……来なさい。旧塔の裏庭で待っている。)
思考が、ぴたりと止まった。
その声を、忘れるはずがなかった。
――エラヴィア・セリスフィア。
かつて教えを受け、その背中を追い続けた日々。
自分がまだ「まっすぐだった」と言える、数少ない記憶のひとつ。
古びた魔術塔の裏庭は、かつてと変わらぬ静けさに包まれていた。
風も音も、時間さえも止まってしまったような、凛とした空気。
そこに足を踏み入れたとき、カイルの胸にはひとつの疑念が渦巻いていた。
――なぜ今、彼女は自分を呼んだのか。
苔むした石段を一歩ずつ下りるたびに、胸の奥に眠っていた記憶が静かに目を覚ます。
失ったもの、手放したはずの想い。
そして、抗いがたい憧憬が、呼吸を詰まらせる。
そして――彼女はそこにいた。
青銀の法衣をまとい、月明かりを受けて銀白の髪が柔らかく揺れている。
その佇まいは、変わらず気高く、どこか儚げで、
まるで触れれば壊れてしまいそうな、静謐な美しさをたたえていた。
だが、視線が交わった瞬間――カイルははっきりと感じた。
あの頃とは違う、名状しがたい距離が、ふたりの間に横たわっていることを。
カイル「……先生。」
喉の奥から絞り出すように、そう呼んだ。
その呼び方は、カイルにとって祈りのようなものだった。
裏切りと選択の果てに歩んできた日々のなかで、たったひとつ、穢してはならない記憶。
灰色の空が塔の石壁を鈍く照らし、風が裏庭の草花を静かに揺らしている。
遠くで鳥が一声鳴き、再び沈黙が満ちた。
その中に、優しい声が落ちる。
エラヴィア「……久しぶりね、カイル。」
淡い光に照らされた彼女の姿は、まるで夢の中の幻のようだった。
銀白の髪が風に揺れ、青銀のローブが静かに波打つ。
表情は柔らかい。けれど、その声には、隠しきれない痛みが滲んでいた。
胸の奥で、かつての教えが音もなく蘇る。
それが、自分にとって何だったのか――
言葉にならない思いが、喉の奥に詰まり、息さえ苦しくなる。
エラヴィア「あなたが“蛇の法衣”に身を落としたと聞いたとき……私の教えが、あなたに何の意味も持たなかったのかと……正直、そう思ったわ。」
その言葉は、まるで冷たい刃のようだった。
過去を暴かれたような痛みが走る。
けれど、それは嘘ではなかった。むしろ、真実だからこそ、心に深く刺さる。
カイル「……後悔はしていません。」
絞り出すような声だった。だが、その意思は揺るがない。
エラヴィアは小さく息をつき、どこか懐かしむように微笑んだ。
エラヴィア「ええ。あなたがそういう子だったのは、知ってる。」
古びた石段の上で、彼女は変わらぬ姿で佇んでいた。
まるで時間だけが彼らを追い越していったかのように。
“蛇の法衣”――禁忌とされる知を求め、あらゆる常識を踏みにじる組織。
そこへ自ら足を踏み入れたのは、すべてを知りたいという衝動の果てだった。
だが、エラヴィアはその選択を責めるでもなく、否定するでもなく。
ただ、変わらぬ眼差しで彼を見つめていた。
やがて、彼女は静かに本題を切り出した。
エラヴィア「これを彼女に渡して。私も……“彼女を守る者”に託されたの。」
エラヴィアは胸元から小さな箱を取り出す。
それは彼女の“風の印”によって厳重に封じられており、ただの物ではないことがひと目でわかった。