2-36
風が、古びた窓の格子をかすかに揺らす。
その音は静かなはずなのに、今のエラヴィアには妙に耳についた。
まるで、胸の奥に沈んだ不安を映し出すかのように。
ベルが姿を消して、どれほどの時が過ぎただろうか。
日々は容赦なく流れ、魔法ギルドの長としての責務は積もる一方だった。
それでも――彼女のことを、忘れたことは片時もなかった。
不死の魔女ベル。
その名の裏にある、真実を知る者はごくわずか。
エラヴィアは、その「ごくわずか」の一人だった。
知っているがゆえに、安易に動くことはできなかった。
下手に動けば、彼女の正体に興味を持つ者を呼び寄せてしまう。
そしてそれは、ベルにとって致命的な危険となる。
エラヴィア「……私は、あなたに助けられたのに」
ギルドマスターという立場は、時に枷にもなる。
公に動けば注目を集める。
だからこそ、彼女はあえて、かつての自身の弟子であり、今は“蛇の法衣”と呼ばれる組織に身を投じた者へと密かに連絡を取った。
忌避すべき選択だった。
許し難い背信でもあった。
だがそれでも――ベルの無事を願う想いに、偽りはなかった。
エラヴィア「……ベルは、強い。けれど、強さは時に、脆さにもなる……」
深く息を吸い、エラヴィアは目を閉じる。
意識を内へと沈めるように、静かに呼吸を整えた。
彼女の肌に、まだかすかに残る気配がある。
あの日、命をつなぐためにベルが流し込んだ魔力の残滓――
あれはただの魔力ではなかった。
圧倒的な純度。底知れぬ深さ。そして、どこか哀しみに満ちた静けさ。
精神を深く、さらに深く沈めていく。
まるで、澄んだ水面を静かに潜っていくように――
エラヴィアの意識は、層を重ねて沈降していく。
深層意識の、そのさらに奥底。
言葉も理も届かぬ、純粋な“感覚”だけが支配する領域。
そこに――微かに、灯っていた。
あの日、彼女の命を救った特異な魔力の痕跡。
それはベルのものに違いない。そう確信した、その瞬間だった。
“何か”が、這い寄ってきた。
闇の中に広がる、異様な静寂。
深海の底に沈められた、冷たい鎖。
それに絡みつくような声が、形なき囁きとなって、エラヴィアの精神を濡らしていく。
エラヴィア「あなたは……誰かしら?」
思わず息を呑んだ。
千年の魔道を極めた自分でさえ知らぬ、異質の気配。
そこに在るのは、ベルのものではない。
それはおそらく“死神”――
名も知らぬ存在。
けれど、確かにあの少女と共に在る、冷ややかで、途方もなく遠い何か。
その気配は、本来、感情など持たぬはずだった。
永遠を見下ろす存在が、感情など必要とするはずもない。
だが――
「……あの子は……ベルは、どこに……?
風を読む者よ。賢しき導き手よ……この声に、どうか応えてほしい。
……私は……今のままでは、何もできぬ……この世界にすら、届かない……」
掠れた声。
わずかに揺れる語尾。
それは、確かに“狼狽”していた。
戸惑い。焦燥。
名状しがたい微細な揺らぎ――それでもエラヴィアには、はっきりと分かった。
それは、感情だ。
エラヴィアは、さざ波の合間に揺蕩うような声に、耳を澄ませる。
「……爪を、渡してくれ……あの子に……私の“在処”を……知らせてほしい」
その言葉が、湖面に落ちる露のように沈みきった瞬間。
視界の隅で、幽かに光が揺らめいた。
黒き闇の中、まるで夜空に浮かぶ月影のごとく、白く細い手が現れる。
その指先が静かに持ち上がり――やがて、一枚の爪を、音もなく剥がした。
痛みの気配はどこにもなかった。
それはただ、静かに世界から切り離されていく“存在の一部”。
まるで遥か遠くの星を封じ込めた永劫の闇の色をしたその爪は、微かに輝き死の気配を纏いながらも、どこか神聖で、美しかった。
「……私は……触れることができない。許されていない……だから……おまえに託す……」
語られる声には、霧の奥から響いてくるような遠さがあった。
それはこの世の理からほんのわずかに外れた、夢の狭間の囁き。
これは――信頼だろうか。
いや、執着か。
それは“ベル”という存在を、手放すことさえ恐れる、何かもっと深く、名もなき感情――
理解を拒むその異質さと、感情のようで感情でない揺らぎに、
エラヴィアの胸の奥が、静かに、けれど確かにざわめいた。
彼女は、長い間――死神を憎んでいた。
あの存在が、ベルという少女を“不老不死”という名の地獄に堕とした元凶だと、信じて疑わなかった。
誰よりも冷酷で、非人間的で、感情すら持たぬ理不尽な理そのものだと。
けれど今――目の前で、あの子の安否を案じ、名も告げず、爪という形で“想い”を託す姿を見て、
彼女の中で、何かが静かに軋んだ。
これは本当に、“ベルを呪縛する者”の姿なのだろうか?
あの子を閉じ込め、永遠に縛るだけの存在が、ここまで――傷つきながら、それでも触れようとするだろうか?
心の奥で、信じていた何かに、確かに亀裂が走った。
信念の裂け目に吹き込む風が、今まで見ようとしなかった問いを運んでくる。
そして――。
意識が現実に引き戻された瞬間、目の前に“それ”はあった。
まるで空間そのものが黒を吸い込んだような、深淵の闇を宿した爪。
一片の硬質な輝きが、ゆっくりと空中から舞い落ちる。
まるで羽でもあるかのように、静かに、迷いもなく――エラヴィアの掌へと収まった。
それは、確かに死神ルーヴェリスが自ら引き剥がし、託した“痕跡”。
彼の在処を指し示し、彼の存在の一端を映す、決して消えぬ煌めき。
言葉はなかった。
けれど、沈黙の中で伝わった“何か”が、確かにあった。
エラヴィアは目を閉じる。
掌に感じる冷たさと重みに、形を持たぬ感情を映しながら――静かに、その爪に手を重ねた。