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風が、古びた窓の格子をかすかに揺らす。



その音は静かなはずなのに、今のエラヴィアには妙に耳についた。

まるで、胸の奥に沈んだ不安を映し出すかのように。


ベルが姿を消して、どれほどの時が過ぎただろうか。

日々は容赦なく流れ、魔法ギルドの長としての責務は積もる一方だった。



それでも――彼女のことを、忘れたことは片時もなかった。



不死の魔女ベル。

その名の裏にある、真実を知る者はごくわずか。



エラヴィアは、その「ごくわずか」の一人だった。

知っているがゆえに、安易に動くことはできなかった。


下手に動けば、彼女の正体に興味を持つ者を呼び寄せてしまう。

そしてそれは、ベルにとって致命的な危険となる。



エラヴィア「……私は、あなたに助けられたのに」



ギルドマスターという立場は、時に枷にもなる。

公に動けば注目を集める。



だからこそ、彼女はあえて、かつての自身の弟子であり、今は“蛇の法衣”と呼ばれる組織に身を投じた者へと密かに連絡を取った。



忌避すべき選択だった。

許し難い背信でもあった。

だがそれでも――ベルの無事を願う想いに、偽りはなかった。




エラヴィア「……ベルは、強い。けれど、強さは時に、脆さにもなる……」



深く息を吸い、エラヴィアは目を閉じる。

意識を内へと沈めるように、静かに呼吸を整えた。


彼女の肌に、まだかすかに残る気配がある。

あの日、命をつなぐためにベルが流し込んだ魔力の残滓――

あれはただの魔力ではなかった。



圧倒的な純度。底知れぬ深さ。そして、どこか哀しみに満ちた静けさ。



精神を深く、さらに深く沈めていく。


まるで、澄んだ水面を静かに潜っていくように――

エラヴィアの意識は、層を重ねて沈降していく。


深層意識の、そのさらに奥底。

言葉も理も届かぬ、純粋な“感覚”だけが支配する領域。



そこに――微かに、灯っていた。

あの日、彼女の命を救った特異な魔力の痕跡。

それはベルのものに違いない。そう確信した、その瞬間だった。




“何か”が、這い寄ってきた。



闇の中に広がる、異様な静寂。

深海の底に沈められた、冷たい鎖。

それに絡みつくような声が、形なき囁きとなって、エラヴィアの精神を濡らしていく。




エラヴィア「あなたは……誰かしら?」



思わず息を呑んだ。

千年の魔道を極めた自分でさえ知らぬ、異質の気配。

そこに在るのは、ベルのものではない。



それはおそらく“死神”――

名も知らぬ存在。

けれど、確かにあの少女と共に在る、冷ややかで、途方もなく遠い何か。



その気配は、本来、感情など持たぬはずだった。

永遠を見下ろす存在が、感情など必要とするはずもない。

だが――



「……あの子は……ベルは、どこに……?

風を読む者よ。賢しき導き手よ……この声に、どうか応えてほしい。

……私は……今のままでは、何もできぬ……この世界にすら、届かない……」



掠れた声。

わずかに揺れる語尾。



それは、確かに“狼狽”していた。

戸惑い。焦燥。

名状しがたい微細な揺らぎ――それでもエラヴィアには、はっきりと分かった。



それは、感情だ。



エラヴィアは、さざ波の合間に揺蕩うような声に、耳を澄ませる。


「……爪を、渡してくれ……あの子に……私の“在処”を……知らせてほしい」


その言葉が、湖面に落ちる露のように沈みきった瞬間。

視界の隅で、幽かに光が揺らめいた。



黒き闇の中、まるで夜空に浮かぶ月影のごとく、白く細い手が現れる。

その指先が静かに持ち上がり――やがて、一枚の爪を、音もなく剥がした。



痛みの気配はどこにもなかった。


それはただ、静かに世界から切り離されていく“存在の一部”。

まるで遥か遠くの星を封じ込めた永劫の闇の色をしたその爪は、微かに輝き死の気配を纏いながらも、どこか神聖で、美しかった。



「……私は……触れることができない。許されていない……だから……おまえに託す……」



語られる声には、霧の奥から響いてくるような遠さがあった。

それはこの世の理からほんのわずかに外れた、夢の狭間の囁き。



これは――信頼だろうか。



いや、執着か。

それは“ベル”という存在を、手放すことさえ恐れる、何かもっと深く、名もなき感情――




理解を拒むその異質さと、感情のようで感情でない揺らぎに、

エラヴィアの胸の奥が、静かに、けれど確かにざわめいた。




彼女は、長い間――死神を憎んでいた。



あの存在が、ベルという少女を“不老不死”という名の地獄に堕とした元凶だと、信じて疑わなかった。

誰よりも冷酷で、非人間的で、感情すら持たぬ理不尽な理そのものだと。



けれど今――目の前で、あの子の安否を案じ、名も告げず、爪という形で“想い”を託す姿を見て、

彼女の中で、何かが静かに軋んだ。



これは本当に、“ベルを呪縛する者”の姿なのだろうか?

あの子を閉じ込め、永遠に縛るだけの存在が、ここまで――傷つきながら、それでも触れようとするだろうか?



心の奥で、信じていた何かに、確かに亀裂が走った。

信念の裂け目に吹き込む風が、今まで見ようとしなかった問いを運んでくる。





そして――。





意識が現実に引き戻された瞬間、目の前に“それ”はあった。




まるで空間そのものが黒を吸い込んだような、深淵の闇を宿した爪。

一片の硬質な輝きが、ゆっくりと空中から舞い落ちる。

まるで羽でもあるかのように、静かに、迷いもなく――エラヴィアの掌へと収まった。



それは、確かに死神ルーヴェリスが自ら引き剥がし、託した“痕跡”。

彼の在処を指し示し、彼の存在の一端を映す、決して消えぬ煌めき。



言葉はなかった。

けれど、沈黙の中で伝わった“何か”が、確かにあった。




エラヴィアは目を閉じる。

掌に感じる冷たさと重みに、形を持たぬ感情を映しながら――静かに、その爪に手を重ねた。

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